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羊と私
蜜が不足してショッキングなのは 私だけではなかった 日記が電車に轢かれれば ぞろぞろと通過する羊にとっても 太陽が無くなるほどのショックを与える 蜜不足であった 蒸気が夕野で目に見える 炎をこの身に纏う場合は そのバランスとして氷に着替えるのが 予定されている 風呂のお湯で麩を柔らかくする 着替えの前の儀式には 蜜を飲む 羊に蜜が必要なのがどうしても理解できない私は 無限の前に腕と足を振るった
羊と私 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2365.7
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 7
作成日時 2020-05-29
コメント日時 2020-06-19
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 4 | 4 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 7 | 7 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 4 | 4 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 7 | 7 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
エイクピアさん、こんにちは。 とても面白かったです。羊は不眠の時に登場させるあの羊なのでしょうか?頭の中がどんなに暑くても、毛を刈って氷を纏わせて羊は想像したこともありませんでした。 麩だけが何なのか見当がつきません。お風呂でなぜ麩?
0右肩ヒサシさんコメントを有難う御座います。羊の、不眠の時に数える、と言うのは忘れて居ました。この場合は神の前の子羊みたいな、なので私は聖書を理解して居ない日本人であると言う設定(だからと言って仏教徒と言う訳でもない中途半端な感じなのですが)が隠れて居るのかもしれません、この詩は、詩作後に考えたことなのですが。羊の毛を狩る行為は俳句では春の季語なのですが、ユダヤ教で言えば、時期的に、過ぎ越しの祭りなどを想起させ、私は神の羊(つまりイエスキリスト)を潜在的に意識していたのかもしれません。犠牲にささげられる羊と言うのが、ユダヤ教的な旧約聖書と、新約聖書的な、イエスキリストを時代的には違って居ても、起源においては、繋いでいると思うのですね。現在でも続いて居るそうですし、過ぎ越しの祭りは。麩は魚の餌的なニュアンスで、この詩では直接出て来ないので分かり辛いかもしれません。もうちょっと詩を長くするなら当然、魚のイメージが出て来たと思います。味噌汁の具だとか、それにしても、なぜ風呂でと言うのは、説明不可能な、詩的韜晦なのかもしれません。
0あっこれもいい作品だなあ この5月の選考はマジでお疲れ様ってかんじ ちょっとしたお祭りだね 笑 右肩さんが羊に言及してるから 蜜に言及するとあれだね プーさんだね 意味わかんないコメですいませんが 意味をうまく逸脱してる作品だと思う 羊とか蜜とか だけが残るね ageって意味でコメ
0蜜がなくなってショックを受ける「私」と「羊」。私の読んだところ、蜜=密と空想してしまい、風刺的な一面もあるのかもしれないと考えました。 好きな作品であり、安心のクオリティであると感じます。非常に観念的で「わからない」ことが第一に上がるのは私の読み手としての能力不足であるのですが、私にとってむしろ「わからない心地よさ」を与えてくれる作品でありました。
1こんばんは。初めてコメントさせていただきます。 コロナ禍を連想せずにはいられない詩ですね。面白く読ませていただきました。 一方でもう少し書いて欲しいような気もしました。それが長さなのか、描写あるいは修辞なのか、そこまでは分かりませんが、序盤から世相にリンクするイメージが拡がっていっただけに、拡がったまま投げ出されたようにも感じました。 私は常々、書き終える、書ききるということの難しさについて考えているので、自戒も込めてそのように感じたのだと思います。
1Um Fantasmaさんコメントを有難う御座います。プーさんは多分に擬人化の度合いが強くてと思っていましたが、矢張り蜂蜜好きの設定は見逃せません。羊の毛などもねばねばした蜜ではないのですが、ねばねばした状態があるそうですが、寡聞にして蜜とはあまり関連付けられないのがもどかしいです。
0ふじりゅうさんコメントを有難う御座います。ああ、そうですね。蜜と密。時事的な話題は気にしなかったのですが、なにか悪魔的な儀式の様にも解釈できる余地が、自分の詩作ですので、何とも言い難いのですが、あると思い、異化と言うのか、読み直しと言うのか、この詩の新たな地平が開かれたようで自分でもいいと思いました。
