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妻の夫
妻は歩道を歩いている 妻はお茶を飲んでいる 妻はポスターを見ている 妻は児童公園で休んでいる 巨大な虫がいる 全長3メーターもあるようなカマドウマだ ふすま挟んで居間にいる 触角をときたま動かしている 妻はスーパーでピーマンを買っている 妻は駅前でインタビューを受けている 妻は公民館でママさんバレーをしている 妻は小学校で懇談会に出席している カマドウマはなにも食べない 畳のイグサでも食めばいいのに そのでかい図体じゃ居間は窮屈だろう 天井スレスレで、跳ねもできない 妻は鼻歌を奏でながら自転車に乗って病院の中を通り抜けている 妻は新聞屋で温泉招待券をもらい店内のガラス戸に貼りついている 妻は軽自動車のシフトレバーをいじっている間にビルの上へ昇っている 妻はお隣の奥さんと井戸端会議をしながら桃の缶詰に指で穴を開けている 居間のカマドウマは虫だ 目ん玉は真っ黒くて部屋を反射している 意思というものはそこにはない かさこそと少しだけ動く あまりかわいいものではない 物音こそたてるが カマドウマが鳴くことはない 私はふすま挟んで寝室にいる ふとんが二枚敷かれたままだ 一つは妻の、もう一つは自分の 私は敷ぶとんの上にあぐらをかいている 掛けぶとんはちゃんと足元のほうに折り 上に座って羽毛をつぶさないようにしている 妻のほうは掛けぶとんが広げられている 中に誰も寝ていないので平らだ 掛けぶとんのカバーは緑の市松模様 なんとも古臭いデザイン サザエさんにでもでてきそうだ 私はふとんの上に黒電話を乗せ 妻の連絡を待っている シーツの上の黒電話は カマドウマの目のよう部屋を反射している 私がひしゃげて写っている ひとりじゃ食パンも焼けない カマドウマが足をこすり合わせた 下品な音が寝室にも伝わってきた 妻は牛乳配達に挨拶しようとして天地が正反対になってしまっている 妻は横断歩道の白線にぶら下がって懸垂をして運動不足を解消している 妻はクリーニング屋の店内で洗われたスーツ達に巻かれ団子になっている 妻は銀行の受付で整理券を発行したまま週刊誌に頭をすげ変えられている カマドウマといっしょに妻を待っている 黒電話はケーブルが部屋の外に伸びたまま一回も鳴らない 長時間のあぐらで足もしびれてきた カマドウマの触角が先祖の写真にさわる 写真がすこし傾く だけど先祖の顔はまったく変わらない 私は妻を待っている 電話は鳴らない ひとりじゃお茶も湧かせない ふとんの上で待ち続けるしかない カマドウマがまた足をこすり合わせている 妻はまだ帰らない
妻の夫 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1460.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-22
コメント日時 2017-03-13
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
『妻の夫』。すごく訳アリなタイトルかとワクワクしながら読まさせていただきました、単身赴任生活者の三浦果実です。カマドウマという巨大な虫(?)の場面と妻が外でのほほーんとされてるシーンが交互に現れ、ポールバーホーベンとデビッドリンチ監督を足して、伊丹十三で割ったようなイマージュを覚えました。カマドウマとは、実際に存在する生き物なのでしょうか。ごめんなさい。私は、判らない言葉をみつけても、基本、ググらないで読む派なもので。 祝儀敷さん、投稿有難う御座います。
0カマドウマは私の世代では、便所コオロギと呼んでいました。あのルックスでピョンピョン跳ねるから、まあ良い気持ちはしなかったです。部屋一杯の大きさのカマドウマ。まるで山上たつひこの初期短編に出てきそうな、不気味であり同時にユーモラスな光景です。 私は最初、「実はカマドウマが語り手自身だった」というオチかなと思いながら読み進めていたのですが、実際にはそうではなかったようです。ならば、このカマドウマは一体何者なのか。いやいや、それ以前に最初はまともだった奥さんの様子がどんどんおかしくなっているぞ? そもそも、この語り手は家にいながらどうして奥さんの行動を把握しているんだ? 巨大なカマドウマも奥さんの存在自体も、すべては語り手の妄想の産物なのではないのか? そんなことを考えながら、私は奥さんの作ってくれたペペロンチーニを食べるのでありました。
