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立ってから座っていた自分を振り返る
寝ているものと 死んでいるもの の間に立つ「電柱」 根元が濡れて 光っている 臭っている 視覚と 嗅覚 の間に成り立つ 感覚が 別々に 君らと 僕を 向かい合わせに立たせている と言ったら河原弥生先輩が 後藤君、君さ、勃ってるよね と言ってきて 須田克敏が お前、確実に勃ってる と言って 後藤は人類の総体に欲情してるんだぁ と笑った 四十年経って思い返してみると いつかどこかで 人類に射精した僕の精液が ことごとく大地を沈めて 小さな方舟を揺らすのだ 妄想の雲間から差す光と 逃げ場のない強い精臭 の間に 今、僕らしきものは立っている 河原先輩と須田は当時付き合っていて 何回かセックスしてから別れたようだが その正確な回数は知りようもない 本人たちも知らない可能性が高い 今、頭上で欅並木の葉が 光りつつ揺れ 音が 走っている そこに 鳴いている熊蝉。 姿は見えない それだ それだ
立ってから座っていた自分を振り返る ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2193.1
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-08
コメント日時 2018-09-20
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
猥雑な出来事、猥雑になりかねない思考を「今、頭上で欅並木の葉が」から始まる最終連、そして「それだ それだ」という確信めいた言葉で、一気に現代詩にまで昇華している。僕の好みかと言えば難しいですが「鳴いている熊蝉。姿は見えない」の段は、序盤、中盤の思考があったからこそ際立ち、また美しく見えるのではと思いました。
0すてきな詩は読者をメロメロにし、アホにする劇薬なんですよ。特にこの詩は、しょっぱなの電柱の立派な男性性がめっぽうしびれるため、読解がよりアホになると思しいので、ひとまずどうにか悪い頭を冷やす必要がありますね。 つまり語り手は、欅並木の下のベンチかなにかに座って、おそらく居眠りをしていたのでしょう。電柱は原則として、目覚めた語り手の視界に入った光景の一部であって、立派な朝勃ちの比喩とかでは、原則としてはないはずです。 そして【立ってから座っていた自分を振り返る】。姿の見えない熊蝉の声、すでに立っているかつて座っていた自分。そのような痕跡のようなものが、居眠りの夢うつつで僕が欲情(リビドー)し、射精の大洪水で虐殺(デストルドー)した対象の【人類】である。 人類には自分が含まれている。「姿の見えない他者」にも自分自身が含まれている、過去の自分はもちろん現在の自分も、「自分には見えない顔」には違いないから。だめだ読解がアホだ! *** メロメロ病が治ったらまた来ます。
0総合的に心が癒されております。
0stereotype2085さん、コメントありがとうございました。 最終連のこと、作者は世俗と聖性の対立として書いたわけではありませんが、「詩」の世界があるとすれば、そこは言葉にならないものからできているだろうな、という予感があります。求めて得られない、ものの実相の剥き出されたところに詩の核心はある、と僕は思うのです。 でも、それは世界の見方に過ぎず、まったく俗で下品な世界にも平然と存在しているはずです。ことさらな「詩語」の範疇では見落とされてしまう詩情を掬っていきたいし、逆に詩情の持つ身も蓋もない一面を告発し、かつ受け入れていきたいと思います。
