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熊倉ミハイ『術産』鑑賞一例
「のどぼとけ」を英語で「Adam's apple」という。アダムがエデンで食べた智慧のリンゴ(善悪を知る木の実)の名残だという。男性ののどには神仏が宿っているのだと、日本語でなら解釈できそうだが、英語のほうは「男性はのどに原罪をまだつまらせている」とも解釈できてしまいそうだ。言語の背景には歴史の広大な文脈(context)がある、無量の解釈による無数の構造(structure)が林立しうる。 もちろんこの詩『術産』を堪能するのに、そんな講釈は不要だ。本稿もしまいには酔いどれて収拾もつかず終わるので、冒頭くらいは恰好らしきものをつけておきたい。まず Adam's apple に関聯して、創世記2:16-24を新共同訳から引用する。 https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/2.htm#0 「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男(イシュ)から取ったものだから、/これを女(イシャー)と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」 (創世記2:16-24) 上記を踏まえると『術産』の構造(というのは文脈から読者が見出すものであって。作者の意図など知ったことではない)は、一見わかりよすぎるほどわかりよい。「わかる」ようなところにこの詩の見どころはないと思うが、ある程度の構造の把握は、よりよい泥酔のために有用だろう。以下、比較的にはまじめな筋から鑑賞一例を開始する。 * 「「先生、このリンゴ、いつまで経っても同じ味がするんですよ」 そう言った君は今、目の前で眠っている。 目覚めることはない、故郷の麻酔薬で。 君の上衣を脱がせると、やはり、 立派な大都会が広がっていた。」 (『術産』1-5行) 「君」ののどには Adam's apple が、嚥下も咀嚼も消化もされず、延々とつまり続けている。かつて英語圏の大衆は、Adam's apple を「アダムは智慧のリンゴを食べ終えなかったので、エヴァほど原罪が重くない」と解釈していたそうだが、「君」は神の似姿たる男の優越を過信できていないようだ。下がらないその溜飲、腑に落ちない智慧のことを、気に病み「先生」に相談している。 「先生」に執刀される「君」の上半身には「立派な大都会が広がっていた」。「君」の Adam's apple から、智慧が流布し滲透したのだろう。その智慧は原罪(原義は「的はずれ」)、人を神の真理から遠ざける「麻酔薬」に相違ない。 「尾びれのついた、銀のメスが澄み泳ぐ。 先ほどまで群衆が守っていた、幹線道路、ビル街の皮膚へ。 つ、パキ、つ、パキ、 細い川が流れ出す。 止血用のガーゼには、救済を塗っている。 胸の中の、列車のようなあばら骨をゆっくり抜いて、 動物たちの牙や角を刺し込む。 君の体毛が、徐々に森に成っていくのが見えた。」 (6-13行) 「先生」は眠る「君」の「大都会」たる胸を切り拓き「あばら骨」を抜き取る。いかにもエデンの女体創造と思いきや、女体はとっくに被造されている。 「尾びれのついた、銀のメス」すなわち、流線型のメス(刃物)に尾びれを生やしたメス(性別)の魚。おばちゃんたちの井戸端会議で尾ひれのついた、根も葉もない虚誕が、研ぎ澄まされ世相を斬るイメージ。その奇天烈だがやけに的確な女性性でもって、「先生」は「君」の男性性を解体し改竄し、挙句の果てには懐胎(?)すらするのだ。 「肺から伸びる、記憶の両手をやさしく払いのけ、 小さな命の球を拾い、 隣に立つ天使の助手の手の上へ乗せる。 そこに人工心肺をつけ、胎動するよう刺激した。 その間に君の体は、 自分を抱え込むように丸くなって、 青緑色の綺麗な丸い背中を私たちに見せてくれた。 「先生、成功ですね」 助手はそう微笑むと、すぐさま次の現場へと翔び立ってしまった。 何故だろう。 私はぐるっと地球を回る。 決まって全員が、深い傷を負う。 水面をなぞると、偽りのさざ波が聴こえる。 無影灯がチカチカと、点滅し始め、 周りの蛾たちが、白い鳥となって降りて来る。 「先生、このリンゴ、いつまで経っても同じ味がするんですよ」 大きな黒いイボの下で、ちっちゃな君が言う。 「ああ、同じようだね」 私の胸が、ぱっくりとうなずいた。」 (『術産』14-32行) 「君」は「記憶」すなわち「大都会」へ至った歴史を改竄されて「森」へ回帰し、ついには「地球」へ改造される。「地球をぐるっと回る」「私」のさまは、あたかも地球を公転する月、そのイメージは例の「銀のメス(刃物/性別)」にしっくり合う。この文脈だと「銀のメス」が地球の皮をリンゴよろしく剥くような、無駄に多義的な悪夢が脳裏から離れない。道理で「決まって全員が、深い傷を負う」はずだ! 「深い傷を負う全員」には、「私」自身も含まれている、そのゆえ「私の胸」は「ぱっくり」切開されている。このあと「私」も「私」に開拓され「地球」へ改竄されて「私」に回られるのに違いない、公転する月から自転する地球への流転輪廻である。いよいよ読詩の酔いが周り、自分がなにを言っているのかわからなくなってきた。 「大きな黒いイボの下」の「ちっちゃな君」(30行)など、どこからどう言及すればよいのか。ともかくここでは、「私」が「君」の「小さな命の球を拾い、/隣に立つ天使の助手の手の上へ乗せる。/そこに人工心肺をつけ、胎動するよう刺激した」(15-17行)結果、「ちっちゃな君」が生じたとおぼしい。その解釈には、たとえば下記2種のどちらがより妥当だろう。 ①こんな怪しい助手の堕天使はエデンの蛇に違いなく、その掌中の珠といえば智慧のリンゴに違いない。「大きな黒いイボ」は「私」ののどぼとけであり、「ちっちゃな君」は切り拓かれたそこに植えつけられた Adam's apple である。「私」の Adam's apple である「君」が「君」自身の Adam's apple を(当然「私」自身の声で)語るというシュールな「神の視点」。 ②「銀のメス」(6行)に皮を剥かれる地球の姿を想像して思い出したが、月のクレーターは月中蟾蜍といって、イボだらけのヒキガエルにも見立てられる。そしてヒキガエルのイボから採れるいわゆるガマの油には、酩酊成分が含まれるのだ。もっとも有名なのは救心にも含まれているブフォテニンだろうが、世界最強の幻覚剤と名高い5-MeO-DMTもガマの油だ。もちろんその効能は「故郷の麻酔薬」(3行)とはまったく異なり、さらにいえば幻覚剤という用語にも語弊が(以下略) * つまりこういう、絵に描けず文にも説けない脳内映像の奔放こそが、シュルレアリスムを読む醍醐味ではないか、せっかくの酔える詩を酔いもせず読解とかあほじゃねーかと。わたしはシュールを解さないし読解大好きだが思うわけだな。
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熊倉ミハイ『術産』鑑賞一例 ポイントセクション
作品データ
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投票数 : 2
作成日時 2024-12-10
コメント日時 2024-12-20
熊倉ミハイさんの『術産』について、読解力があり、創作に精通した方からの批評を心待ちにしておりました! とりあえず一通り目を通しましたが、後ほど改めて、じっくりと噛みしめるように舐め回すように拝読させていただきます。
2めっちゃおもしろい。拍手。読ませるなあ、流石です。
2類さんようこそ、舐めるほど読むとこない旨をあらかじめ土下座します。このところ多忙なうえに体調不良で、ただでもろくな文章が書けないのですが、今作にはそれ以前の問題が。 類さんのお作を評する際にも生じるであろう煩悶ですが、こういう詩の評は、わたしにはすこぶる難しいですね。構造からの読解は陳腐な型にみずからはまるだけだから悪手だし、シュールを解さないので技術論も無理、ではなにを述べるというのか。自分の限界を思い知りますが、それでも賛意を示さないよりはましと信じ模索いたします。
1A・O・Iさんようこそ、お目に留まり光栄です。もっとまともな書き方があるはずなので再考は必至でしょうが、自分も自分の脳内映像にわりと笑ったから書いたわけで、なんらかの拾い物がありましたら重畳です。 以下はA・O・Iさんのお作を評する際にも要する注意なので書く余談です。本文序盤に書いたとおり、この作品は構造がわかりよすぎるほどわかりよいので、わたしの手癖でフツーに読解すると、話がとんでもなく陳腐になるのですね。陳腐化も重要な営為だと個人的に信じてはいるが、それで話が退屈になるなら、文字通り話になりません。「この詩は世界の懐胎を語っている」とかのどうでもよすぎる構造分析より、ガマの油の豆知識のほうが、話としてはおもしろいに決まっているのです。批評はあくまで評者の表現ですが、であればこそ可能な範囲で作品に寄与(作者に媚びる批評はゴミ)できるよう精進したいものです。
