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ノルマンディー・コーヒーのレシピが、世界大戦さなかのアイルランドの港町フォインズで生まれたことを憶えている人であれば、飛行艇が水上で給油する間、コクピットに忘れ去られたままの沿岸測量部発行の大西洋横断航空図に曳かれた数々の線をなつかしく思い浮かべることもできるだろう。そして、カルバドスをめぐる記憶は、さらにささやかなものとなるだろう。たとえば原料となる林檎の貯蔵法のような。あるいは発酵させた果実の蒸留法のような。だが、「飲む」ということ以上に、その土地への、あるいは時間への関わり方があるだろうか。その土地がもたらすもの、大地に密植させることで栽培される樹木、受粉する蜜蜂の飛行、雨とともに訪れる6月の降雨量と昼夜の温度差、あるいはオーク材の樽における蒸留から熟成までの流れをそのまま受け取るように、記憶するように関わることは。気候、土壌、日照。そのどれもが肥沃であるがゆえに葡萄の、そしてブランデーの製造に適さずにいたこの平野部が、穏やかな湿気と粘土質の土をもって「アップル・ブランデー」カルバドスをつくりあげた16世紀には、聖パトリックの島嶼においてさえ、果実酒へと発酵してゆくための繊細でおおらかな時間が流れはじめる。爪先にまでしみる寒さのなか、ただ待つだけの空隙をなぐさめることになるささやかなレシピを整える準備が、じんわりと人々の気持ちに行きとどいてゆく 羊皮紙とは、わたしにとってなにか。それは少なくとも、石板やパピルスのようにあわただしく地上をすぎていった戦争や侵攻をしるすための、痕跡ではなかった。高価であるがゆえに、一度起こった出来事を刻んだのちに削られ、あるいは正反対の内容を刻まれることなる羊皮紙たち。キリスト者により異端とされ削られたあなたの教義を、潜文としてときほぐし、目の前にそっとさしだせば、あなたは、日常的な会話をしているかのようにやわらかく、いいようのないやさしさを漂わせ、透明感のある手ざわりのなかにわたしを引きずりこんでしまう。そのようにして綴られることとなるものがたりたち。神話。収穫物。あるいは教会に埋葬された人物の由来。かつてはひとびとのあいだで語り継がれてきた時間の、やわらかな流動性を、いまは乾いて固まってしまったけれど、あたためるようにして繙いてゆけば、糸で巻かれた茉莉花茶がときはなたれてゆくにおいのように、新鮮に嗅いでみることのできるものたち。まずは、ひとつ、神話を。あるいは、こよみの、よみかたを。ひとつの地域やひとつの時代、それぞれにあった判読法と省略法を覚えながら、書式の変遷をたどるようにめぐれば、過ぎ去った歴史への哀惜にひたされることのない穏やかな時間が、薄明かりのようにわたしとあなたを照らしだそうとするだろう 織り手はどこか。機織り機はシンプルな架構式の家屋に置かれている。チュアン・ニェットは絹絣を織っている。織りは糸の上に図柄を染め分けていく技法として始まる。クメールの織り手たちは、ラックカイガラムシの巣で赤く染める術でもって、布を染める。それは移動によっても、変遷によっても途絶えることないニェットの記憶となる。15世紀、クメールはまだ西欧にその存在を知られていない。だが、後背地クメールを含めた東西交易網、は存在する。港市都市マラッカ、アユタヤ、アチェは、海峡によって形成された中国、ペルシア、オランダの流れるような交易の集合体における関節部分として、流通の運動性を無数に繋ぐ要衝となることを望み、同時に内陸部へ外来者が版図を拡げることを拒む。ゆえに、クメールの存在は知らせることない。そして、内陸民チュアン・ニェットにとって逗留する多層的な外来者は、疫病と武力をもたらし、蹂躙する者以外のなにものでもない。チュアン・ニェットにとって世界のスケールとは何か。それは南シナ海へと注ぐメコン川流域あるいはその両岸まで。15世紀南シナ海世界が、地元商人とイスラム商人の世紀から、西欧および明が東南アジア海域としてひとくくりに勢力下に置く世紀へと移行しても、あるいは1431年、3次にわたるアユタヤ朝の侵攻によって、クメール王朝が滅亡する世紀においても変わることはない。変わるとすれば、機織り機の置かれた場所。略奪される宝石や財宝に混じって、機織りは、アユタヤ王宮へと連れ去られる。1世紀を経て王宮は滅ぼされる、ビルマに。同時に南シナ世界は西洋のスケールに包含されてゆく。ニェットの流れを継ぐ機織りたちの世界は。限りなく屈縮している。だが、織物はシャン族の織物のなかにその姿をとどめ、潜む。シャン、中国名で、白夷。