0わたしはシュールやナンセンスについて、「語り手のキャラや構成の意義が不明瞭であれば、なにをおもしろがればよいのかわからない。」と思うタイプです。そういうわたしにもこの作品は、笑えるという意味でも興味深いという意味でも、とてもおもしろく感じられました。 ひとりではパンも焼けずお茶も沸かせず虫も殺せない男の甲斐性なしぶり、恐ろしいカマドウマ────あれはゴキブリ以上に恐ろしい虫だと思います────に動転したあまり思考がどんどんあさっての方向へすっ飛んでいく感じが、圧倒的な構成力で描写されていると思います。「よくわからんがたぶん、無口で仏頂面で『おーいお茶』しか言わないような典型的な日本の旦那が、本気で虫を恐れるとこうなるんであろう。」と、思わず納得しました。 * ひとまず単純に「カマドウマを見て動転したあまり、わけのわからない思念が走馬灯のように、語り手の脳裏を駆け巡っている」と思って拝読し、どれほどカマドウマを恐れたらこんな思念が脳裏を駆け巡るのかと思って笑ったのですが。ともすれば、この状況全体が独身男性の妄想であって、妻は(体長3メートルのカマドウマ同様に)実在しないのかもしれません。 隣の部屋に恐ろしい虫がいるというのに戦いもせず、女が片付けてくれるのを寝室に隠れて待っているような男が、恋愛結婚できたというのも(既婚の女の立場からすると)不思議な話です。もちろん結婚後、多くの夫は家事をしないので、カマドウマでもゴキブリでも、戦うのは妻である場合が多いのですが。 そのように、人生に密着したさまざまな事柄を想像させられる意味でも、これは秀逸なギャグだと思った次第です。作者様にとって「ギャグ」という解釈が不本意であれば、示唆を明瞭にするなんらかの努力が必要だろうと思います。
0「妻の夫 」このタイトルがいいですね。ちょっと変な感を想起させてきます。感覚を持っている奴こそが上手くこの作品を楽しめるのかなぁと思いました。(この作品は単品では上手く感覚がつかめず、レス読んでから結構なるほどと思ったのですが、それはなぜかというと、僕の父親は家で仕事してるので家事とか虫を殺したりだとか普段からやってるんですよね。僕もまだ大学生なので、あんまり感覚がないっていう感じなのです) 妻の夫という事はつまり妻がいなければ夫は成立しないという事ですね。夫というのは所詮、滅茶苦茶動き回り飛び回る妻=カマドウマ以下の存在であるということ。でしょうか。そして夫は妻に逆らえないっていう感じなのかなぁと思いました。この作品読んでると、家の両親の事をなんとなく思い出します。やっぱり一番主導権握ってるのは母親だし、母親が消えると親父はどうなるんだろうなとか、思いました。例え家事をちょっとでもやる親父にしろ、なんにせよ夫婦ってなんなんだろうなとぼんやり思いました。大人の皆さんにちょっと感想を伺いたい。
0妻は出掛けている。私は家にいる。ひとつの襖をへだてて、全身が3mくらいあるカマドウマが居間にいる。触覚をカサコソ動かしている。 その間。妻は歩道を歩いている。妻はお茶を飲んでいる。妻は、ポスターをながめたり、児童公園で休み、スーパーでピーマンを買い、駅前でインタビューをうけ、自転車に乗って病院を通り抜け、桃の缶詰に指で穴を空けながらお隣の奥さんと世間話をし、牛乳配達に挨拶をしようとして天地を正反対にし、銀行の整理券を発行しながら雑誌と頭をすげ替えられている。 その間、私たちは待っている。カマドウマはかさそこと音をたてるが、それいがいは静かに、その黒い瞳で部屋を無感情に見つめている。ひとつは妻のため、もうひとつは私のために伸べられた布団に、黒電話を置いて、私は座っている。黒電話は黒い瞳で部屋を無表情に見つめている。カサコソ、下品な音がきこえる。あぐらでいたら足もしびれてきたし、ひとりではパンも焼けない。お茶も沸かせない。電話もならない。カサコソ。カマドウマの触覚が、祖先の写真を動かす。そして、妻は、公民館でバレーをしている、小学校で懇談会に参加している、横断歩道の白線にぶら下がり運動している、軽自動車のシフトレバーをいじってるうちにビルの上に運ばれる。 私は妻のほうの布団を見る。サザエさんにでてくるような市松模様の掛け布団がのべられている。カマドウマが音を立てる。私は座っている。妻は帰ってこない。私たちは妻を待っている。
0どうも、19日ぶりに戻って参りました渡辺八畳です。はじめに、拙作「妻の夫」に数々のコメントならび賞を贈ってくださりありがとうございます。 遅くなりましたが皆様のコメントに返信を行おうかと思います。 三浦果実さん 妻がのほほーん、という読みは驚かされました。そっかそういう読みもあるか。カマドウマはもとこさんが書かれているよう通称便所コオロギな、あんまかわいい虫ではないですね。漢字で書くと竈馬、炊事場が土間にある時代にはよくそこに現れていたようです。 福島の喜多方市でビエンナーレ(2年に1度催される芸術イベント)でヤノベケンジという美術家の作品が蔵の中に展示されたことがあったのですが (参考画像 http://blog.goo.ne.jp/kdsjag7p/e/718c232de82e4a2916aef94a2bf3977a/?img=ec39571a0db9c4330e5dfd4558668e83) その壁にカマドウマがびっしり止まっていたのは今でも覚えています。