2お身体の方は大丈夫でしょうか。 拝読しながら思わず思考の隅々まで刺激される心地を味わいました。まさに言葉の一つ一つを堪能させていただきました。 >「銀のメス」が地球の皮をリンゴよろしく剥く この表現は、自分には全くない発想で、とても斬新かつ印象的でした。この比喩を通して、まるで新たな視座が開かれたようで、『術産』に対する別の観点を得ることができ、大変有意義でした。 シュルレアリスム的な作品の感想を述べるのは確かに難しいものです。手法の特徴として、具象的に描かれるがゆえに余白が少なくなりがちで、読み手の想像が介入しづらい面があるように感じます。ただ、その楽しみ方は、抽象的な余白を想像で埋めることではなく、むしろ具象的であるがゆえに生じる「余響」を感性で捉える点にあるのでしょう。そうした感性を具体的な言葉として説明するには、読み手に高度な知性や洞察力が求められる気がします。 たとえば、サルバドール・ダリの『記憶の固執』に衝撃を受ける人がいても、その衝撃の原因を言語化できる人はごく稀です。――簡明な一見解ではありますが、『記憶の固執』に、多くの人が心を動かされるのは、時計という時間を象徴する緊張感のある存在が、ダブルイメージの手法で「溶ける」ことによって、厳密さから解放される自由を感じるからではないでしょうか。固定観念が揺さぶられる感覚――これが作品の核となるのかもしれません。 『術産』についても同様で、その秘密を解き明かすためには、作者である熊倉ミハイさんが何を主題として、どのように表現を通じてそれを解放しているのかを掴み取る力が要求されるのでしょう。それが明らかになれば、『術産』の魅力をより深く感じ取ることができるのではないかと考えています。 それにしても、「黒いイボ」の存在は非常に謎めいていますね。果たして、メスで切り離すことができるようなものなのでしょうか。デペイズマンの手法を意識したものなのか、それとも異化効果を狙ったモチーフなのか。作品全体があまりに美しく整然としているため、あえてアクセントとして加えられた要素なのかもしれません。この「黒いイボ」は、その不可解さゆえに強く印象に残る存在です。 >類さんのお作を評する際にも生じるであろう煩悶 最近の私は、詩作において平易な構造を意識するよう心がけています。ぜひお目にかける機会があれば幸いです。その際には忌憚ないご意見をいただければと存じます。 どうぞお身体を大切に、またご意見をいただけることを楽しみにしております。 ではでは。
2こうした目覚ましいご教示をあろうことか無料で頂戴できるのだから、ネット詩は本当にありがたいものですね。なにはともあれご指摘からの刺戟で、本稿の改善の余地はすっかりわかりました。 >>「銀のメス」が地球の皮をリンゴよろしく剥く >この表現は、自分には全くない発想で、とても斬新かつ印象的でした。 光栄です、そこは男性には降りにくいヴィジョンだろうから、貴重な例示になるだろうと思って書きました。 つまり本稿は『術産』の語り手を女性(メス)と想定しているわけですが、「なぜそう読めるのか」の理路がすっぽ抜けていましたね。その説明には構造分析が必要だ、それは悪手だと思い込むあまり、修辞の聯関ひいては「作品の美点」を言及し忘れるとは失態です。さっそく猛省します。 >それにしても、「黒いイボ」の存在は非常に謎めいていますね。果たして、メスで切り離すことができるようなものなのでしょうか。デペイズマンの手法を意識したものなのか、それとも異化効果を狙ったモチーフなのか。作品全体があまりに美しく整然としているため、あえてアクセントとして加えられた要素なのかもしれません。この「黒いイボ」は、その不可解さゆえに強く印象に残る存在です。 わたしはシュールを本気で解さないので、用語を教えていただけるのは本当にありがたい。そして「黒いイボ」を「メスで切り離す」という発想が、わたしの脳内に(語り手とメスが同一であるため)皆目なかったことに驚きました。ますます自分の鑑賞の理路を、作品の多義性とその意義を否定しない範囲で、明示したい所存です。 * 以下は「シュルレアリスムを評するのは困難」に関する長話です。せっかくの機会ですから、比較対象に類さんのお作を採ることをご海容ください。特に文極の『Water』のような、近代詩に通ずるところも多い強烈な抒情詩は、この論題にうってつけの事例です。 http://bungoku.jp/monthly/?name=%e9%eb;year=2019#a04 こうした作品を評するのも、もちろん困難には違いありません。