やがて、草木染めのやわらかく布になじむ時間の経過は、時に南から季節風が吹くこととなる八月の洋上で起こり、だが、あくまで布をうつくしく彩る 羊皮紙に書かれた言語を読むと、時間が止まる。一語一語、息を吸うように言葉をつないで、断片と断片を結びつけるように、わたしは読むだろう。繋ぎあわせ、貼り合わせるように記された過去の出来事をたどり、やがてそれは、受難の死を迎えた少女の生涯を照らす。あるいは、その物語が断片の前奏曲にすぎず、少女の受難の死が冒頭で語られる騎士物語が浮かび上がり、明確な結末など存在しないままに唐突に話が終わる。文字は、ジャンルを無視する。あっさりと。ロマンスに、あるいはファンタジーにしむけるわたしの視線に一瞥もない。どのように書かれた過去も、物語と変容する瞬間に、事実と異なる断片となるものだから、それぞれの物語が、みずからのプロットに従って、連続的に進行し、みずからの生きた時代の全体性をあらわす主旋律を表現することは、不可能であるにちがいない。わたしが読みたい物語。その断片にすぎないものは、ひとつの時代、ひとつの地域を主題として、みずからをひとつの変奏曲に位置付けているものがたり。あるいは、沈黙だけが、最後にわたしの身体とひっそりと呼応しているような、物語。 モーリシャス。1598年。ここから始まるオランダ統治の1世紀は、ドードーの絶滅する世紀として記憶すれば充分である。島の始まりは、つまり1710年、島の放棄からはじまる。フランス領、とりわけ19世紀のモーリシャスは、その都市のなかに、いくつかの記憶を入れ子状にとどめている。10世紀のアラブ地図への記載からはじまり、帝国への帰属までを含めて。それらの諸国との結びつきが、モーリシャスに寄港船の停泊地としての地位を築かせる。島の西海岸に、港湾都市としてのポートルイスがあり、船着き場のあるダルム広場のいくつもの通りのなかに、ひとつの通りが、ファルカー通りとしてある。通りを俯瞰すれば、総督府をはじめとする行政機関があり、道はそのままバザールへと直結する。その通りの角地に郵便局は位置する。19世紀、何の変哲もない切手が、額面に記された価値の範疇を越える。その現象は20世紀のある時点においていささか、倒錯といっていい域に入ってゆく。それは「ブルー・モーリシャス」に起こる。一枚の額面に、ヴィクトリア女王の横顔を重ねあわせ彫刻された、赤みがかったオレンジと深いブルーの2枚の切手こそ、宗主国と帝国植民地の定額郵便制度を集約するように浮かび上がる「ペニー・ブラック」のおもかげという名にふさわしい。英国のそのまなざしが、宗主国につらなろうとするインド洋西部に浮かぶ「イル=ド=フランス」を、法廷での公用語をフランス語から英語に切りかえようとしのぎを削る植民地を、愛するとはいわないまでも、見守ろうとしていたのなら、「POST PAID」と表示されるべき額面が「POST OFFICE」と刻まれる間違いに、気づくこともあったのではないか。定額郵便という領域が、宗主国を手本にしてあるかぎり、モーリシャスの切手は、絶えず更新されるべき郵政当局者の課題にほかならず、だからこそ宗主国がその存在に気づきはじめたころ、モーリシャス島ではすでに七度にわたって切手が発行されている。 ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。それぞれがその内に秘めた世界を語ろうとするが、世界史は、地図上のあちこちで分岐してゆくさまざまな出来事を、ひとくくりの体系の中へと換算し、一つのかぎられた時間軸で並べなおす時間と場所をもつことができないために、いくつもの物語は全体性をつかさどる主旋律の和音となることさえできず、針金を伝う水滴の行方のように、書かれることない世界の譜面に無秩序に滴るしかない。だが細かく分岐しては、やがて主題でさえなくなり、ある種の香りだけを漂わせながら、空気のように軽やかな楽節として、すばやく遠ざかってゆく世界史としての譜面は、いたずらのように記された水滴を音符として読みとり、ある種の変奏曲として、ある場所の、ある時間に、連弾として、あるいは重唱曲のようにかさなりあいながら、世界の全体性へと近づいていこうとするだろう。
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作品データ
P V 数 : 1266.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-04-02
コメント日時 2017-06-03
