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批評について・雑感 ※
詩の批評とは、その詩の中に入って、栄養になり、幸福に膨らんでいくもの。生まれてきてよかったと、その詩が思うようなもの。否定であれ、肯定であれ、語る人が自分を賭けているもの。自分を賭けて叱るのを、書いた人自身が歓びとして受け取ることができるとき、その詩のからだのなかで、批評となる。批評を受けるのも与えるのも、いくらかのちゃんとした体力と精神力がいる。どちらかが疲れているとき、批評も疲れる。批評は、詩そのものにするときと、書いた人にするときがある。詩にしているのに、書いた人がうしろで倒れていたり、書いた人にしているのに、詩がヨロコンデいたりする。いい批評も大切だけれども、まちがった批評も大切だと思う。たいていの場合、いい批評がもっとも魅力的に語られるのは、まちがった批評のあとだから。まちがった批評は、いい批評のお母さんかもしれない。詩自身は、だから我慢強くないといけない。批評をしていると、その言葉が自分に帰ってきて、自分の詩を耕(たがや)す。あえてことばを発していくというのは、ことばが自分に帰ってくるための、とても大きな行動だと思う。批評の場で、病気でもないのに黙っている人がいると、けちんぼだなと内心思ってしまう。そういう人は、魅力的だけれども。私自身はいつも、このふたつの間で揺れ動いている。黙っていればよかった、と帰り道でしみじみ思うけれど、次の時もまたやや多めに言ってしまう。私の批評の場での発言は、衝動と快感でできている。その詩について語ることが、否定にしろ、肯定にしろ、快感というのは、いいことかもしれない。何も聞かないでほしい場合がたまにあるから。否定にしろ、肯定にしろ、言いたくてうずうずさせるのは、その詩の生命力であると思う。読む人をどんな意味ででも、元気にさせるのは、いいと思う。私自身の批評は、ほとんどいつも、書いた人にではなく、詩そのものに向けてしている。最初のうちは、みなさんそうだと思っていた。でも、素敵だな、と思う批評者は、詩と、書いた人の両方に目を配っている。その辺のことに、最近ようやく気が付いた。その詩一篇のためなら何を言ってもいいかもしれないけれど、書いた人が倒れて起き上がらなかったら、次の詩が生まれないから。私自身は、きつい批評にかなり耐えられると思うけれども、二回以上続けて誉められると、抵抗力ががくぜんと落ちるような気がする。そこで又かつんとやられると、正常な皮膚の固さになる。もう駄目だというほど打ちのめされたことがないから、本当の強さは分からない。ただ、詩を書いて一夜が過ぎた頃、かならず訪れる拒絶反応があって、その時の自分に打ちのめされることは多い。その声を信じるとすると、発表できる作品はないと思う。でも、自分の詩にたいする、最大の批評は、他の人の、すばらしい作品を新しく読んだときだ。詩そのもので互いに批評しあっているのだと思う。 * 辛らつな批評はおおむね人を傷つけるが、やさしい批評もそのやさしさで傷つけることがある。作品に対する違和感が読み手の胸にわだかまっている場合、どのような表現を取ろうと現れてしまうものなので、それがやさしさのベールに包まれているとき、かえってリアルな不快感を醸し出すことがある。そういう機微に敏感な批評者が、ひと思いに辛らつな言葉で作品を切り捨てるようにみえるとき、そこにもやさしさを見ることができる。とはいえその方法は批評者にはカタルシスをもたらすものであるから、批評され傷ついた者との関係は瞬間的にある無惨さを伴う。だが、そういう批評に晒されたとしても、だれが何と言おうと、書いちゃった方が得、という作品の優位性を信じたい。 こういう幻想を抱いている。かんかんがくがく、正当なもの不当なもの、烈しいものやさしいもの入り乱れ、批評が戦い疲れて倒れたあと、中天に輝いているのが作品なのだというような。 「ある芸術作品に関する意見の相違は、その作品が斬新で、複雑で、生命力に満ちていることを示すものである。批評家たちが一致しないとき、芸術家は自己と調和している。」 (ワイルド「ドリアングレイの画像」より) 詩をよろこびとして追い求めていくために、私はわがままでいたい。書くときも、読むときも、批評するときも。そして自分の拙い詩は、わがままな読み手や批評者によって読み捨てられたい。わがままな書き手とわがままな読み手が作品の上で運命のように出会ったとき、そこにひとつの真に存在する詩が生まれるのだと思う。 (詩を書き始めた頃ある雑誌に投稿したものです。)※bレビュウ杯不参加作品
批評について・雑感 ※ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1034.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-11
コメント日時 2018-08-31
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ありがとうございます。 と言えば奇妙かもしれませんが、 感謝を得たので、感謝を書きます。ありがとうございます。
0お気を使わせちゃったかも知れませんね。こちらこそありがとうございます!