批評より作品を読むほうが早いに決まっています。抒情が一個の他者を鞏固に形成しているので、理解や共感のできようができまいが関係なく、納得し圧倒されるしかない。そういうまさに有無を言わせない説得力を、「強度」とわたしは想定しています。 わたしの思うシュルレアリスムの不可解は、その強度がないこと、特に抒情を決定的に欠くことに由来します。ですから、 >シュルレアリスム的な作品の感想を述べるのは確かに難しいものです。手法の特徴として、具象的に描かれるがゆえに余白が少なくなりがちで、読み手の想像が介入しづらい面があるように感じます。ただ、その楽しみ方は、抽象的な余白を想像で埋めることではなく、むしろ具象的であるがゆえに生じる「余響」を感性で捉える点にあるのでしょう。そうした感性を具体的な言葉として説明するには、読み手に高度な知性や洞察力が求められる気がします。 このご意見は美術に関してなら共感しますが、文芸に関しては、それ以前の問題がやはり気になりますね。特に詩歌を愛する読者の多くは、ほかのなにより抒情に重きをおきます。鑑賞においてもっとも注目される要素は「語り手」です。 類さんのお作には、「その詩境がその語り手の視座からどう見えているか」が明瞭に描写されていて、強烈な異化作用(ブレヒトでなくシクロフスキーのほう)が働いているので、読者が語り手の心境を容易に追体験できます。『術産』にはそれがかないません、描写から心情の機微が、よくも悪くも決定的に削ぎ落とされているからです。 『術産』がわざわざそのように書かれたのには、相応の理由があるはずだという当然の推測も、容易には信じられなくなるような文脈が、『術産』の背後には(もちろん作者様個人には関係も責任もないことだが)ある。それがシュルレアリスムおよびいわゆる現代詩です。詩の価値は新奇性のみと言わんばかりの、平坦で抑制的で含みのない文体による、ひたすら奇矯な取り合わせの山です。 ※──────────────── たとえば下記は、先日Xでプチ炎上した文月悠光の発言です。 「現代の目で近代詩を読むと、「何の変哲もないもの」に見えてしまうことがよくあったのだが、詩の歴史を辿りながら読んでいくと凄く発見がある。「当時は画期的だったのか」「確かにこの詩人の登場は衝撃的だな…」等。新しさが分かるようになる。」 https://x.com/luna_yumi/status/1855184196911665157 現代詩人は近代詩にまで新奇性を要求するほど奇矯で残念な連中なのかと、わたしはドン引きしました。文月悠光の詩を読んだことがないので実態はわかりませんが。 ────────────────※ そうした私情もあって、わたしは以下のご意見に共感しませんが、類さんだから言えることなのだろうなと深く感服しました。 >『術産』についても同様で、その秘密を解き明かすためには、作者である熊倉ミハイさんが何を主題として、どのように表現を通じてそれを解放しているのかを掴み取る力が要求されるのでしょう。それが明らかになれば、『術産』の魅力をより深く感じ取ることができるのではないかと考えています。 仮に作者に「伝えたいこと」があるのなら、伝わるように書けばよい、作者が書けていないことを読者が察してやる義理などないというのが、わたし(テクスト至上主義)の信条です。もちろん『術産』はわたしが唾棄するところの、察してちゃんクイズポエムには見えなかったので、こうして論評の俎上に乗せたわけですが。 類さんのお作は、有無を言わせない抒情によって、評言の及ばない詩境を形成していますからね。わたしは文極の周縁の、書けないやつの評など信用に値しないといった暴論のなかで育ち、あの暴論は結局真理だったといまようやく痛感しています。
2澤あづささんの論考で、語り手が女性である根拠がどのように提示されるのか、その理路をぜひ拝見したかったです。作品を構造的に分析することで知られる女医の澤あづささんがメスを執り、この作品をどう解き明かしてくれるのか興味深いところでした。 文学極道に投稿した私の過去作『Water』を一例として挙げていただき、ありがとうございます。この作品については以前も軽く言及されていましたね。なぜ『Water』が澤あづささんの目に留まったのかは分かりませんが、人それぞれ好みがありますからね。この機会に久しぶりに自分の過去作を読み返してみました。懐かしさと同時に、当時の苦しい日々が文面を通して甦ってきました。澤あづささんに評価していただけたことには感謝しています。