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雨中遊泳
雨のなか傘を差す 魚みたいな子供たち 誰一人笑わないから かえって可笑しい見開かれた目 視界に言葉が散乱する 散乱した言葉たちが産卵する そこから魚たちが生まれてきては 身体をくねらせている 秋は梅雨時より雨が多いと知った 曇天を横切る快速電車の中で 今日も遅刻しそうになりながら もっと大きな何かを諦め始めている 特異な季節であなたとわたし ひとつの接点をふいにする 雨の日は遊泳禁止です そうねまだうまくは泳げないから
雨中遊泳 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1423.0
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-08
コメント日時 2018-09-19
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「雨中遊泳」。タイトルからして気になっていました。「笑わない子供たち」or「わたし」が「もっと大きな何かを諦め始めている」というのはとても不穏で一面気味が悪い情景ではあるのですが、独特の情感を出すことに成功していると思います。ちなみに今しがた、雑草が刃物になって目を切り裂き、失明するという不穏な夢を見たstereoです。今作にコメをつけるきっかけになったのかもしれません。
0三連目が頭にながく残っています。
0stereotype2085さんへ はじめまして。 運営は大変だと思いますが、応援しています。今後ともよろしくお願いします。 これは快速電車に乗って窓の外をぼんやり眺めながら、外に見えるているような気がする景色を描いたものです。ぼんやりしていたから、夢っぽいのかなと思いました。 その不穏な夢、面白いですね。先端恐怖症だったら不穏どころか悪夢。安部公房の『笑う月』に出てくる、銃口が曲がって自分のほうに向いてどうやっても逃れられない夢を思い出しました。 タイトル、私も気に入っています。 ありがとうございます。
0かるべまさひろさんへ 運営に手を挙げてくださりありがとうございます。ツイキャスを聴いていて、まかせて安心だなって思いました。私もせめてライトレスくらいはできるように努めます。 今後ともよろしくお願いします。 自作を振り返って思うのは、改行のない詩は読み飛ばしてほしくて、改行のある詩はそこに刻み付けたいという気持ちがあるらしいこと。 本作は後者なので、〈頭にながく残っています。〉というお言葉がとてもうれしいです。
0こうだたけみさん、こんにちは。 一、二連の描写が素晴らしいですね。風景と解釈がこのように一体であると、確かな世界が現出するように思えます。 最近僕は、言葉は表現ではなく、世界の再現だと思うようになりました。 人間の本質はほぼ同じです。「青春の自我の叫び」みたいなものはコモデティ化した消費財になってしまっています。作者と読者が、静かで奥深く成立する光景を一緒に覗き込むような作品が読みたいと思っています。
01連目、2連目ですっかり引き込まれてしまいました。静かな雨のなかの胡乱な空気。最後までぼくのなかでは映像が浮かんで、3連目はカメラが引いていき…… 言葉にうまく出来ないのが情け無いですがショートムービーで秀逸な作品を見つけた気分でした。映画のオープニングかラストになりそうな、予感をはらんだ空気。堪能しました。
01、2連の描写が脳内でメタモルフォーゼして鮮やかな体験をさせていただきました。 3、4連は何らかの可能性を諦めているように読めますが、諦観だけでない、ある種の強さのようなものを感じました。(「まだ」という言葉の効果で、「いつかは」という言葉が想起されます) この詩は淡い希望の詩ではないだろうか。 勝手な感想失礼しました。
0右肩ヒサシさん、コメントありがとうございます。一、二連を気に入っていただけたようでうれしいです。 〈言葉は表現ではなく、世界の再現だと思う〉というのは興味深いです。その「世界」とは、右肩さんが見ている世界ですか? それとも、すべての人が見ているであろう共通認識としての世界ですか? あるいは、作者と読者だけが共有できる秘密めいた世界ですか? ところで私の見る世界はいつだってやかましくて賑やかで、それでいてシンとして取り残されてしまったみたいな世界です。
0帆場蔵人さん、コメントありがとうございます。 ショートムービーと言っていただけてとてもうれしいです。帆場さんの見ている映像を私も見ることができたらいいのにと思います。 まったく別の話になりますが、アイコンのカエルとカメがかわいいですね。私も本を読んでいるカエルの置物を持っています。私のは石の上に座っているけれど。
0蔀 県さん、コメントありがとうございます。 とてもとても、と副詞を重ねるくらいによいと思っていただけてうれしいです。おっしゃる通り、本作では《予感》を書きとめようとしていました。それも吉凶入り混じったものを。蔀さんに伝わったのなら、試みは成功だったようです。
0岩垣弥生さん、コメントありがとうございます。本作を〈淡い希望の詩〉と読んでいただけてうれしいです。感想とは勝手に抱くものですから作者の許可は不要です。どうぞ、お好きなように。 私にとって「諦める」という行為は、その対象と距離をとることだったりします。距離をとることによって、感情に振り回されることなくバランスを保って接することができるはずだと思っています。ただし接すること自体をやめたわけではないため、〈まだ〉という言葉が出てきたのかなと、岩垣さんのコメントを読んでいて思いました。ありがとうございます。
