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メメント・モリ
砂取船が音もなくすすむ 行き過ぎたあとには しずかな波紋が 裾へ向かって ゆっくりひろがっていく 行き場をなくした言葉 対岸へ届かない想いの 滓が浮かんでくる 芥になってしまえば よかったのに まだ なにか言いたげな音を立てる 引き返してくる船に 浄化される時を待つ ひとの思いと川砂を おもたげな様子で 一緒くたに積んでやってくる あなたの罪もぼくの罪も 終わりに向かって さらさらと落ち 岸辺で美しい円錐となる いつか いつかと ささやく鳥のこえ
メメント・モリ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 3937.8
お気に入り数: 3
投票数 : 0
ポイント数 : 108
作成日時 2020-01-03
コメント日時 2020-02-02
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 48 | 14 |
前衛性 | 5 | 0 |
可読性 | 10 | 4 |
エンタメ | 6 | 1 |
技巧 | 13 | 4 |
音韻 | 8 | 0 |
構成 | 18 | 7 |
総合ポイント | 108 | 30 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 4.4 | 2 |
前衛性 | 0.5 | 0 |
可読性 | 0.9 | 0 |
エンタメ | 0.5 | 0 |
技巧 | 1.2 | 0 |
音韻 | 0.7 | 0 |
構成 | 1.6 | 0 |
総合 | 9.8 | 3 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「メメント・モリ」は「死を思え」って意味なので、死体の一部をどこかに入れるのが伝統なんですよ。髑髏とか花びらとか。静物、動かないものでないと。 このままだと表題に対して一声足りない感じ。死はフィニッシュじゃなかったりするので。
0萩原 學さん お読みくださりありがとうございます。 荻原さんが言及されているくだりは、以前「ヴァニタス」(vanitas、「空虚」)と呼ばれていた静物画についての考察でしょうか。 普段死についてなかなか深く考えることはありませんが、生きていると不本意ながら失敗や過ちを犯すことが時々あります。そうした時のメメント・モリ(「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」)という警句が目を覚ます役目を果たすのでは、という意味でタイトルにしました。 さまざまな解釈があってもいいと思います。
1ガムのくつべらさん お読みくださりありがとうございます。 そうですね、仰る通りどちらも効力を失って死んだものです。伝わってよかったです。
0afterglowさん、こんにちは。 静かに川を行き来する砂取船、いいですね。乗組員の姿は影のようにかすんでいて、錆びた船体や鉄の機材がギイギイと軋む音だけが聞こえて来るようです。 僕の鑑賞では、人の思いは言葉を離れると意味を失くすので、砂の質量としてのみ存在し砂の溢れるがままに流れて「あなた」や「ぼく」の時間の中に円錐状に堆積するのです。 「メメント・モリ」とは死んだ自分から今の自分を振り返ることかもしれません。「罪」は言葉を失った死者にとっていつまで「罪」なのでしょうか、ずっしりと堆積する重みとして残ることには違いないのですが。
1この詩でまず惹かれたのは、 砂取船であるということでした。 どういう船なのか調べてから 読ませていただきました。 海底に今まで沈んでいた ゴミなどの物理的なものから 生き物、魂などの息遣いなどが 砂と一緒にくみ取られるのが とても怖いとも感じました。 >行き場をなくした言葉 >対岸へ届かない想いの >滓が浮かんでくる >芥になってしまえば >よかったのに まだ >なにか言いたげな音を立てる 読んだときは、滓と芥は同じなのでは? とも思いましたが、 芥は確実に捨てられるもので 滓は捨てられることもなく 何となくさまよっている雰囲気を 感じて、やはり魂のようなものを 感じました。 >あなたの罪もぼくの罪も >終わりに向かって >さらさらと落ち >岸辺で美しい円錐となる 罪ってなんだろう、と思いました。 タイトルにヒントがあるのかもと思いましたが、私は敢えて目をつぶりたかった。 なぜなら、海底の砂がさらさらと円錐になるイメージがあまりにも美しかったからです。
2砂取船が 良いなあと思いました。 父が造船業だったので、海を見ながら 様々な船を教えてくれて、砂取船のこともおしえてくれたことをちらと 思い出して、遠い目になりました。海辺で砂のことを想うと、潮騒も聞こえており なんともいえない感慨になったものです。 >岸辺で美しい円錐となる 個人的にはなんですが なんとはなしに砂時計の砂が円錐になっていることを想起しました。
0ABさん お読みくださりありがとうございます。 そうですね、この詩を書く前、無力感で心が折れていました。気持ちの切り替えをする必要があり、この詩を書きました。 ラストはぼくの願いです。ある程度具体的に書くことによって読者にメッセージが伝われば幸いです。
0右肩ヒサシさん お読みくださりありがとうございます。 砂取船をご存知なのですね。 今朝も見かけましたが、仰る通り逆光のせいで、へさきに居る乗組員の姿は黒くはっきりと見えなかったです。 言葉を離れた人の思いは一度闇に葬られるのかもしれません。 それが違う形で生きるためには、時が必要なのです。