当時はシュルレアリスムの手法を意識しながらも、文体の乾きと自分自身の激しい感情がぶつかり合い、結果的に湿り気のある作風になっていたと思います。叙情性とシュルレアリスムのバランスを取ることに注意を払っていましたが、それがどの程度達成できていたのかは、正直わかりません。 私は現在、地獄の中で生きています。ただ、これを言えばアフリカの貧困層など、本当の地獄を知る人々から憎悪や嘲笑、あるいは嫉妬を受けるかもしれません。ですが、私が指す地獄とは「個の地獄」です。この種の地獄は日本中に無数に存在しているでしょう。ここで私が言いたいのは、作品に深みや叙情性を宿すには、地獄を味わう経験が不可欠だということです。あえて暴論を述べますが、今を生きる詩人たち全員が地獄を経験すればいいと思っています。これは怨念ではなく、愛を込めた応援の気持ちからです。地獄を通してのみ生まれる表現があると信じています。 熊倉ミハイさんは、『術産』においては、伝えたいことが特にないのではないか、と私個人は感じています。もし伝えたいことがあれば、それはすでに作品の中に表現されているでしょう。再度、例としてサルバドール・ダリの『記憶の固執』を挙げるならば、この作品では「時計」がモチーフになっていますが、「時間」という概念そのものを描いているわけではありません。それでも、時計が溶ける様子に驚かされるのは、私たちが「時間」に対する固定観念を持っているからです。熊倉ミハイさんの作品にも、同じように固定観念への挑戦や揺さぶりがあると感じます。 具体的には、遠近法に対する固定観念の破壊が試みられているのではないかと思いました。ミクロとマクロの視点の倒錯や、逆説的な表現が散りばめられており、不思議な感触を与えます。ただし、作品全体を貫く太い主題を見出すのは難しいです。しかし、主題や筋が明確でなくても作品は成り立つのかもしれません。この点で、芥川龍之介と谷崎潤一郎が、「話」らしい話のない小説、について論争を繰り広げたことを思い出しました。この議論については、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』をご参照ください。青空文庫でも公開されていますので、ぜひご一読を。仮にご存知でしたら、申し訳ありません。以下に、『文芸的な、余りに文芸的な』で語った芥川の言葉を引用します。 「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。 「話」らしい話のない小説は勿論唯ただ身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙はるかに小説に近いものである。
2澤あづささん、批評文を執筆くださり誠にありがとうございます。 じっくりと読ませていただきました。 最初から順に、感じたことを述べたいと思います。(最後に類さんへの返信も兼ねさせていただきます) まず、Adam's appleの話、面白いですね。思い出したのは、多和田葉子さんの『献灯使』。無名が自分の喉を指して、「ここに地球があるよ」と言うシーンがフラッシュバックしました。 創世記、面白いですね。Adam's appleの話も含めると、のちの男性性の解体につながっていきますが、難しいなと思ったのは、テキスト自体は「君」を徹底して中性的に描いているところでしょうか。にしてもこのコンテクストを持ち出されると、結構着色されてしまうのだなあ、とは思いました。 智慧の流布が、「人を神の真理から遠ざける「麻酔薬」」。まさにその通りだと思います。だからこそ、対抗して使うのは「故郷の麻酔薬」で、それはエデンの園産・麻酔薬とでもいいましょうか。 「尾びれのついた、銀のメス」 ここの解釈は驚きました。確かにメスの魚、泳ぐ人魚の姿が浮かんできます。私としては、本当に「メス(刃物)」に尾びれがついて、刃物が泳ぐ想像だけをして書いていたので。澤さんの解さない、という部分がおそらくここでしょう。私も、妥当性の高い換言が他にあるならそれに同意するタイプなので、賛成します。 「私」が地球をぐるっと回るところと、「銀のメス」のイメージが重なるという解釈は、少し疑問が残りますね。決まって全員深い傷を負ったのは、一体どの時点だったのかという問題でしょうか。手術前、手術中、もしくは「君」が背中を丸め込ませている途中にパキっとヒビが入るような。まあ、曖昧なので「私」が舐めるようにその地球を見た際に、確かについたのもあるかもしれませんが…。 最後、「ぱっくりとうなずいた」ところの解釈、難しいですよね。