0澤さん、コメントありがとうございました。 もとよりそんな立派なものではありません。意識していたのは、「詩」としての完結性がメタな視点から次々に乗り越えられていく、そうであって欲しいということです。 第一連は独立性を持った「詩」なので、 >と言ったら河原弥生先輩が ではなく、「という詩を読んで河原弥生先輩が」とするべきでした。ただ、同時にこれは現在の「僕」の目前の風景であってももらいたいのです。「先輩」という語はリアルな社会性を持っていますが、この二人の会話も正確な回想ではなくて、「僕」の現在に侵食された記憶の中にしかないものかもしれませんね。 あとは、ノアの洪水伝説の鳩が蝉に、月桂樹の葉が欅の葉にずれていく仕掛けがあるだけです。もちろん、「立つ」から「勃つ」への転換、「間に立つ」という言い方のもたらす疎外感、それらが文脈の中に捻れて織り込まれているところを楽しんで頂けたら幸いです。 そんなことはまったく考えないで、下品でしょうがないなぁ、と思ってくれても幸いです。下品で面白いなぁ、と思ってくれたらもっと幸いです。
0かるべまさひろさん、コメントありがとうございます。 癒やされてくれてありがとう!読んで頂けるだけで幸せというものです。
0一連目 僕「視覚」君ら 僕「嗅覚」君ら そしてそれの 僕「間に成り立つ感覚」君ら 「自分」が他者とおなじ体験をしたり、おなじものを見たり、おなじ物質を取り込んだり、そしてそこに強烈な刺激を受けたとしても、その感覚は「共有」されたと言えるのだろうか。それらをもし科学的数値でみて同じだったとしても、僕らが同じもので構成されていたとしても、やっぱり違うと思う。きっと。多分。それすら絶対性はなく。ひとは「共感」することはできても、「共有」することはできないんだ。 だからこそ、僕は対岸の他者へ勝手に魅力を創作し見出し「欲情」できるのではないだろうか、「だろうか」という曖昧なものに対して現実にそうしてきた事実。 それなら他者の魅力とはなんなのだろう。キミのその先を創作し、見出すために、僕になにが必要なのだろう。ほんの限られた情報、そこに特別性なんてなくても、受け取る「僕」さえいれば「成り立って」しまうのではないか。 一連を延々となぞり続ける構成。そして強烈な性のモチーフは、イメージ喚起の起爆剤としておよそ万人に威力を持つ気がする。竹光でも振ってんじゃないかってくらい軽々と使いこなされるキラーテクニック! ヤバい! あと僕の頭は思い込んだらそうとしか読めなくなるのでヤバい!
0ゼンメツさん、コメントありがとうございます。 人間は主観的にしか他者を見ることができません。しかし、主観を成り立たせる全ての要素は一つ残らず他者に由来します。 自意識は、自分の肉体も含めた他者の上に乗っかって存在しているに過ぎません。そういう自分自身の怪しさを楽しむことができるといいな、と思います。時間や他者との関わりの中で、しっかりと、明晰に、自我は揺らいでいくのです。 自我をぶっ倒し、他我をぶっ倒し、完全にピュアなものに向き合いたい。そのありえないものをありえないまま捉えるのが、僕にとっての「詩」だと思っています。
0「自我をぶっ倒し、他我をぶっ倒し、完全にピュアなものに向き合いたい。」 ぐぬぬ、かっこいいです。 自我なんて他我なんてっ。て思いながらも僕すぐに目を細めて他我を探り探りしちゃうんですよね。書きも読みも。 僕わりと作品を「なんとなく好き」で済ませちゃいたいタイプなんですけど、右肩さんの文極の「静物の台座」未だにあれが好きで、ほんと、つまりなんとなくなんですけど、でも今スレ読むと昔はみんな、そのなんとなくを超必死で言葉に変えてて、僕とか全然言いたいこと言えてないし、ていうか今もそうだなーって、「なんとなく」って、書き手のためを考えると、具体的な言葉に変えられたら絶対にいいはずなのに。うーん難しいなー。もうちょっとちゃんと揉まれとけばよかったなー。ていうかほんと好きだったんです。まためげずに次も書きにきます!