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
読者の皆さんは「プリンプリン物語」を御存知だろうか。いや、知らないとしても、私は、浅井康浩さんの初投稿作を皆さんに紹介するべく、批評を書かなければならないと、なんというか、見えない使命感に突き動かされながらコメントを書く。私が初っ端に書かなければ、天才詩人がまた、合理的な世界史実を基にした批評を展開し、その批評を読んだ一般人が本作品をスルーすることになるのではないかと危惧するので。⇦(これは半分冗談です。念の為) そこで、プリンプリン物語。この物語にはオサラムームー島という、平和と長閑を絵に描いたような共同体が出てくるのだけれど、その島民は普段から「働くより、寝ていたほうがいい♪」という鼻歌を口ずさんでいるのだ。また、プリンプリン物語には一方で、IQ1300を誇るルチ将軍という悪い奴が登場する。プリンプリン物語とはじつは、植民地化と労働についての寓話なのである。では、浅井康浩さんの本作に流れるものは何か。それは、変遷をたどることにより今を知る系譜学と世界で同時発生することが粒子レベルで解明されようとしているミーム理論を表現した壮大な植民地化と労働についての抒情詩なのである。 最後に云うまでもないけれども、三浦が無学であることが前提であり、一切の御指摘にはお応えしない。相当な勘違い野郎であるかもしれないことは、御勘弁いただきたい。 ノークレーム・ノーリターン。
0作者の豊かな知識に裏付けられた、圧倒的な情報量の詩である。ノルマンディー・コーヒーというカクテルからスタートして、源流であるアイリッシュ・コーヒー、その誕生地であるフォインズ、そこにあってカクテル誕生のきっかけとなった飛行艇用の飛行場、そこを寄港地とした大西洋横断航空路、ノルマンディー・コーヒーのベースに使われているカルヴァドス、その誕生の歴史……第1連だけでも、欧州の古典的名作のプロローグを読んでいるような気持ちになってくる。 第2連は羊皮紙について語られている。石版やパピルスの巻物に記された歴史。その多くは血なまぐさい紛争の記録でもある。そしてパピルスより保存性や携帯性に優れた羊皮紙の台頭。表面を削って再利用できるという特性への記述。いわゆるパリンプセストと呼ばれるものと宗教の関わり。その他、羊皮紙に記録された様々な記録と、そこに秘められた物語に対する豊かな想像力。 第3連では織物がテーマ。その発展と拡大の歴史はまた、様々な交易や紛争の歴史でもある。ここではクメールの織物の衰退が語られているが、この連に織り込まれた美しさと哀しさを知るには古代から近代に至るカンボジアの歴史を理解する必要があるのだろう。ちなみに織物(textile)とtextの語源は同じである。 第4連はモーリシャスの歴史を語りながら絶滅したドードー、オランダやフランスやイギリスの統治などが簡潔に語られるが、メインとなるのは世界で最も高額な切手と言われている「ブルー・モーリシャス」である。世界最初の切手「ペニー・ブラック」と同様にヴィクトリア女王の横顔が描かれてたその切手は、詩の中で語られているように「POST OFFICE」の間違いと最初の発行枚数の少なさから1枚の価格が日本円で億単位だという。作者は、この超高額切手誕生の原因が、モーリシャスに対するイギリスの関心度の低さであるとしている。モーリシャスとコレクションとしての切手に関する相当の知識がなければ、この発想はできないだろう。 最終連で語られる「世界史」についての考察。作者はその特性を音楽に例えているが、この詩自体が壮大な組曲なのではないか。徹夜明けの頭を振り絞って中学生のような感想文を書きながら、私はそう考えるのである。そして最後に付け加えるのなら、三浦果実氏はオチとして「ノークレーム・ノーリターン」ではなく「ノークレーム・ノータリーン」と書くべきではなかったのか(大きなお世話である
0読み進むことがただただうれしい。 知と未知が脳の小径で出会って、小さい瞬間が生まれ続けます。 音楽や絵画に比べると言葉は不自由という人がいましたが、 言葉でしかできない旅をしているようです。