副詞的用法だと思うので、実際に切開されているのかどうかは慎重にならざるを得ない、とは思いました。要は、他人事なんですよね。「私」は「君」に対して。リンゴの味の話をされて、「どれどれ」と味見してくるわけではない。にも関わらず、うなずいて同調だけはする。一回目の「君」の言葉には無反応だったのに。あくまで「患者」と「執刀医」という、へだたった関係を保とうとする、すごく形式的な最後だと思うんですよね。 「大きな黒いイボ」の解釈、①が面白いですね。Adam's appleの話を除いても、「ちっちゃな君」は「私」の手も加えられた新たな「君」なわけで。となると、「君」も昔は誰かの「執刀医」だったかもしれない、と考えると、「リンゴがいつまで経っても同じ味がする」というのは、「自分の作った地球に生っている果実は、いつも寸分たがわず完璧な味だな」、というニュアンスにも取れてくる、と想像させられました。 (ここからはコメント欄について) 笑ってくださったのは、幸いです。 類さんのイボの話から、私も少し疑問が浮かんできたのですが、皆さん、これってもう「術」は終わったと思いますか? まだやり残しがあると思いますか? というのも、「君」は勝手に背中を丸めて地球になったわけです。「私」の所為ではない。まるで、「じゃあ次はこのイボを切って!」と自分の患部をさらけ出してきたかのようです。でも、「私」はまるで彫刻作品を鑑賞するかのように眺めていくだけ。なぜ切除できないのか。「ちっちゃな君」が喋ってくれたから、安堵したのでしょうか。私は「黒い木」と意図して書きました。「君」が固執するリンゴの成っている黒い木。「私」には「イボ」にしか見えないのに…でも「君」を思うと切除できない、んでしょうか。ちょっと陳腐に見えてきちゃいました。 最後に、これは「伝えたいこと」にあたるか分かりませんし、澤さんにとってはノイズにもなりそうだとは思いますが、構想の箇条書きメモを残したいと思います。 ーーーーーー ①「」 ・死の無限性 ・生まれるのは、目を覚ますこと ・有生の条件は愛 ・生はテンポよくいかない ・螺旋形式 ②「」 ・文字を入れ替えて、別の場所に成り変わる ・国も体も切り分けられる。恨み。それが料理に。 ・時空が地続き。どこで断絶する? 食べて飲み込んだら断絶? ・言語も切り分けて、食べてくれ、無理やり組み合わせずに ③「」 ・痴漢、ということよりも重大な事件 ・イカというものを見えていない ・被害者とはなにか ④「」 ・街、に翻弄される ・森や川などの広がり、幻想性を持たない街 ・みんな、静かにサイレンを鳴らして生きている ・自然音ではない音たち ・街を幻視する逃避。双子のようなあなたと天使を探す ・心も、作り変られる。心も嘘のビルが建つ ・食べ物はさほど変わらない? ・移り変わる街にも無人な場所があって、そんな街を忘れることもできる ・街の外、あの高い空に君がいる。遠出しても、届かない場所 「手術開発」 ーーーーーー ①~④には、参考にした現代詩が4編あり、それぞれの問題意識を独自に分析しておりました。伝えたいこと、というより、私はその「意識」にとどめますね。使っていない要素も多くあると思います。この箇条書きの要素とにらめっこしながら「術産」は書きました。あと、原題は、「手術開発」でした。 類さんのいう、具象的に描かれるからこその余響を楽しむ、というのはまさにその通りだと思います。だからこそ、私の作品の抒情性は、詩のカメラがいつオンにされて、オフにされるか。どこにカメラが置かれたか、というメタ的な部分にしかないと考えています。この「術産」も、なぜ麻酔薬を打ってから、手術が始まってからの書き出しじゃないんだろう、なんで「私」がうなずいてすぐぶつ切りになったんだろう、と、作者として不思議に思っています。そこに抒情がありそうだ、という仮説です。 作者である私が経験してきた思いを、抒情を、そのまま直接押し付けたくはない、とは思っています。澤さんのおっしゃっている抒情の角度とは違うことを承知のうえで。 長々と書いてしまいました。無知で、初心なところもあります故、何かまたご教示くださればと思います。