0沙一さんコメントを有難う御座います。ああ、固有名詞は、何らかの形で昇華したためかもしれません。まだ勉強の途上で、羊と言えば、イエスキリストとか、ぱっと連想が働く訳でもないので、そのためもあるのかもしれません。
0ウトイさんコメントを有難う御座います。ああ、展開ですか。如上のコメントコメントでも書きましたが、時事的な話題、コロナ禍に関しましては、少し疎い面がありました。蜜と密。これは真っ先に意識するべきでした。私としてはどちらかと言うと如上の欄、スレッドでも述べました通り、生贄の羊みたいなニュアンスで、それすら大転回せずに、懐疑に陥って居る私。表面上は懐疑にすら陥って居るとも言えない私がこの詩の中の私でした。恐らくもう少し展開すると、羊の真の姿、キリストの復活などを知って、懐疑や、不審に陥る私が描かれる展開を想定して居たのかもしれません。
0あ、すみません。わたしも密、コロナウイルスにまつわる作品だと思って、読み解いてしまいました。 そう、エイクピアさんの作品では珍しく、強引で勝手ながらも読み解けてしまったんですよ。 日記が電車に惹かれる様子は、文字の上に横線が走るイメージを沸き立たせ、予定が次々にキャンセルされる現状を表している。ぞろぞろと通過するサラリーマンたちも、太陽を浴びない生活、巣ごもりへの変換を強要される事態となった。 そう、密不足ですね。一方で、普段は会社に居る家族が揃い、夕暮れには多くの家庭で炊事の湯気が立ち上る。そんな、今まででは見られなかった光景が街に広がっていた。 コロナを相手に熱くなるのは逆効果。無意味な争いを生むことになるから、冷静に対処するようにと、連日のようにテレビは言っている。心が熱くなったときほど、冷静な言動を心掛けなくてはならないのだ。 こういうときは、ゆっくりと湯船に浸かると良いと早めに風呂へと向かい、浸かりすぎて六腑がお麩へと変化してしまう。 主人公は1人が好きみたいで、会社勤めの羊達が密を好む理由がいまいちわからなかった。そんなことは置いておいて、自分もコロナと戦わなければいけないのだ。ソーシャルディスタンスは、視界にコロナウイルスを捉えたとき、反射的に殴りつけても他人へ被害を与えない距離なのだろう。 と、こんな感じ。 相手の思考を全て理解することは出来ない。この大前提があってこそ、文学は面白さを増してくるんだろうな~なんて思いました。読者は作者の思考を完全には読み解けないですし、逆に、作者が読者の思考を完璧に予想することは出来ない。できないからこそ、すれ違いが生まれ、その摩擦熱が物語を生んだり、重なったときの衝撃が予想しなかった感動を生んだり。 数学なんかは、お互いの考えを完全に一致させることで、先へと進んでいく学問なのかも。 結局の所、エイクピアさんが望んだ作品世界を見ることは叶わなかったのですが、わたしはわたしで新たな扉を開け放ち、わたしだけの世界を見てしまったのでしょう。 これはこれで、良い経験をさせてもらいました。
1こんにちわ。エイクピアさんの作品が出ると安心します。エドワード・リアだったかな、ナンセンス詩を書く詩人がいて、名前違うかもですが、いつもその人を思い出すのでした。マザーグースもそうだけど、一見ナンセンスでユーモアあるようなものでも出来事をもとにして出来あがっている。それはわからないけど読んでいて面白い。エイクピアさんの作品にはそういう匂いがします。前はググッて読み解こうと試したこともありますが、いまは作品の言葉の下にある情報量をぼんやり想像しながら書かれた言葉を楽しんでいます。それが出来る作品だから。作品へのコメントではないみたいなのでなんか申し訳ありません。
1千才森 万葉さんコメントを有難う御座います。そうですね、私も潜在的には時事的な話題は意識して居たのかもしれません。見えない敵ですからね、冷静な対応が求められていたのでしょうが、ソーシャルディスタンスなど、気を使う事も多くて、風呂で一服、一杯と言う人は多かったのかもしれません。確かに読み手と書き手との間に生じる隔絶感は半端ないほどでかく、重なりや一致で、却って弊害が生じるほどなのかもしれませんが、新たな物語、新たな現代詩を生み出す源流そのものでもあるのかもしれません。読み手冥利に尽きるので有れば私もこの詩を書いた甲斐が有りました。
0藤 一紀さんコメントを有難う御座います。そうですね、ナンセンスでは有るけれども、この世のリアルな物と繋がって居たい、その為には時事的な話題や、著名な文学者などを知る事は最低限の事だと思っています。マザーグースなどは背景に直接言う事が憚られるような事が隠れて居たりするのでしょうから、その深さを味わうためには、最低でも英語の語学力は必要であろうなど、言語の違いから来る、不透明さも含めて、現代詩を多様な源流を持っているのであろうと、推測しながら試行錯誤しながら、詩作している所です。
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