0冒頭、翻訳文のような印象を受けました。「ことを憶えている人であれば」とか、「ささやかなものとなるだろう」というようなフレーズというか、語感ですね。時間、時の遡行。詩的情趣に富んだ、随想(エセー、いわゆるエッセイではなく)の一節を読んでいるような感覚が、裁ち切られるようにして「羊皮紙」の連が現れる。この連が、私にとって、もっとも「散文詩」だと感じさせる部分です。書かれなかった歴史、ではなく、書かれたけれども消され、書き直され、失われていった歴史。更新され続ける世界、という極めて現代的な(インターネットが普及して以降の)世界観が、羊皮紙を用いていた時代までのスパンで重層化される。現代的な世界観で、数百年を透かしながら見直していくような・・・ガラスに描かれた歴史の層を、重ねて、それを裏側から見ているような感覚、と言えばいいでしょうか。 クメールの織り手の章、モーリシャスの章は、意図的に詩的情趣を覗いて、即物的に記述されているように見え・・・ある種の写生文と言いましょうか、そこに歴史観や批判精神も垣間見えるように思うのですが、冒頭のエセー風の部分、「羊皮紙とは、わたしにとってなにか。」の章の詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました。 「ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。」この一行を導き、説得力を持たせるための、具体的事例・・・と呼ぶには、歴史叙述的部分の分量も重量も多い。欧米の植民地であった(そのことによって、物語が消され、別の物語が書かれるという形で更新されていく時間)地域を、オムニバス風にもっと断片化して、複数の例として配置する方法を採らずに、そこに入り込んで詳述していく方向を選んだのか。そういった創作意図のようなものを知りたいと思いました。
0訂正:意図的に詩的情趣を覗いて→除いて そこに入り込んで詳述していく→なぜ、そこに入り込んで詳述していく
0浅井さん、お久しぶりです。こちらでお会いするなんて、不思議な感覚ですね。情報量が多く、説明的過ぎるような気もしますが、私は一言で言うと、好きな詩です。浅井さんの作品群の中でも。堪能させていただきました。具体的に深い感想を書こうと思って、ずっと暖めていたんですけど、なんだかいろいろ言うのも野暮かなあとそんな風に思わされてしまいました。
0三浦さん、返信ありがとうございます。 >浅井康浩さんの本作に流れるものは何か。それは、変遷をたどることにより今を知る系譜学と世界で同時発生することが粒子レベルで解明されようとしているミーム理論を表現した壮大な植民地化と労働についての抒情詩 ということを書いたうえで、上記を論証することもなくいきなり >三浦が無学であることが前提であり と書いてしまう心性が気になりました。普通のレスならば別に気になりませんが、 >批評を書かなければならないと、なんというか、見えない使命感に突き動かされながらコメントを書く。私が初っ端に書かなければ、天才詩人がまた、合理的な世界史実を基にした批評を展開し、その批評を読んだ一般人が本作品をスルーすることになるのではないかと危惧するので。 というように、サイトを代表して「批評」する発言であることを考慮すると、やはり気になります。 端的に言うと >三浦が無学である (何に対して「無学」であるのか、ということさえわかりませんが)と書いてしまうのは、「現在の私には読み込めない作品」に直面した時に、私は(このサイトは)真摯に作品に向かい合うことなく、同時に私の基本的認識を崩すこともせず、「粒子レベル」や「ミーム理論」や「植民地化」のような「難解な用語」を、どのような文脈で定義されたものかを確定させなくてもなんとなく使えば、相手も難解なことを書いてるんだしなんとなくわかるでしょ、テヘッ、的な感じなのかな、と思います。 「現代詩」っていうのを相手にそれを「批評」する、ということは、常に「未知のもの」との出会うことであるし、理解できない(私には読み込めない)異質な作品そのものをどう私なりのやり方で解きほぐしてゆくか、という作業の連続かと思います。 それを、「無学」という言葉を使用し、その「作品」を難解なものとしたうえで適当な解釈をくわえ、「ノークレーム・ノーリターン」とみずからの言葉に「応答性」を担保しない、という「手口」が、このサイトを背負う「使命感」に突き動かされた人がとりうるものであるとするなら、(個人的な感想になりますが)とても「恥ずかしい」ことであると感じます。
0もとこさん、返信ありがとうございます。 作品の「要約」ありがとうございます。 「要約」部分を除けば、 >欧州の古典的名作のプロローグを読んでいるような気持ちになってくる。 >そこに秘められた物語に対する豊かな想像力。 >この連に織り込まれた美しさと哀しさ >壮大な組曲 というような、(読書感想文で優秀な成績をおさめそうな)「中学生のような感想文」であることはご自身で言われている通り否めないようです。 >ちなみに織物(textile)とtextの語源は同じである。 というような視点を掘り下げていければ、「要約」にならなかったかも、と思えるだけに、残念です。