3私の拙い意見にも丁寧に触れていただき、ありがとうございます。 熊倉ミハイさんの作品解説、あるいは作品に対する考え方や制作姿勢について、大変興味深く読ませていただきました。 まず、『術産』という作品の緻密な構想に驚かされました。一つ一つの作品を制作するにあたり、そこまで周到に構想を練られてから取り掛かられるのでしょうか……。これは驚きです……私のやり方とは全く異なります。 ちなみに、私の場合ですが……誰にも聞かれていないことを承知でお話ししますと、まずは一つのアイデアを生み出し、主題を決めて話を膨らませていきます。その後、完成した作品に対し、自分自身で徹底的に批判を重ねながら推敲し続けます。そして、最終的にその作品がどんな批判にも揺るがない強度を持つと確信できた時点で、ようやく真の完成として公開するか、あるいは在庫として保存する形にしています。ただ、そうしたプロセスの中で没にしてしまう作品も少なくありません。 さて、『術産』に話を戻しますと、やはり「メス」の存在が象徴的ですね。例えば、黒いイボを切除するという方向性が想像されますが、最後までそれを書かない。その「あえて書かない」という選択こそが、作品の神秘性を守っているのではないでしょうか。 また、「メス」が執刀用の道具であるにもかかわらず、「銀の」という形容詞が添えられている点にも興味を惹かれました。この表現には、単なる道具としての「メス」が、誤って「雌」と解釈されることを避ける意図があるのでは、と考えています。仮に「メス」に代わる名称が存在し、それが「雌」と紛らわしくないものであった場合、「銀の」という形容をあえて付ける必要はなかったのではないか、とも思うのです。 熊倉ミハイさんのお話を伺うほどに、『術産』における「私」と「君」の関係がますます不思議な距離感を持って感じられます。この二人の関係性に潜む微妙な曖昧さが、作品全体の不思議な世界観を現前させているように思えます。
3自分のコメントを読み返したところ、抜けている部分があったので、修正させていただきます。 >また、「メス」が執刀用の道具であるにもかかわらず、「銀の」という形容詞が添えられている点にも興味を惹かれました。 以下、修正版。 また、「メス」が執刀用の銀色の道具であるにもかかわらず、わざわざ「銀の」という形容詞が添えられている点にも興味を惹かれました。
3返信ありがとうございます。 まず「メス」について。確かに「銀の」をつけたのは意図的かもしれません。おそらくですが、早く「手術」をする詩の雰囲気にしたかったのだと思います。 5行目まで、それこそ「麻酔薬」は出てきてはいますが、何かの比喩だととらえられる場合もあって。6行目でそろそろ「手術」の雰囲気を固めるために「銀の」と書いたのかも。 それでも、私たちは人魚を見たことがないので、銀色に輝いている生物として想像できそう、とは思いますね。 作品に対しては、構想を練ったり練らなかったり、比率としては半々くらいです。練る時はこの「術産」くらい考えているかもしれません。 おそらく私は、アイデアの段階や初稿の段階で推敲を重ねるタイプなのかなと思います。もちろん、完成した後も手直しはしますが。 あとは、毎作品同じ構想の練り方にほぼならないですね。好きな曲の歌詞分析をして書く時もあれば、詩集一冊指定して分析……刺さらないなぁと思う詩たちを参考にして書いたり、色々です。
3いやはや眼福ですね。シュールもナンセンスもわきまえないわたしのコメ欄が、こんな高度な話題で盛り上がる日が来ようとは。シュルレアリスムと作者様の構想に関して、わたしは傍聴に徹することといたし、ひとまず類さんのお作についてのみ。 >なぜ『Water』が澤あづささんの目に留まったのかは分かりませんが、 むしろなぜ『Water』が評者の目に留まらないと思われたのか不思議ですが、考えてみれば当然ですね。「論評の俎上に乗りやすい作風」などをわきまえている小賢しい書き手に、あんな強烈な抒情詩を書ける道理はありません。こうして作者様の詩想に触れることは、テクスト至上主義者にとってすらすこぶる有益です。 わたしが『Water』を採りたがるのは、類さんのお作の一部に頻出する「シャボン玉」が、もっとも強烈に際立っている作品だからです。あのシャボン玉はまさにいわゆる分裂気質の象りで、わたしからみるとシュルレアリスムどころではない。ゆらぎようのない必然の、圧倒的に鞏固な一個の他者そのものです。 (分裂気質が文芸においてどれほど貴重な才能であり、かつ憚りの多い話題であるかは、言うまでもないでしょう。それが類さんのおっしゃるとおりの地獄であることを、わたしも重々承知している、あなたの地獄は詩才なのよなんて悠長に言えるわけがない。だが無念にも、それは事実だ。) 圧倒的に鞏固な一個の他者には、それこそ想像の(自分自身を投影する)余地がありません。全力で没入し追体験して、類さんがおっしゃるところの「余響」を堪能するだけです。すると結局、類さんのお作ははからずも、類さんのご教示のシュルレアリスムそのものだということになりそうです。