0※このコメントは8月選評です。作者様でなく閲覧者様に向けて執筆しました。またこの評はわたしの読解すなわちわたし自身の表現であり、作者様には関係も責任もありません。 ▼引用開始------------------------------- 「論理は世界に充満している。世界の限界は論理の限界でもある。思考できないものを思考することはできない。かくして思考できないものは語ることもできない。」 「主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」 「読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」 (ヴィトゲンシュタイン/坂井秀寿訳『論理哲学論考』) -------------------------------引用終了▲ 読書の秋の長雨にうってつけの「読解への警鐘」。とわたしには感受されました。作品の核心は上記引用の独我論に近いように思われましたが、思いっきり平たく言えば「語弊の問題」にも集約できるかと思います。 初連の【魚みたいな子供たち】の【見開かれた目】という比喩は、 ①子どもたちが大勢で(群れを成して)活発に動いている。 ②その子どもたちが一様に死んだ魚のような目をしている。 ①(肯定的)と②(否定的)のどちらとも読解できる、両価的な表現です。②に語弊があるので、世間一般では控えられる発言でしょう。 そのゆえ語り手は、その発言を黙秘します。その沈思黙考の様子が、2連で【視界に言葉が散乱する/散乱した言葉たちが産卵する】と描写されます。 軽率には発言できない、だからと言って自制することもできない「解釈」が脳裏をよぎるさまが、視界を泳ぐ魚に喩えられ、初連の【子どもたち】に直結します。いま語り手の目に映っている子どもたちの姿が、語り手の恣意的な「読解」に過ぎないこと、語り手が世界の真相を見ていないことが示唆されます。 自分は世界に追いつかない。自分と世界とのあいだには、埋めることのできない距離がある。そのような感慨が、湿気で曇った快速電車の窓、涙で曇った視界といった情景に託され、3連で詠われます。そうして詩は、終連の抒情に至ります。 ▼引用開始------------------------------- 特異な季節であなたとわたし ひとつの接点をふいにする 雨の日は遊泳禁止です そうねまだうまくは泳げないから -------------------------------引用終了▲ ここで唐突に登場する【あなた】は、想定し得るほかの人物が詩中に登場しないため、2連で孵化した【魚たち】すなわち【言葉】と読まれます。したがって最終二行は、語り手が「自分自身の言葉」と対話しているように見えます。 たとえば、「詩人」と「まだ完成していない詩」が、対話しているように読まれます。 「沈んだ気分のままでの、詩作/読解は禁止です。」 「そうね。沈んだままでは言葉が浮かばれないから。」 そのように。 「あなた」は「彼方」です。自分と感覚を共有できない他者は、自分から遠く隔たっています。自分自身の発言すら、ひとたび発されれば、自分の意思では操縦できない他者になります。詩やその読解という、表現を凝縮するぶん語弊が生じやすく、自己に没入するぶん視野を狭めやすい文芸の、どれほど危険で過酷なことか。 * それにしても、「発言しがたく自制もしがたい考え」のようなことを「散乱/産卵」と表現する(とわたしが読解した)詩をネットで見たのは、これで4度目か5度目くらいです。 その4作か5作のなかで、この詩はその題を最も理想的な形(初見一発目から目を惹き、再読すればなおおもしろい、そして難解でない)にできていると思います。優良です。
0澤あづささんへ 拙作を解体し、再構築していただきありがとうございます。うれしすぎてなんとお礼を申してよいやら! 選評へのコメントにも書きましたが、八月分までは選評を書かれるようでしたので、澤さんの目にとまる可能性の少しでもある作品をと、本作を投稿してよかったです。つい先日観た芝居の主人公が「最短距離で行け」と歌っていたのであっさり夢が叶った私はもしや眠りを殺したのじゃないかしら? 万歳おめでとう。歌う三人の魔女。血に染まった両手は洗わなければ(脳内上演:劇団☆新感線『メタルマクベス disk1』つまり、うれしすぎて暴走中の意)。 澤さんは本作の〈子供たち〉を、一般的な子供ではなく、「自分自身の言葉」と捉えてくださったのですね。 自作解題になってしまいますが、二連目〈視界に言葉が散乱する〉は電車の窓から見える光景、すなわち、まちなかの文字看板のことです。看板にはそれぞれに作り手がいて、それぞれが見る者に意味を突きつけてきます。けれど意味の受け手である語り手=私は作り手の意図通りには意味を拾いきれないばかりか連想やら妄想やらを始めてしまってそこに新たな意味を見出してしまうがために、そこら中に稚魚、まさに「自分自身の言葉」が生まれてきては身体をくねらせることになるわけです。 私は店内装飾という仕事柄、どちらかといえば看板を作る側の人間なのですが、広告の受け手としてはひねくれ者です。パッと見て意味の伝わるものを作ることを求められる立場と、一つの言葉に二つも三つも意味を乗っけて遊んでしまいたくなる性。この両者が折り合いをつけられたらいつか、うまく言葉を泳がせられるし言葉とともに泳げるのではないか、と思っている次第でございます。 それにしても、描かれた情景を頭に思い浮かべてその情景をよいと言ってくれる感受性の高い方や、〈魚みたいな子供たち〉に感応し自らの深い子供たちへの愛を語ってくれる方。様々な受け取り方をしてもらえて、とてもとてもうれしいです。 さらに澤さんには、子供たちを「自分自身の言葉」として捉え、ものを書く(読解する)ことへの警鐘だと自らに引きつける形で再構築してもらえました。 まず共通認識たりうるしっかりとした根拠を示し、その根拠に基づき連を読み進め、作者の意図を汲んだ上で自らの読解を示す(「沈んだ気分のままでの、詩作/読解は禁止です。」)という鮮やかな展開を目の当たりにできて、たいへん興奮しております。 けれども作者である私が何を思って書いたかなどはどうでもいいことで、読んでくださった方の中に何かしらの像を結ぶことが私の詩にとってのよろこびです。普段はついつい言葉遊びのたのしさに溺れて書き募ってしまいますが、こうして余白を残したものを書くのも、様々な読まれ方をしてよいものだなあと思いました。 いろんな意味で勉強になりました。 ありがとうございました!
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