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大いなるいのち
何万匹 何万羽の 魚や鳥たちが 信じ難いほどの大群をなして 泳いだり 飛んだりしているにもかかわらず それら全体の形姿は 瞬時といえども一様で まるで 全体が さらなる 新たな生きものでもあるかのように思われることがある ということは 魚や鳥たちがいかに大いなるいのちの懐深く抱かれて生きて いるかがよくわかる いま 私は大いなるいのちといったが これは いのちを生み出しているいのち そう 永遠のいのちのことである 永遠のいのちといっても 私のいのちが あなたのいのちが という意味ではない そうではなく 生きとして生けるものすべてに 大いなるいのちが天賦し続ける そのいのちである これを聞いて 恐らく一部の人は 永遠のいのちなどある筈がない と即座に断を下す人がいるかもしれない しかし 私としてはそのような人に対して ただ 次のような問いを投げかけるばかりである それではなぜ この地球上のいのちは 絶えることがなくあり続けているのか と しかし ここで勘違いしてもらっては困る 私は少しも 神秘的な超越的な何かを主張する気はない そうではなく 私たちはそれ自身死なないし だから生まれもしないし そうした連続的いのちのなかを 生きているといいたいばかりなのだ 私はこうしたいのちを指して 先に大いなるいのちと呼んだ ところが である 私たち人間は 言語によって特別な領域を切り開いた そのもっとも卑近な例が 一人称の私である 私を対象化することによって いま一人の私を生み出したのである それのみか その私が本来の私に語り掛け 省察し 内的独白を試みる この話のかぎりでは 大いに奨励すべきことのように思われる しかし ここに落とし穴がある 在りもしないものを在るとする 落とし穴がある いま 私は走るという文章を例に引く これっておかしくないか 変ではないか なぜなら 走る前にすでに私が存することになる このような特権的私とは何ものか…… この問いは 休みなく問われ続けているが 私の魅力の方が 遥かに 遥かに大きいようだ 絶大といってもよい たとえおかしくても 変でも構わない この魅力ある一人称の表現世界を 拡げて行くばかりだ というのが大勢で…… その結果が 今日の私たちの表現世界である もはや 魚や鳥に教わることは何もないのか いや そうは思えない いまの私も 何かを感じて 彼らの行為を見ていたのではないか そこには 彼らの大いなるいのちに対する随順がある この随順は 決して奴隷的なものだけではない そこには貴い進化がある 人間といえども ただいま進化中ではないか 私という 自我遊びだけに狂っているときではないのかもしれない それにはまず 死なないし それ故生まれもしないという連続的いのち 大いなるいのちを直観 する必要がある 最後に 大いなるいのちとは すべての 死んだもののいのちであり すべての 生きているもののいのちであり さらにすべての これから生まれて来るもののいのちである
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大いなるいのち ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 497.9
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-12-19
コメント日時 2025-01-06
項目 | 全期間(2025/01/18現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
細かいところかもしれませんが、"自我遊び「だけに」狂っているときではないのかもしれない"と、「だけに」が添えられているところに浅川さんの慎重さを感じました。逆に言えば、ほどほどには遊ぶべきであると。 それにしても「狂っている」とは耳が痛いですね(笑)節度というものを見失いがちな自分には、しかし本当に襟を正されるメッセージでした。 ただ正直に言うと、そうはいってもやはり、生死の境界をだいぶと曖昧に捉えられているのかな、と、作品全体を読んで感じた次第です。そして僕は、それはどうかと思うのです。 それは生きて在る、ということの純然たる輝きを、どこかファインダー越しに眺めているような感覚をもたらしはしないか。なぜだかーたしかにー生きているということの不可思議を、曖昧模糊とした(失礼)認識論で霞ませたくないと、僕などは思うのです。そしてその実感はおそらく、きわめて個人的な、そうであるがゆえに切なる記憶の束でできている。 凡庸きわまりない結論になってしまいますが、結局はバランスなのかなあと。人間関係の些事にとらわれた折りなど、ご先祖さまやかつての飼い犬が見守ってくれているだろうことに、よく思い馳せています。そうすると、自分をとりまく時空間が広がったかのような陶然とした心地になる。そのような広がりを、この作品からも感じました。
0こんな訳の分からないものを読んで下さり、ありがとうございます。私自身、何も分かっていないのですが、ときにこんなものを書かないといられません。書くというより、つかんでは投げ、つかんでは投げ、それこそ駄々っ子のごねりです。ご指摘の点を踏まえ、成長したいものだと、切に切に願っています。ありがとうございました。
1とても深い内容です。詩の形式にこだわらずとも、その内容だけで十分に勝負できる作品だと感じました。むしろ、エッセイ形式で綴られることで、深い洞察や哲学的なテーマがより明確に伝わり、作品の持つ奥行きがさらに引き立つのではないかと思います。 インターネットで見かけた谷川俊太郎の言葉を以下に引用させていただきます。 ―――――――――――― 僕は若いころから「生きる」ことと「生活する」ことを区別していました。人間にとっては生活よりも生きることの方が大事です。生活するということは、どうしても社会との関係で、給料をもらったりとか、人とつきあったりすることが必要でしょう? 生きるというのは、人間も哺乳類の一つとして、命をもった存在として、宇宙の中で生きるということ。自分が宇宙の中の存在であると同時に、人間社会の中の存在であるという二重性がある。詩を書くときはその両方をちゃんと持っていなきゃいけない。 ―――――――――――― このお言葉には深く共感するところがあります。そして、浅川宏紀さんの作品にも通じる部分があるように思います。生きることの本質を見据え、独自の視点で命の連続性や普遍的な存在意義を描かれたそのお作は、生きることとは何か、自分とは何か、命とは何か――深遠へと誘う思索の道筋を提示してくれる、見事な作品だと思います。
0読んでいただき、恐縮しています。自分では書きながら、病気ではないかと思っています。それでも、昆虫などの作品(『テントウ虫』など)を書くだけではなく、ときにはこうしたわけの分からない詩(散文)も、書かずにはいられません。ご容赦いただき、ご理解いただき、ありがとうございます。
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