0つつみさん お読みくださりありがとうございます。 作中の砂取船、紛らわしいので後半に >ひとの思いと川砂を と書いて川の作業船であることを示したのですが、確かにちょっとわかりづらかったかもしれませんね。 また滓(おり)というのは文字通りのものではなく、すっきりと吐き出されないで心の中にかすのようにして積もり、たまるものです。 ずっと気分が晴れないときのあのモヤモヤした感じです。 この詩で怖い気持ちにさせてしまったようで申し訳ありません。
0僕は砂取船というものを知りませんでした。だからこそこの一連目で静謐で不思議な心象が頭のなかに拡がってきました。この言葉選びで読み手を掴んでいると感じます。(実は最初、砂上を船が行きその跡に川が流れはじめる、或いは砂が流れる川がみえた。この光景は僕をかなり虜にした。そのためにその先をなかなかうまく読めなかった) 川のイメージとして僕は此岸と彼岸をへだてるものを思い浮かべました。彼岸は大雑把に言えばあの世、なのですが僕らは言葉を彼岸にはもっていけません。行けないし此岸からどれだけ叫ぼうと届かずに川に沈んでしまうのです。彼岸に届くのは言葉にならない祈りだけなのではないだろうか。川のなかでなにか言いたげな未練や残念に音を立てる言葉の残滓を砂取船が絶えることなく行き来して、人の言葉だけでない浮世の諸々を救い(掬い)あげていく。そのときにはもう自他の区別なく人の思いや言葉は此岸のどこかで円錐となり積み重なっていく。人が生きる限り犯す罪さへ関係もなく。確かに詩句にあるようにうつくしい、と思えるものがありました。砂取船が何を表しているのか?を個人的に思うのは詩人や創作をする人の魂のようなものかもしれません。彼岸と此岸の境界を行きては帰る。砂取船が積み上げていく円錐こそいつか詩となり歌となり絵となり、此岸の誰かがそれをみて心震わせるものとなっていくのではないでしょうか。
1おはようございます。「言葉」は「行き場をなくし」ており、伝えたかった「想い」は形にならないまま、しかし消え去ることなく川底の土砂のように、苦く重く堆積しています(2連目)。「砂取船」は川底から浚った重い土砂と、浄化を願い待つひとの思いを積んで引き返してきますが、それを見る「ぼく」には異なった意味をもっていて、「引き返してくる船」に積まれた「川砂」は、「ぼく」の心の川底に堆積していた、土砂や塵芥の類として表さないでいられないほどに苦さを伴った「想い」、「浄化を待つひとの思い」とは他ならぬ「ぼく」自身の思い(願い)です。 それらを積んだ船が引き返してくるとき、「ぼく」は自分が内部に抱えている苦く重いものが浄化され晴れていくさまを見ているのではないでしょうか。「ぼく」の瞼の裏に浮かびあがる(とは書かれていないが)この光景は幻であったとしても(というのも現実にはまだ「浄化」されていないから)美しく感じます。 恐らく「ぼく」は相当の時間、苦く重い気持ちを抱きつつ、またそれに対処しながら生きてきたのでしょう。一方では〈川底に汚れた土砂や塵芥を溜めた川〉として、他方ではそれを往復する〈砂取船〉として。そして、いつかその日々が洗われるであろうことが微かに思い浮かべられるようになったのだと思います。 乱暴に言うと「罪」と名づけられた否定的な感情によって色づけられた経験の記憶を、ある程度離れた距離からながめることができるほどには時間が経過している。その間には自責の念や「あなた」を責める気持ちや悔恨などを抱きつつ生きねばならない辛い〈贖い〉があり、その期間をようやく通過して、未だに浄化しきれたとは言えないまでも、そのようになっていくだろうとどことなく思えるようなところまで来た。そういう内容であると読みました。またそう読むことによって、1~3連と4連のアンバランスさを解消することができました。恐らく「終わり」が指すのは、「罪」に苛まれてきた(贖いの)時間の終わりであり、それに向かってそれまで心の一部分を占めていた否定的な感情の堆積が剥がれ落ちる、ということなのでしょう。さらさらという音には(感情を連想させる湿っぽさがなく)乾いた響きがあります。暗澹とした苦しい期間を(振り返られるまでに)通過したからこそ思い浮かべられる円錐は語り手の瞼に美しいのでしょう。 しかし、この「罪」には単に否定的な感情によって色づけられた経験とひと言に言い切れないところがあります。なぜなら、強い感情によって点火され燃え上がる肯定的で親密な関係としての「恋」もまた罪であり、それがままならぬものである時には想いが強けれぱ強いほど打ち消すことなしには持ちこたえることが難しいだろうから。いずれにせよ、〈贖い〉もしくはそのような〈喪〉の過程の終わりがかすかにも見えはじめるとき、否定的な感情の堆積が剥がれ落ちるばかりでなく、それに重なるようにけっして苦くはなかった美しい記憶が甦りもするように思います。「円錐」が美しく浮かぶのはその両方が集約されたものとしてモニュメントを築いているからかもしれません。
0真清水るるさん お読みくださりありがとうございます。 海にも砂取船がいますね。 お父様からお聞きになったかもしれませんが、河川や港のように土砂が流入する場所は次第に水深が浅くなるため、定期的に海底をさらう必要があるのです。 >岸辺で美しい円錐となる 砂時計の砂のようだとぼくも思いました。 この砂もいずれはまた違う場所へと船で運ばれてゆくのです。 この一連の様子は具象でありながら「ぼく」の心象風景でもあります。ここから何か伝わればいいなと思います。
0死に限らず、何かをテーマに書く時にその人の人柄とか想像したりするんですが アフターさんは穏やかに死を想う、自然と想わせてくれるんだなと それはきっとアフターさんの穏やかな人柄なのかなと思いました。 私もメメントモリを書きますが、死を想え!感じろ!味わえ!ってやり方なので ここまでアンビエントな詩を書けないです。
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