0外在的文脈を持ち込んだ批評に嫌悪感が私にはあります。近代詩・現代詩の歴史的文脈に紐付けするキュレーションはその学術・学芸員のアカデミアの内部において、指標価値あるいは、経済的価値を生み出すことにおいては重要な意味を持つ。 ビーレビのキュレーションとは一体何か?ど素人たちのママゴトと嘲笑を買う。「ビーレビはアウェイである」という開き直り以外にこれについての裏付けを論として組み立てたい気持ちが私にはありました。しかしながら、これを成せる学も技量も持っていない。学術上の根拠を示せないとはいえ、頑張って私見を述べれば、自分史の俎上として批評は近代・現代詩の歴史的文脈においても正当性はあると、主張します。帰納的追求の結果として、近代批評に小林秀雄がもたらした手法がもしも答えとしてあれば、fiorinaさんがご紹介されている本作の主張「わがままな書き手とわがままな読み手」による真の詩と合致するものだと、大二廟のみうらくんは思うわけです。
0三浦さん、コメントありがとうございます。 「わがまま」とは、裸の王様に裸だと言ってのけた子どものような心の自由という意味でもありますが、私に限って言えば、無知からくる偏食、と言う結果も招いています。長年ネット詩界隈に名をさらしてきたとはいえ、片足のその又小指を浸した程度の関わり方でしたので、若い方々の才能や、「好きだ」をゆるがせにせず向き合っているまりもさんのような存在に触れて、今慌てているわけです。「わがまま」を大切にすればこそ、強靱にしなければならないと思います。そのためには、三浦さんのたけみつ?を振り回す(失礼)ような戦い方のあとに、自然の欲求としてアカデミズムへの回帰と言いますか、系統的、網羅的な過去の業績に虚心に学びたくなるときがくるのでは、と想像しています。
0fiorinaさん レスレスありがとうございます。少し思い出したこともあり、そのことについて、書き残しておきたいと思い立ち、再度書き込みしております。ビーレビが掲げた「批評」。これに大きな期待を寄せられて参加された現代詩作家の方が幾人かいらっしゃいました。残念ながら、投稿いただいた作品へのコメントは批評としては認めてはいただけなかった。満足いただけなかった。それを忘することはビーレビにとっても、もったいないことかもしれません。 この一年間、私が自己批判を試みるとすれば、fiorinaさんがお察しいただいてる通り、学術の観点からの研鑽が欠落していたと思うのです。しかしながら、今後、それら研鑽を積むことが、学びの場としての堅苦しいものでなくニュートラルな空間として、ビーレビに創出されることを願っております。それはfiorinaさんのおっしゃる通りです。
0詩を、作品としてではなく(つまり、作られた物ではなく)作者によって生み出された、としても、そこから先はよちよち歩きであっても自立して生きていくもの、と見ているところが面白かったです。詩論的な作品だけれども、擬人的な比喩を用いなければ伝えられないことが満載、という部分が、詩なのだと思います。 全体のバランスを見ると、一連目がずっしりと重い、感じになっていますよね・・・少し、詰め込み過ぎなのかもしれません。 「詩」をとりまく親、兄弟、学校の先生、友人、部活動の先輩、街中のおじさん、おばさん・・・的な、ひとつの社会というのか、人間関係が見えてくるような面白さはある、のだけれど。 二連目以降は「評論形式」の文体が、内容と釣り合っていて、スッキリ読みやすく、また、納得もしました。