1作者様ようこそ、お目に留まり光栄です。返信の前にあらかじめ、閲覧者様に向けて念のため、以下のことをお断りいたします。 ・わたしはテクスト至上主義者ですので、作者様の意図には塩対応です。ほかのどの作者様にも等しく塩対応ですので、あしからす。 ・わたしの標榜するテクスト至上主義は、作者の人格を尊重するがゆえの自戒であって、作者の意図を軽視する思想ではありません。作者の表現は作者にしか完遂できないはずだから、わたしは作者の代弁者になりえないということです。 巷の特に現代詩人には、作者の自作解題を見苦しいノイズだと嫌悪する人も多いが、わたしはまったくそうは思いません。作者も自作の一読者にすぎないと定義する以上、自作解題も批評と同様に評価しなければ筋が通らない。わたしがいわゆる現代詩の最大の難点と思っている「没個性的な悪印象」の解消にも、自作解題は大いに役立つはずです。 * そういうわけで興味深く解題を拝見しましたが、作者様の構想には、現代詩人がよく吹聴する読者の想像の余地への(たいていが大きな世話であるところの)考慮がほとんどないのですね。もちろん最高によい意味で驚きました。 たとえば現代詩によくある正体不明の語り手(他者としては脆弱な主体)は、読者に自身を投影させるための鏡のように機能するはずだと、評者としては合理化したいのです。しかしやはりバルトが「作者の死、読者の復権」と述べた通り、活きている作者は読者に翼を授ける神などではありえない。ますます自作解題の重要性を訴え、作者の口を封じたがる勢力に反論する必要を感じましたね。 ちなみに、わたしは批評のみならず詩作においても「読者様にひとつでも多く拾い物を提供する」ことを最大の課題としますので、自作の註釈で引喩の詳細を伏せるなんてもったいないことは絶対にしません。熊倉さんの解題にも、そこは伏せないでほしかった、単なる私欲として。 * ところで拙評へのご感想を拝見し、自分の発想も人様からみるとけっこう奇想天外だったことを思い出しました。構造から理路を説明しても、読者様を退屈させることはなかったのかもしれず、説明しなかったことを改めて残念に思います。 >「私」が地球をぐるっと回るところと、「銀のメス」のイメージが重なるという解釈は、少し疑問が残りますね。 その読解の理路を明らめていたら、作者様の同意を得られたのか、もちろんそれを得ることを目的とする読解は愚行だが、興味はあります。
2返信ありがとうございます。 自分を見つめ直せる分析、じっくりと飲み込んでいきます。 補足として、引喩を伏せている点、勝手が分からなかったので、伏せた方が良いかなと思っていましたが、詳細も記してみます。 すべて、詩雑誌から。現代の傾向を捉えて書こうという狙いでした。 ①「有生」竹村啓(詩と思想 2023年10月号) ②「黒目川、膝折、」杉本真維子(現代詩手帖 2023年11月号) ③「ダイオウイカ」竹津健太郎(詩と思想 2023年11月号) ④「高円寺」平田俊子(現代詩手帖 2023年12月号) です。ご参考までに
1あと、追記として、 「現代詩人がよく吹聴する読者の想像の余地への(たいていが大きな世話であるところの)考慮」 については、考慮しなくても、思いがけない想像とその感想を言ってくださる人は出てきますし(妥当性は無視して)、考慮してもその余地まで踏み込んでくれるとは限らない(まずは作品の魅力が無ければならない)と考えています。 なので、その考慮は自分にとって二の次ですね。
1引喩の詳解ありがとうございます。案の定(わたしは弱視で紙媒体を読まないので)作品どころか作者すら一名も存じません。このような、よい詩が引喩の詳解によって別のよい詩を広める営為には、詩評よりはるかに高い価値があるとつくづく思いますね。詩評などその程度だと、諦めたくはないけれども。 現代詩は詩も批評も意味不明と有名ですが、不明なのは意味でなく価値だとわたしは思っているのです。よい作品がないわけでも、それが選ばれていないわけでもない。選ばれたよい作品の価値が、合理的に訴求されていないのが問題なのだと。 この点において熊倉さんは、信用と期待に値する書き手ですね。自作の評価を他人まかせにしない覚悟が感じられますし、自解も非合理的な自分語りに堕しておらず、じつに怜悧です。上のほうに引いた文月悠光の発言のような奇矯はもうたくさんだ、現代詩に力ある評(あるいは作品として成立する水準の自解)が隆盛しますように!
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