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Cosmos
夜の街燈はいつも 何かを考えている 光を灯すだけでなく 決して暗いことばかり 考えているわけではない 夜の街燈の思考が閃いて 宇宙が一輪の花になる あまりの果てしなさに 自分の孤独を感じてみるが それよりもずっと孤独に広がっていた 良かったことは この宇宙が花瓶に収まる大きさで 自分の部屋の窓辺に飾れること
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Cosmos ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1249.3
お気に入り数: 2
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2024-11-24
コメント日時 2024-12-17
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
作者コメント。 前回投稿した「Cosmos」の改訂版。一旦、これで完成とする。この完成形をB-REVIEWの掲示板ひいては自身のマイページに残しておきたかった。 言うまでもなく、完成とは成熟を意味するものではない。宮沢賢治が『農民芸術概論綱要』の中で「永久の未完成これ完成である」と語っていた通り、作品に完成はないのだから。
0>この宇宙が花瓶に収まる大きさで/自分の部屋の窓辺に飾れること。 ここがいいね、ここだけでtitle回収できている
0これ類さんの作品だったのか……。 匿名投稿の方を見ていい詩だなとは思ったけど、予想外というか何というべきか……。 >夜の街燈の思考が とかはなんか風景も想像できていいなと思いました。 ……しかし、こういうのを書けるんだったら、もっとバンバン書けばいいのに。そう思うのは僕のわがままだろうか。
0こんにちは。 タイトルにも触れていただき、ありがとうございます。
0こんにちは。 はい、私でした。 >……しかし、こういうのを書けるんだったら、もっとバンバン書けばいいのに。そう思うのは僕のわがままだろうか。 時たまに投稿してきたシュルレアリスムを意識した詩は、もっと複雑な構造から成り立っているのですが、化けの皮が剥がれてしまえば、このようなシンプルな詩になります。しかし、それなりに私の持つ技術を注いだ詩であります。 私の中で心境の変化があったのでしょうね。言葉の混沌と複雑さよりも、なるべく平易な言葉で詩をしたためたい、と思うのです。それと今は執筆に掛ける時間が確保されているため、詩らしい詩を書けるようになったのも、私の中で大きいと思います。
0僕も匿名cosmosにコメントした記憶があるけどコメントしてないかもしれませんねー題名はおぼえておりますよー >自分の孤独を感じてみるが >それよりもずっと孤独に広がっていた 「孤独」が連続してるのが少し気になりましたよーでも自然とこうなったとなれば「孤独」ダブっててもいいのかもしれませんねー重箱の隅つついてすみません。僕自身の詩作における自分ルールが偏執的なのが気になる原因なのでしょうねー聖闘士星矢はコスモ(小宇宙)を燃やせ!って叫んでましたねー「薬を飲んでから」を読んで「cosmos」読ませていただきましたよー何となく繋がりましたよー
0あきらかに前のVerの方がよい。こっちはデザイン的、前のVerは芸術的だった。
0こんばんは。 三明十種さん、Be issueはご存知ですか。恐らく来年の一月頃に反映されるBe issue 6に、三明十種さんの『葛の葉』を推薦しました。私のコメントも併記されることになりますが、感想ひいては批評ではなく、散文形式の短い返詩のようなものを勝手ながら書かせていただきました。このような予告は憚られるのですが、伝えた方がいいのか伝えない方がいいのか私自身、悩みました。しかし、この返詩が反映されるのは来年の一月頃ということもあり、三明十種さんがいつこの掲示板を去ることを考えると、一応伝えた方がいいかもしれないと思い、伝えさせていただきました。機会があれば、お読みいただけると幸いです。 >「孤独」が連続してるのが少し気になりましたよーでも自然とこうなったとなれば「孤独」ダブっててもいいのかもしれませんね 自然とこうなりました。