0眠りは死の兄弟、という言葉があるそうです。そんなことを思いながら、冒頭二行で行きつ、戻りつ・・・。 寝ている、のは肉体で、死んでいる、のは、仮死状態になっている心なのではなかろうか・・・それが、読み終わっての感想です。 中沢新一が、私は世界と交接する、自然という女神とまぐわう、というような意味のことを書いていて、世界に欲情する、というのは、どんな感覚なのだろう、と思った記憶があります。男性の場合は、起ちそう、ということになるのか。女性の場合は、包まれている、抱きしめられている、という体感に繋がっていくものであるのかもしれない、と思いつつ・・・「世界」に対して、先端をねじ込むように入り込んでいく、没入していきたい、という感覚と、「世界」に包み込まれるようにのめり込んでいきたい、という感覚に弁別できるかもしれない、と思ったりしました。 〈後藤は人類の総体に欲情してる〉〈人類に射精した僕の精液が〉などの言葉から特に感じるのですが、〈僕〉と〈人類〉との関係性と、中沢新一のいうところの自分と世界の関係性がよく似ていますね。固有名を持っているにも拘らず、河原先輩と須田というワンペアが、アダムとエバというような・・・人類、と総称されてしまうような、〈人類〉へと普遍化されてしまう。それは、〈僕〉と河原先輩、あるいは須田との距離の大きさでもあるように思いました。〈僕〉はこの二人に対峙していて、関わりが無いわけではないはずなのに(声は向こうからかけられているのに)断絶している。〈大地〉と〈小さな方舟〉も、姿を見せぬまま鳴いているクマゼミと語り手との関係も、〈世界〉と〈僕〉との関係が別の位相で現れているものだと読むことができる。 電信柱と犬の尿?で濡れている地面とが、男根と女陰を想起させる物、と見えた、として・・・そのイメージだけで勃起してしまうようなある種の若さへの回顧、という部分もあるのかな、と思いつつ・・・でも、このあたりは、かなり表現が「なま」ですよね。
0ゼンメツさん、「静物の台座」はちょっと、本当の意味でポルノチックかな、と反省しています。確か浅井さんからコメントを頂いて、フェミニズム的な視点から読解されたのですが、踏み込めない部分に踏み込みすぎてしまった感があります。あの女性は所詮男性的な妄想かな、と。だから、本作ではわからないところを、作者が投影された主人公から思い切って引き離して記述しています。この作品で気をつけたのは、導入からどんどん生々しさを遠ざけていくことでした。
0まりもさん、コメントありがとうございます。 僕はいつもまりもさんが嫌がる書き方ばかりしていますね。「なま」な表現ですみません。本当にセクハラや変態性欲を人に押しつけるつもりではないのです。無理に読ませてしまって申し訳ないように思っています。 まりもさんは、いつも個々の語と、全体の構成と、表現意図について厳密に読解して下さっています。以前読ませて頂いた文章では、詩の教室で読解の方法を厳しく学んでいらっしゃった、とのこと。現代詩の詩論的な流れもきちんと踏まえた上でのアプローチだと思います。 僕はネットポエマーなので、そういう訓練や勉強を積んでいません。非常に個人的な感覚と、狭隘な思考経験から書き散らかしているだけだと思います。ただ、現代美術におけるアカデミズムと作品表現との関係のように、正統的な「表現」の様式というものに対する不信感を持ち、それらから解放された完全な「自由」を楽しんでいます。論理的構成、社会的公正に則った正しさ、というものから始めて、ただ言語が言語を呼ぶ自由な次元への離陸に至るまでの過程を楽しむことが、自分が「詩」を書く動機だと思っています。 たぶん、それは間違っています。僕はずっと単純なところで間違い続けていますから。ただあえて間違いを恐れず行動すること、間違う姿を見せること、が僕の存在意義です。自分だけが自分に厳しくなれるのが、僕の考える「詩」表現なので、これからもどんどん内側へと閉じていくのでしょうね。でも、閉じつつ開くために、秘密なく自分の書いたものについて語れるようにしたいと思っています。 だから、また少し置いて、まりもさんの解釈と、自分の解釈を比べてみるつもりです。
