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フラワー・オブ・ロマンス
アタシに初めて薔薇が咲いたのは 十二歳の冬の日だった ひとつ、ふたつとこぼれ落ちる 目が痛くなるような赤い薔薇 そのことをママに告げると 彼女は「やあねぇ」と眉をひそめた それは悪い魔女の呪文のように アタシの中に苦痛を刻んだ それから薔薇が咲くたびに アタシは棘の痛みに苦しんだ 図書室の本には薔薇の花が 気高く尊いと書いてあったのに アタシを産んだママも アタシを抱く男たちも 誰も薔薇を喜ばない かわいそうな薔薇 役立たずの薔薇 薔薇はアタシ 無意味なアタシ だからアタシは薔薇を憎んだ アタシの薔薇を否定する すべての人たちも憎んだ そして今この瞬間から 薔薇を無意味にすると決めたのだ アタシの中にもきっとあるはずの 薔薇を愛せない遺伝子を アタシの代で終わりにするために アタシが罰当たりだと言うなら 誰か薔薇を祝福してよ 舌打ちしたり 溜め息をついたりせずに アタシの薔薇を祝福してよ 赤い花びらが散らばる花園で アタシは叫び続けるけど 答える者などいやしない だって薔薇が咲いている間は 誰も花園を訪れないもの この孤独こそ復讐の承認 許しておくれアタシの薔薇 いつか花園に終わりの時が来て アタシの薔薇が咲かなくなったら 水分を失って変色した 薔薇の屍たちに埋もれて アタシは静かに眠り続けるのだ もはや永遠に訪れることのない 優しい王子様の夢を見ながら
フラワー・オブ・ロマンス ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1080.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-21
コメント日時 2017-03-05
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
薔薇が美しいものと感じられないのが、じつは、昔からありまして。なのでバンドで云いますとXとソフトバレェは好きですが、その後のビジュアル系と呼称されるバンドは好きではありません。(すみません、意味不明な話) 「薔薇が美しいものとは、いったい、誰が決めたことなんだよ」などという話を彼女にすれば、彼氏に「綺麗なものは綺麗なのよ」と言い返される一般的な会話。 では、『フラワー・オブ・ロマンス』の語り手(語り手という言葉をやっと覚えましたw)は、薔薇を美しいものと語っているのか。もちろん語ってはいない。それは、血なのだ。生きている証拠の血。美しいもなにもない。血は血であり、汚くもある。その血を忘れる為に、女子がビジュアル系を追っかけるバンギャになるように、語り手は王子を夢みるのだ。 というバンギャの心象風景を感得しました。 2回目の投稿有難う御座います。
0三浦果実さんへ 実は私も薔薇の花はあまり好きではなくて、菜の花とかスミレとか朝顔の方が好みです。私にとって薔薇の花とは萩尾望都の「ポーの一族」であり、メリーベルの手の中で散っていく薔薇に命の儚さと尊さを感じたものであります。 ビジュアル系といえば私の奥さんはX JAPANのファンだったんですが、私自身は熱心に聴いたバンドと言えばLUNA SEAくらいです。そもそも私が若い頃には「ビジュアル系」という言葉自体が存在していませんでしたが、当時は元祖のひとつと言われるNOVELAにハマっていました。ああ懐かしの「FOOLS MATE」(遠い目 さて、三浦さんが読み取ってくださったように、この詩において薔薇は美しいものではなく「時に汚らわしいともされる血」です。私の母親や、中学から高校くらいまでに付き合っていた女の子たちの多くが「薔薇」を疎ましく感じていて、彼女たちの感情が大きく揺れ動く様子は当時の私にとって実に印象的でした。特に母親のリアクションは、幼い私の中に「もとこ」を生み出すきっかけとなったのでした。読んでいただいて、どうもありがとうございました。