0三浦さん、 >学術の観点からの研鑽 実はある方から家に置いておけないという世界詩論大系6巻、世界批評体系6巻ほかを厖大な詩集とともにいただいたのですが、 その方はほぼ全部に目を通したらしいのです。 図書館の棚には更に多くの詩論が並んでますね。あれらを読破して自分の詩、自分の批評を実践的に書いている人もいるんでしょう。 ネットって、少なくはないそういう凄いひとと、私のように不勉強なままネット詩を漫然と眺めてきただけ、と言う者が混在している場なのですよね。 情熱と知識(技術?)が争っているようなそういう人の詩や批評をごく稀に掲示板で見たことがありました。 難しい理論も語っていたかも知れませんが、若い人たちも反発はしても何か打たれるようにその人のことばを心待ちにし、受け止めていた気がします。 決して堅苦しい学びの場などにはなり得ないのです。 そういう方がまたときおり、ここに立ち寄り居着いてくれればいいなと思います。 bれびが批評を掲げて始まったとき、未経験を告白するキュレーターの、詩を読む誠実さと熱気はとても伝わりました。 (その中で三浦さんは数ではなく、質で勝負していたと思いました。) 何が詩か、は感覚や知識如何に関わらず、ひとそれぞれですね。 私にとっては散歩が一番の詩のような気がしていますから。 知らないことだらけなのですが、自分の好きなオペラの台本などを詩と見なしているところもあって、詩(と物語)に対する感覚は三浦さんとは、 これからも違っていき続けると思います。でも「くたばれ、b」で三浦さんが語ったことはしっかり記憶しています。 経験と未経験が両輪となって、面白い場所が作れるといいですね。 古いログを読んでいたらこんなのが出てきたので、三浦さんにプレゼントします。 中田満帆さんが少年の頃? (無断引用になりませんように・・) 満帆さんの十四の質問。/TAKE 満帆さんの、十四の質問。 1:机の上には,なにがありますか? (理想でも可) 2:顕微鏡で一番見たいのは、なんですか? 3:誤解されたい事がありますか? それはなんですか? 4:夢を文や絵に書きますか? 5:一番恥ずかしい思い出は、なんですか? 6:あなたの初恋があなたの恋のなかで、一番重要だと思いますか? 7:家出をした事が、ありますか? 詳しく教えてくれませんか? 8:新聞記事に胸を痛めることが、ありますか? 9:好きな歌の、歌い出しと終わりを.... 10:泪の後に流れて来るものは、なんですか? 11:恋も愛も、ただの酔っ払いですか? それとも・・・? 12:「サラマンデ」と云う言葉から、なにを連想します? 13:今一番、憎い人は誰ですか? (架空の人物も可) 14:最後に、あなたの年齢・癖・雲を眺めた回数を教えてください。 その答え。 ゴミのような、ゴミのようでないものが いくつもいくつも降り積もり 気づいたときには、それは宝物 じっと、魔法の拡大鏡で見つめると そのなんと、きらびやかな慎ましさ ほんとは、ただの寂しがり屋だと思われたくて ほんとにそう思われたくてお道化る悲しみ 詩にもならない、絵にもならない夢こそ本当の夢だと そう呟くことしかできない 親友が鬱病になるまで気づかず 彼から受けた友情に何も報えなかったことの恥ずかしさ 初恋は、心と心との距離を測るための初めての試練 その正確な距離を測り終えたとき、一番大切な記憶に風化する あのときに、勇気をもって自分という巣から飛び出していれば こんなにも後悔することはなかった 友人の小さな死亡記事を見つけたときの寝起きの私 我が身の切なさを突き崩されて、弔う気持ちさえ忘れていた 流し疲れた後にはただ、穏やかに微笑む鏡の向こうの他人 恋すること、愛すること それが愛しい人であろうと、愛しいものであろうと、愛しい人生であろうと 永遠と一瞬を区別するのは人間の業ではない そう、呪文のように、呪文のように語り尽くすこと 一番愛しい私に、一番憎い私に。 齢、五十五にして、私の心にある雲は あの素晴らしい日々に見た一度限りの無限 忘れもしない、あの永遠の歓喜の転生としての雲 かくして饒舌、そして饒舌。
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