0花緒さん、返信ありがとうございます >クリエイティブライティング作品として、本作は優れている の根拠が、 >詩誌の投稿欄では収まらない、自由度の高い形態の作品群 といい、その「自由度の高い」というのが >紙に打ち出すなら、もっと長くても良いのかもしれませんが、スクリーンだとややきつい分量 というような、文字数の多寡に還元されるべき要素、ということでしょうか。 >ネット詩メディアの運営に携わることとなった手前 とのことですが、「あるべきネット詩」というものは「投稿作単体」だけが優れているということはありえないのではないでしょうか。運営に携わるのであれば、自分自身の問題意識をいかにサイトの特色として反映させ、潜在的な投稿者にいかにアプローチするのか、あるいは投稿された作品をどう社会とシェアしてゆく仕組みを作るのか、などトータル部分でのありかたが「あるべきネット詩」というものだと思ったりもします。
0Fiorinaさん、返信ありがとうございます。 >読み進むことがただただうれしい。 書いてよかった、と思えます。そのような読み方をしていただけたのはありがたいです。
0まりもさん、返信ありがとうございます。 当たり前の話ですが、創作意図などをここで語ったとしても、それが「正解」であるとか「意図」がどれくらい作品に反映され、読み手がその意図に従ってメッセージを過不足なく受け取っているか、などの「判断」は、まったく意味をなさないものである。というのがあります。 そのうえでいうなら、「オムニバス風にもっと断片化」したものがこの作品で、オムニバス風になるまえの「そこに入り込んで詳述していく方向」というのが例えば、下記の http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/382.html#msg7072 ようなものとなります。 上記のような「そこに入り込んで詳述していく方向」の作品が縦方向にいくつかあり、それを横串でもってオムニバス化した、ということができます。 もちろん、そのオムニバス化にあたってのテーマであるはずのポスコロの「地図作成法」がごっそり自分の中で忘れられていた点については >詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました と見事に指摘されたとおりです。
0葛西さん、返信ありがとうございます。 >なんだかいろいろ言うのも野暮かなあ 葛西さん、大人ですね。
0レシピ、織物、というものと、 羊皮紙、に描かれる物語でもいいし或いは地図でもいいのですが、その差異みたいなものかなぁ、というのが交錯しながら最終連に結び付けられていくという事。 今丁度「本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~」http://ncode.syosetu.com/n4830bu/これ読んでてですね、文章の質とかそういうのはさておき、結構同じ事を異世界転生でやってるのをここで再読したような感じがして、なんだか楽しかったです。(まだ序盤までしか読んでないので紙の部分についてはあれですけど…紙を作るのは単純に大変ですよね)美味しいレシピは男の腹を満たし、綺麗な布や(もしくは装飾でもいいかもしれない)は女を磨くので、なんだかんだあっても伝わりやすいのかもしれませんね。紙に綴られるものという所については、まぁ、単純に野暮ですね。これ以上何か書き添えるのは。最後の連を読めばそこに答えは書いてあるという感じです。 細かい指摘については突っ込めるほと細読しきれていないので、今は保留ですが、単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。一つの世界と歴史をまとめた地図であるという感想でひとまずは閉じようと思います。
0>単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。 単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。