0もとこさん、こんにちは。 僕はこの詩からつげ義春の「紅い花」を思い出しました。感覚的な作品なんだけれど、ちょっと理に走り過ぎた感じもあるように思います。現実の女性の感覚とでは、僕ら男のそれは微妙にズレてしまうのかもしれません。理詰めになっちゃうんですよね、どこか。
0Migikataさんへ 「紅い花」への連想は、おそらく正解です。あの作品がなければ、この詩は生まれていなかったと思うのです。原作はもちろんですが、かなり前にNHKで放送されたドラマも秀逸でした。 現実の女性との感覚には、やはりズレがあるでしょうね。ただ私の中には幼少期から確かに「女の子」が住んでいて、若い頃には肉体関係まではいかなかったものの男性から告白されたりキスをしたことも何度かあります。今でもたまに「女の子」としての感覚が強くなることがあって、それを何らかの形で外に出さないとすっきりしないのです。それが心理学的にどういうものなのかは知りませんが、たぶん「彼女」は死ぬまで私の中にいるんだろうなと感じています。読んでいただいて、どうもありがとうございました。
0もとこさん、お返事ありがとうございます。 そういう事情があったんですね。そうとは思いも寄りませんでした。僕も想像で女性の立場で書くこともあるのですが、まったく想像の域を出ていません。或いは中身は男のままであることを自覚しています。 自分を中心にしてちょっと安易に人のことを推しはかり過ぎたかな、と反省しています。僕にとって理詰めに思える部分も、もとこさんにとっては感覚的な真実なのかもしれませんね。詩の読み方は、よほど気をつけないといつの間にか自分の立場に引きずられて偏ってしまっているものです……。
0Migikataさんへ 私の場合、性同一性障害と言えるレベルではないようです。学生時代は女の子と部室で不道徳なことばかりしていましたしw ただ、中学生の時にキスまでいったある男性から「夢沢君(仮名)が女の子なら良かったのに」と言われた時は、本当に切なくて彼のために女として生まれてきたかったと思ったのも事実です。もっと幼少時には見知らぬ男から自分の意思とは関係のないことをされたこともあって、そのことも私の精神形成に影響を与えた可能性はあります。 詩を読むという行為は、作者の内面を読み取る行為でもあると私は思います。私個人に関しては、こうして詩の解説を通して自分の内面を語ることに何ら抵抗はありません。言いたくないことを無理に言うつもりもありませんし。まあ、そういうことです。
0花緒さんへ 薔薇というのは花の中でもトップクラスのスターであり、愛されて当たり前という感じなんですよね。でも世の中には私みたいに「色彩的にもう少し地味系の花の方が好き」という人もいるわけで、この作品にはそういう意味も含まれているのであります。この作品の語り手も、母親にもう少し理解があれば深紅の薔薇の咲き乱れる花園で幸せに暮らせたはずなんですよね。でも、最初に薔薇が咲いた時の母親の反応がすべてを狂わせた。実は若い頃に読んだ学習マンガか何かで、「母親の反応がネガティヴだったために、その後に生理が来るたびに苦痛が激しくて学校でも保健室で休むようになった」という話を読んで、その内容がずっと心に残っているのです。良くも悪くも、親は子どもの人生に大きな影響を与えるもののようです。
0全体に言葉が多いのではないか、という印象と、感覚を歌っているはずなのに、少し理詰めに過ぎないか(ロジックとしては極めて整合的なのだけれども・・・一人の女性の内面を描いた小説の粗筋を、抒情的な語りによって再現した、というような・・・語りの印象の強いシャンソンの歌詞を読んでいる感覚、と言ってもいいかもしれない)と思っていたのですが・・・レスの往還を読んで、また少し印象が変わりました。変った、けれども・・・実体験をベースにした語り手と、作品の中に明らかに生きている語り手とを、どう結び付けるのか、あるいはどう分離するのか、という部分が、私個人の問題として新たに生じている気がします。 