0鈴木海飛さん、コメントありがとうございます。 返信はなかなか思いつかないし、今更上げるのも何だか悪いし、テンション低いし、で。 大変遅くなり、失礼しました。 人間の脳は数%しか使われていないんじゃなくて、人間が数%しか役割を解明していないんじゃないかと僕は思います。 脳は肉体の器官の一つであってそれ以上でも以下でもないような気がするのです。人間の存在は脳ではなく、意識ではなく、肉体でもなく、人間には掴めないもの、掴める可能性も必要性もないモノのコア同士の関係性が顕現化した存在だと、今のところ考えています。 多分間違っているだろうな。僕は間違ってばかりだし、世の中に僕より遙かに頭のいい人は沢山いますから。僕があれこれ考えるのは完全に個人の趣味で、それを「詩」もどきに反映させて一人満足しているのも趣味のうちです。 人によっては気持ち悪いだろうな。でも、いいや。 この作品の三聯に出てくる、 >いつかどこかで って何時の何処だと思いますか?時制をぼやかしたんで、過去でも未来でもないんですね。 >小さな方舟を揺らすのだ ってなっているでしょ?つまり、過去に起きたことでもなく未来に起きることでもない、登場人物の無根拠な確信でしかないんです。 「無根拠な確信」の成立を、「無根拠な文脈」によって、それ自体が対象を持たない修辞として表現したのがこの作品なのです。 と言ったら信じますか?いや、僕は割合本気なのですが。気に入らなければ一笑に付すのが正しい態度だと思います。皮肉ではなくて、これは「割合」以上に本気で言っています。 作者は、孤独が宿命である作業をしていると自覚しているので、その部分に異論がなければ読者の方も孤独が宿命であると自覚しつつ感傷して頂ければ、この上なく幸せです。孤独を癒やすのは対置された孤独だけです、おそらく。
0×感傷→◯鑑賞
0こんばんは。いまさらですが、10月になったらコメントできないので、遅ればせながら、コメントを残します。 《と言ったら河原弥生先輩が/後藤君、君さ、勃ってるよね/と言ってきて/須田克敏が/お前、確実に勃ってる/と言って/後藤は人類の総体に欲情してるんだぁ/と笑った》の箇所、こういう会話が日常のどこかで行われているかもしれない。行われていても不思議ではない。と、思うくらい、馬鹿げていてどうでもよくて、そこが面白いのですが(というのは、だいたい私はふだん馬鹿げていてどうでもいいことを好んで話すので)、「馬鹿げていてどうでもいいこと」は本当に馬鹿げていることなのか、あるいは価値がないのか、そんなことを考えました。個人的にはふだんの〈わりとどーでもいい〉と片づけられることは大事で、それによって日常生活が支えられているんじゃないかくらいにも思っているのですが、にもかかわらず、〈どーでもいい〉なんて言ってしまったりしているわけです。「そんなどうでもいいことをしてないで~しなさい。」とか「いつまでもつまらないこと言ってないで云々」とか言われてきたからかもしれません。一面では、たしかに〈どーでもいい〉ことで〈馬鹿げて〉いるにせよ、他の一面では欠かせないことのように思う、損得や何かの為という側から見れば価値があるとは思えなくとも、それらに属さない価値があるのと違うか。そして、そのような、所謂〈どーでもいい〉と言われる様々なことどもは、それに興じていた時の心の動きといっしょに、一つ一つの細部を曖昧にしていき、忘れられて、無意識内に蓄積されていく。無意識内ということは意識できないという点で、有るのに遠い。それが、 《今、頭上で欅並木の葉が/光りつつ揺れ/音が/走っている/そこに/鳴いている熊蝉。姿は見えない》という、諸器官を通して入ってくる混ざり合った感覚的刺激と重なるようにして、眩しく甦ることがある。これはなんと言えばよいのかわからないけど、〈確かにある、ただ見えない〉という、〈いま、ここ〉でありながら、〈遠さ〉を同時に感じることで、《それだ》としか言いようのないことだと思います。ということで、どーでもいいことのただごとではない価値を感じさせてくれる作品でした。 ※コメント欄の自解は読みましたが、敢えて勝手に感想を書かせていただきました。
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