0>単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。 まぁ、結論から申し上げますと、人の見方感じ方によって、異なるという風な答えになってしまうとは思うのですが(それはまさしく虚構という概念が一見あらゆる物事に対して万能であり、絶対的なゼロとして機能してしまうように) 僕は本作の例え話をちょっとだけ気に入ったというだけの話です。「現代」を取り扱った作品というのが、おしなべて壮大であるかどうか、というのは僕は甚だ疑問です。現に僕は今は海外にいる発起人達と連絡をとりあっていますけれども、うまれた時から既に、ネット環境が側にあった僕からすれば、そこまで壮大な事には思えない訳です。 たとえば、僕は昨日みんなで『創世記を読もう』みたいな会に参加していて、そこで「サラの埋葬」の章を読んだのですが、そこでサラの埋葬地をアブラハムが決める時に、「わたしはここの土地を銀四〇〇なんちゃらで買ってここをサラの墓地にするぞ!」とみんなの前で宣言するシーンがあるんですね。では、なぜそんな事をしたのか、今だったら紙に書いて証拠を残したりするじゃないか、っていう疑問を僕が投げかけたら、そこから一時間半紙の歴史の講義が始まって、それが中々面白かったわけです。しかも、そこではさらに、浅井さんがここでくださった情報に加え、上に示した下克上の知識も重なって非常に面白い話が出来ましたし、見識が広がりました。自分が手にする紙に対する感覚も少しだけかわりましたしね。さて、こんな体験は、果たしてネット上だけで起こりうる物だったのでしょうか? 僕からすれば昨日のアナログな読書会は、ロマンに溢れていましたよ。僕は今、人の持つ文化という物、あるいは虚構でもいいですが、そういうものが好きになりました。 僕がいいたいロマンというのはつまりこういう事ですよ。遠い時代の物を見たときにむしろ僕らの生きている現代というものが浮上してくる。その瞬間こそがドラマなんですよね。その遠さというのは、紙のつくり方一つとってもぼくらは何もしらないという所に一つの端緒がみられるかと思いますけどね。そういうものにクローズアップして歴史を描くことによって、ロマンは再生するのではないでしょうか。むしろかえって。 そして、浅井さんがここに示してくださった、例え話というのは、もっと厳密に見ていくと面白い事が沢山いえると思うんですが、まぁ良くもこれだけ短い詩篇の中につぎこんでくださったと思います。色々な方と本作についてちょこっと話したときに、最後まで読みきれなかったという意見をききましたが、その点は僕も少しだけおもいます。一連目はある意味牽制球みたいなもんですもんね。別にただの例え話であると聞けば校長先生の長話みたいなもんであって、落ちに全てが詰まっているあの感じかなとか思うのですが、しかし流して読み切ってしまえば僕からすれば知らない情報ばかりですし、そこから意味を抽出して自分なりの(あるいは語り手なりの)回答を導き出している。普通に読んでいて破綻している箇所は僕には見当たらないし、ならば今は受け入れるしかありません。無論、そこに何かしらの「欠点」があるかどうかについてはわかりません。僕はあくまでも語り手による講義の聞き手であって、そこに感心してしまったただの人間でありますからね。ここに記述された歴史そのものに対する疑義を唱えられる訳もないので、まぁ僕は素直に読書を楽しんだという事であります。 つまり、僕にとって本作を読書する事には意味があり、現実にその意味が役に立ちました。その意味がこれから僕の人生において、校合され無に帰す事があるかもしれませんが、今この瞬間にネット上で、本作を拝めた事、それ自体の意味は僕の中で失われる事はありません。そういう意味では現代という時代はロマンに溢れているのかもしれませんけどね。要は浅井さんからのといに対する僕の答えは「そんな事聞かれても困る。本作が僕にとって既にロマンとなってしまった以上、なんと答えればよいのか。僕はこの感慨を作者に殺されたくない」という感じになりますかね。
0浅井さんの作品を読むのはこれが初めてではないけれども、読んでいて、やはり多かれ少なかれマルセル・プルーストは意識しているのかな、という印象を持ちました。それは、テクストの内部でテクストそのものに言及するメタ構造を持っているという点などがそれに当たると思います。ただ、内容的にはアイリッシュ・パブで掛かっていそうな音楽を聴きながら書いたようなものなので、その点からすると私流の言い方ではプルーストとジョイスの合わせ技、という非常に乱暴な批評を試みてみます。多少の誤りがあることは承知の上で言っていますが。
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