初潮を赤飯などを炊いて祝った時代と異なり、「汚らわしい」「わずらわしい」という感想をもらして、娘を傷つけるケースが増えているようですが・・・背景には、娘が「おんな」になって行くことへの戸惑いとか(それは自身の老いを自覚させることでもある)、女性の社会進出に伴う、社会活動における不便さ(体調や心理的不調など)への想いなどが、複雑に絡まり合っているように思うのですが・・・ この作品の中での「それは悪い魔女の呪文のように/アタシの中に苦痛を刻んだ」という深い傷のイメージは、あるいは「薔薇族的」な傾向が現れた息子に対する母の心情、その瞬間に立ち会ってしまった時の「もとこ」さんの痛みや苦しみから生み出されたものなのか、と思い・・・ 作品の独立性、ということにも関わって来る問題なので、軽々には言えないのですが、私が「レス」を読んだ後に感じた作者の痛み、のようなもの(もちろん、私が勝手に感じたに過ぎない、作者の「ほんとうの」苦悩とはかけ離れたもの、であるかもしれませんが)を積極的に伝えるか、伝えないか・・・作品の中に、男子の制服を着るのがいやだった、というような「仕掛け」を作るか、作らないか、というような選択があると感じました。
0まりもさんへ まりもさんが指摘された部分は、作品の語り手と作者である私自身の間にある「ずれ」のようなものかなと思っています。肉体的に男の私が女性の肉体的な感覚を完全に理解できるはずもないのですが、それでもこういう詩を書こうと思ったのは幼少から思春期にかけて自分が感じた痛み、あるいは痛みのようなものへのこだわりかも知れません。 私が子どもの頃は一般家庭における水洗トイレの割合は非常に低く、我が家のトイレも汲み取り式でした。当然のことながら、私は「母親が不機嫌になる時期」の原因に関して視覚や嗅覚で何となく感じ取り、いつの間にか彼女の痛みがこちらに伝わってくるような錯覚にとらわれるようになりました。さらに学生時代に交際した女の子たちの多くが「最初の時に母親が否定的な反応をした」ことで傷つき、その後の心身の状態に影響があると言っていたことが同時期に読んだ学習マンガの内容と一致していて、それがずっと心にひっかかっていました。 男が、女が、それぞれの性と異なる自分を持っていると気付いた時、たいていの親は動揺して子どもを責めると思います。それは子ども自身にとって、自分の存在そのものを否定されたのと同じだと思うのです。ましてや普通に女の子として成長することを親から否定されたら、その不条理さゆえに子どもはどれだけ傷つくことか。まりもさんが指摘した「母親側の心理」を思う時、私はこれもまた曖昧かつ緩やかな虐待ではないのかと考えるのです。 私は父親からは肉体的に、母親からは精神的な「暴力」を受け続けて育ちました。そして彼らの期待を裏切ったことに対する罪の意識もあり、私の人生は大きく狂ってしまいました。けれど今、作品について説明する過程でこういう話をしても以前のようにフラッシュバックに襲われることはなく、ただ淡々と過ぎた時間について話をする自分がいます。それは自分を肯定してくれる妻や子どもたちのおかげなのかなと思っています。次に「もとこ」の名前で書く時は、もっと肯定的な作品を生むことができそうな気がします。読んでいただいて、どうもありがとうございました。
0これはこの作品というよりは「もとこ」さんという一つのキャラクターの形成に関係しているのかもしれないんですけれども、「アタシ」という一人称が、毎回僕の目につく。という事、この作品は特にそれが顕著であって、だから僕はこの作品を相手取るときに「アタシ」について考えざるを得ないし、それが、前回もとこさんの作品に寄せた僕へのアンサーに対する回答だと思ってこのレスを書きます。 「アタシ」とは何かについて、はレスの往還からヒントを得る事ができます。つまり、作品から立ち上がってくる物というよりは作家論的な見方になってしまうのですけれども、これは女の子が「ぼくは」と一人称を変える理由についてです。