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未来の私
緩んだ私の奥の むず痒いところ 死の国は今日も 濁った古い池のかたち 音もなく その水面に 映り続けているところ 河骨の花の、照らす黄色い死に際に 死臭の綾なす道よ 丸い葉と曲がった茎と か細く太い道の辻を 黒ずんで痩せた小さな鯉が行く 右へ行けば左、左は前で前から上へ 下から回り斜めに抜ける 花の実体、葉の鏡像 死んでしまった私が今や 甘くつぶやく泡の ぴんくの泡の もうどうなってもいい泡に 囲まれて動かなくなる ぴくりとも 動けなくなる 中身のない思い出が 口を閉じて語らないまま繁茂し 葉脈を分岐させながら ひたすらに裸の背中をなで下ろす 気持ちいい 気持ちいいけど気持ちいい そういう 匂い、うろんな幸せの水を すいっと抜ける釘のような形の 魚影が もう少しだけ未来の私 死の国の死の国な私
未来の私 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1358.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-23
コメント日時 2017-03-11
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
人は誰でも最後に死ぬ。筆者は自らの未来に訪れる死について考える。彼にとって死の国は濁った古池のイメージだ。密生した河骨の迷路を泳ぐ小さな鯉。筆者は鯉であり、繁殖する河骨であり、濁った古池でもある。死の国で死の国と同化することにより、死の向こう側へ突き抜けてしまったかのような「私」は、実に静かで穏やかである。 最初に読んだ時はまずつげ義春の「沼」、それからジャックスの「からっぽの世界」を連想しました。後者は海が舞台ですが、私の中では非常に近いイメージだと思えました。試しに聴きながら再読してみましたが、つげ義春風に言えば「あなたすてきよ。いいかんじよ」でありました。
0もとこさん、コメントありがとうございます。 そう、その通りなんですけど。「あなたすてきよ。いいかんじよ」は「海辺の叙景」ですね?森田童子の「雨のクロール」ってのもありましたね! 書いたときには思いもよりませんでしたが、そういわれてみればこの系列の末端に連なっているような気もしないではありません。
0黄泉の国が描かれてあり、懐かしい気持ちになりました。migikataさんもご存知な通り、右も左もわからなくなってしまいがち。ただ、migikataさんも、もしかしたらお持ちだったかもしれませんが、探査用のかなり精度が良いMSUを私は実装されてたもので。助かりました。 『気持ちいいけど気持ちいい』そうだ。まさにこの言葉の通り!こんど、バビル二世と食事をする機会があったら、この表現をお借りしたいと思います。とても気に入ったんです。 失礼しました。 migikataさん.二回目の投稿ありがとうございます
0三浦さん、コメントありがとうございます。 黄泉の国の昏い快楽とはそういうものなんですよ。自分が何を考えているか、まるでわからないのです。池の中のポセイドンもそう言っています。ロプロスは空を飛び、ロデムは変身地を駆けるのです。三つの僕っていうとナウイけど、桃太郎とどう違うのか?選ぶところはない、ってヤツですね。 人間はしょせん最期は1人で鬼の征伐に行き、未だ帰ったものはいないわけです。
0花緒さん、コメントありがとうございます。 実は行わけのものもたくさん書いています。宜しかったら文極でご覧下さい。 行分けにするとリフレインが多くなりますね。好きなんです、単純な音楽性。リズム音痴なので音楽といえば反復と変奏だ、という実に単純な思い込みがあるのかもしれません。 文中では「死の国」なのですが、日本神話に描かれる黄泉の国も気に入っています。暗くて臭いだけで、何もない汚れた世界。いいじゃないですか、それで。
0クヮン・アイ・ユウさん、コメントありがとうございます。 「生々しいにおいを感じる」と書いて頂いたこと。嬉しかったです。 実際にあるお寺で見た池が、この作品の発想の元になっています。 「目の前のもの」自体というのは言葉よりも魅力的ですね。ものがものの強度を保ったまま言葉の中に入り込んでくるような作品を書いてみたいと思っています。 「気持ちいいけど、気持ちいい」これは諦観というものです。
0>魚影が >もう少しだけ未来の私 >死の国の死の国な私 この作品はレス書くのはちょっと難しい。だってそういう詩だからです。誘惑の詩だから。締めの三行これが本当にえげつないと思うんですよね。色々ゆるいイメージを誘っておきながら、最後未来と死を並列で並べて去っていく釘みたいな形の魚影が「気持ちいいけど気持ちいい/そういう/匂い、うろんな幸せの水を」を刺していくっていう締め方。これは怖い。文字通り釘を刺された。でも刺してくれなかったら危なかった。 多分死の国に誘われたんですよね、僕はそれを最後に引き戻されたんですよ。 >死の国は今日も >濁った古い池のかたち この詩って本当に難しい。「死」という言葉がちゃんと色々な所に挿入されてると思うんですよ。しかも「濁った池」って言ってる訳じゃないですか、でもこの作品に描かれた池の周りの様子を見ていると、なんだか気持ちいいなと思っている「私」がいる。それは死の国なのにか、死の国だからなのか。気持ちいいから気持ちいいっていうのは論理とか理性の放棄なんですよね。つまり「死」という極楽浄土のイメージの混濁、死の国という非論理の持つ魅力、というものがトランス状態の最中で色々右肩さんに書き換えられていくような感じで、洗脳感された感が凄くあった。タイトルが「未来の私」というのも結構怖い。 そういう意味で僕はこの作品に操作されたんだなと思って、いや怖かった。
0hyakkinnさん、コメントありがとうございます。 おっしゃるとおり、「死の国」というのは、死んだものの主観で見た同じ目前の世界のことです。死んだものの主観というものは論理的に存在しませんから、脱自我という虚構が投影されるということになります。言い換えればそれは限りなく甘美な幻想です。でも投影される世界には必ず我々の存在から独立した実在という核があり、必ず主観を裏切ることになります。 この作品は「未来に滅ぶ肉体」と等価の「客体」が語る主体なき未来と 、「主体なき」と語り得る主体の欺瞞を告発することからなります。 と言ってみたけど、本当かな?精神的なポルノと、その自省と言っても同じかも知れませんね。
0私の奥の、むずがゆいところ、という「もぞもぞ」した感覚と、湿潤な感じ、閉ざされた水、のイメージ・・・が結びついて、子宮口、その奥の羊水、実際の肉体というよりは、宇宙の肉体の持つ子宮・・・そんな感覚がありました。 暗い池に浮かぶコウホネの花のイメージと、文字が喚起するイメージが、うまく合致していると思います。
0まりもさん、コメントありがとうございます。 返信遅くなり申し訳ありません。 宇宙、ここでないところ。感知不可能だけれども実在するところ。考えているのとは全く別の何かで、考えたら考えるそばからことごとく否定されなければならない。そういう何処かについて考えることは愚かなことです。その愚かさを、愛しさと読み換えるための手段として辛うじて言語は有効かな、と思っています。 知性と技術から入って単純無知無能な凄みに抜けられたらいいな、と思ってやっています。
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