0もとこさん 山上たつひこですか、気にはなっている漫画家です。いつか読んでみたいなと。あの時代の漫画家はメジャー性とアングラ性がほどよく同居していますよな。 コメント後半にある疑問ですが、書いた私にもわかりません。理由は後の私のコメントで。 澤あづささん シュールナンセンスに対しての厳しい判断基準をこの作品はクリアできたというのなら光栄です。 夫のイメージとしてはまさにコメントの通りです。女は夫が死んでも割とピンピンしていますが、男は妻が死ぬと一気にボケる弱いイキモンです。 私は蛭子能収の漫画が大好きで影響も多く受けているのですが、彼の漫画は時にギャグ漫画と紹介されるんですよね。区分で言えば本当は不条理漫画なのですが。 んで思うのは、ツッコミ(いかにボケの行動が世間常識と離れているかの説明役)が不在なギャグが不条理なのではないかと。吉田戦車や和田ラジヲ、相原コージといった漫画家はかつて不条理ギャグと呼ばれていましたし。イギリスのコントグループ「モンティ・パイソン」のネタもギャグとシュールの中間みたいなもんですし。(おすすめのネタは「哲学者サッカー」https://www.youtube.com/watch?v=N7MlY56Gj3Y) ですので、ギャグという解釈は外れてはいないと思います。 hyakkinnさん 「妻の夫」という題はその通り妻に対して従属関係な夫を表すためのものです。男ってよええなぁ。かつての島田紳助も男が女に勝てるのは腕力だけでそれ以外は負けると言っていました。
0Kolyaさん、天才詩人さん そのスカイプを是非とも拝聴してみたかったですね。 私はサザエさんが火曜日にもやっていた時代や黒電話が現役の時代というは全く知らないです。だからこそ未知なものある種のファンタジーなものとして主題化したくなるってのはあるかもしれませんね。度々起こる大正・昭和モダンブームも、古いものだからいいってわけでなくそれにハマる人はモダンを新しい様式として享受しようとしているわけですし。ある年代からは古びた既知でもほかの年代からすれば全くの未知であったりします。 巨大なカマドウマのイメージは自己分析すれば『涼宮ハルヒの憂鬱』からなのかなぁと考えています。ただ画的なイメージはハルヒでも、そこに纏われている雰囲気はまた別のところから。ハルヒには諸星大二郎のオマージュがあるっていうのは割と有名な話ですが、カマドウマの雰囲気はそういったオマージュ元の怪奇物由来でしょうか。諸星大二郎もジャンプに描いていたことがありますし。 実は私自身、結構オマージュ、しかも詩の方向性と全く関係ないオマージュをよくするんですよ。某詩誌の投稿欄に載った自作詩編にはネットのホモコピペネタ(http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%81%8A%E3%81%98%E3%81%95%E3%82%93)を無駄に忍び込ませていたのですが、まぁー誰も気づきませんよね。例えば久米田康治漫画のコマ端に描かれる小ネタのよう、分かる人が見ればクスッと笑ってしまう分かんない人はスルーして終わりっていう仕掛けは、詩の主題に影響を及ぼさない限りはやっていきたいなと思っています。 妻のモノトーン化は意図した方向性ですが、さらに一ひねりですか。考えてみます。 鈴木海飛さん つげ義春の漫画は『無能の人』と主要短編(小学館から出ている二冊の文庫本)は読んだことがあります。私のベストは「紅い花」ですね。 ガロは私も大好きです。以前はガロの後継誌のアックスに漫画を投稿していました。現在は投稿も購読もやめていますが。しばらくしたら詩と漫画を合わせた作品を描いてまた投稿したいなと思っています。 小林銅蟲という漫画家が小笠原鳥類の詩をコミカライズしたもの(http://www.mangaku-seika.jp/comic/detail.asp?work_id=89)はありますが、テキストと画があまり上手く合わさってはいませんね。いっそはじめにテキストのみで詩を載っけて提示してその後に文字無しで漫画を描いたらどうなるか、ってまぁそれは余談ですが。 漫画という経緯があるため自分の詩作において映像性は重視しています。映像の具現化がはじまってしまったのなら作者としてはしてやったりです。
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