一人称とは何かという事を考えます。一つは、それすなわち性であるという事。一番手軽な性の転換こそが、一人称の変換であるということ。と同時に手軽であるからこそ、一人称の持つ性の枠組みから僕らは簡単に逃げられないということ。そういう意味で「I」っていうのはある意味自由なんだろうかとか勝手に思いました。 という訳でもう一つ頻出の「薔薇」という言葉はやっぱり女に関係しているから「アタシ」にまとわりつくものとしてずっと側にある。それを自分の方向から切る事が出来ないからここまで執拗に「アタシ」と「薔薇」が描かれ続けるという事なんだろうなと思いました。そこが多分今のままだとそのまま表面に出てきているので、多分冗長さが浮き彫りになっているのかなと思いました。そういう意味で構成という点については若干の失敗を感じます。
0hyakkinnさんへ えー、「もとこ」とは吾妻ひでおマンガの有名キャラである阿素湖素子であり、新井素子であり、草薙素子でもあり、それらとはまったく関係ないかも知れないわけでありますが、新井素子のデビュー作に「あたしの中の……」という作品がありまして、彼女の作品において「あたし」というのは基本的な一人称なわけであります。子どもの頃から思春期にかけての知識や経験から、自分を前面に押し出す女の子や、男性から女性になった女性は「アタシ」という一人称を使うことが多いというイメージがあります。「もとこ」が「アタシ」を連呼するのも、そういう理由からではないでしょうか。 この詩に関しては特に語り手の饒舌さを前面に押し出してみたのですが、私の力量不足でそれが冗長さとなってしまったのは残念であります。ちなみに「薔薇」と「王子様」と言えば「少女革命ウテナ」なわけで、あの作品も今回の詩を書くきっかけのひとつでした。この方向の詩は、あと1編くらい書いてみたい気がしますが、その時は饒舌さを上手く表現したみたいと思います。読んでいただいて、どうもありがとうございました。
0桐ヶ谷忍さんへ 実はこの詩を投稿する時に、けっこう迷いがありました。初代ウルトラマンや仮面ライダーをリアルタイムで観ていた世代のおっさんが、今では家族で「サーバルちゃん可愛いよね」とか「父ちゃんはトキとツチノコが好きだ」とか言い合っているおっさんが、こういうテーマの詩を出して良いのか。いや、そもそも書いて良いのかとすら思いました。でも、私の中の「もとこ」は幼少期から確かに存在し、女としての感情を持ち、恋をしたり苦しんだりしてきました。私は彼女のためにも、どうしてもこれを書きたかったのです。 また一方で、この詩は高校生の頃に付き合っていた女の子たちへの罪悪感の裏返しでもあります。男というのは事前と事後で自分でも驚くほど気持が変化してしまう生き物です。体育館のステージ下の倉庫でキスした後に「ごめんなさい先輩、今日はダメなんです」と言われた時に、私は間違いなく心の中で舌打ちしていました。そして後で心がクールダウンした時、私は自分の酷薄さに愕然としたのでした。あの時、私は彼女を本気で愛しているつもりでした。でも私の中には、薄汚い欲望に動かされる「男」も確かに存在していたのです。母と娘、男と女、様々な関係性は、最初のちょっとした躓きによって取り返しのつかないほど壊れてしまうものです。この詩の根っこにあるのは萩尾望都の「ポーの一族」であり、つげ義春の「紅い花」であり、「少女革命ウテナ」であり、山岸凉子の「天人唐草」です。特に「天人唐草」は、具体的なストーリーの部分でかなり大きなウエイトを占めています。残念ながら実際に出来上がったものはこれらの名作に遠く及びませんでしたが、それでも最後まで書けたことは良かったと思っています。 この詩を投稿した時は女性読者からの拒否反応があることも覚悟していたので、桐ヶ谷さんのコメントは本当に嬉しくて、救われた思いです。本当にありがとうございました。
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