しかしながら、やや冗長に感じられるのかもしれませんね。同じ言葉を使ってしまうのは、ボキャブラリーの貧しさが原因なのかもしれません。ここでは「孤独」は大切な要素であり、一回は使いたいのですが、一回だけで十分ということもあり、言い回しの工夫が必要となるかもしれませんね。 >「薬を飲んでから」を読んで「cosmos」読ませていただきましたよー何となく繋がりましたよー 三明十種さんの中で、どのように繋がったのか分かりませんが、「薬を飲んでから」と「Cosmos」とでは、自身の置かれていた環境も違えば、状況もまるで違う上に、そもそも「薬を飲んでから」は、作品ではありませんね。素直な実情を綴ったとは言え、内容は単なる愚痴であり、詩に対する愛が醒めていた頃です。 今は詩に対する愛が再燃し、創作に振り分ける時間が確保されていることもあって、自分の中では「薬を飲んでから」と「Cosmos」とでは、大きな変化がありますね。率直に申し上げると、今の方が地獄です。色々と、ありますからね。
0上の私のコメントは、三明十種さんへの返信です。
0こんばんは。 >あきらかに前のVerの方がよい。こっちはデザイン的、前のVerは芸術的だった。 ご指摘ありがとうございます。 詩は一回性の芸術と考えていて、一回出されたものは、それで終わりとするのが最も合理的な姿勢であり、何より折角読んでくださった読み手さんが初読時に受けた印象を、一部であっても塗り替えてしまうことの禁忌、ひいてはその初読時に受けた印象に勝る表現を行うことの難しさを知りつつも、極めてエゴスティックな理由から改訂をさせていただきました。 今回、改訂させていただいた箇所は、当該作品『Cosmos』の三行目である「光を灯すだけでなく」は元は「暗闇の中で光を灯すだけでなく」だったのですが、街燈が光を放つのは決まって夜の時間なのですから、「暗闇の中で」を省略させていただきました。 それと、六行目と七行目の原型は「夜の街燈の思考が閃きとなり/宇宙が一輪の花となる」は、少し緩慢な表現であると考え、イメージが流れるようにしたくて細部の改訂をさせていただいた次第です。 中でも大幅な変更があった箇所は、八行目から十行目の「あまりの果てしなさに/自分の孤独を感じてみるが/それよりもずっと孤独に広がっていた」であり、その加筆を行った理由は二つあり、一つ目は前回『Cosmos』を投稿したときに、アラメルモさんから「宇宙からはどうしても無限や永遠が想起されるのは分かるが、自分の言葉で美を表現してほしい」とのようなご指摘を受けたこともあり、確かに中途半端な表現だったのかもしれないと私も腑に収まったので、自分なりに宇宙のイメージを描写しました。宇宙が美しいことであることは、万人に共通されるだろう認識であり、宇宙の美しさとはまた別の表現を探れないものかと苦戦しました。二つ目の理由は、これはとても大切なことですが、『Cosmos』の七行目の「宇宙が一輪の花になる」は、読み手さんが、宇宙の広さを想像するマクロな視点を持つか、一輪の花の小さな存在を想像するミクロな視点を持つかで分かれる表現であり、小さな一輪の花を想像されてしまっては、十二行目の「この宇宙が花瓶に収まる大きさで」に込めた矛盾の意味が発揮されないと考えたからであり、徹底的に宇宙の広さを想像していただけるように推敲しました。もちろん、中にはマクロな視点とミクロな視点を同時に持つ読み手さんもいらっしゃったと思います。実はそのような方は『Cosmos』にとって貴重な読み手さんであり、理解が深かったでしょ。それでも、うん、欲が出てしまいました。なるべく多くの方にこの『Cosmos』の意味を理解して欲しいがゆえに、自身の欲深さから加筆してしまいました。もしかしたら、おまるたろうさんにはその卑しい欲求を見抜かれたのかもしれませんね。 もしもこの改訂版が最初に投稿されたものであれば、おまるたろうさんのご感想もまた異なっていたと思うのですが、そのような「たられば」は、物書きにとっては禁句とするべきですね。先述した通り、詩とは一回性の芸術であるべきですから。 長文失礼しました。
0上の私のコメントは、おまるたろうさんに対する返信です。
0~宇宙が一輪の花になる~この辺りの表現はあまり眼にしたこともなく、それがシュールな表現なのかと想像してみても一読では思いつかない。それは一輪の大きな薔薇の花びらかも知れないし、人生を振り返ったときの轍の跡かも知れない。永遠ににひろがる宇宙を花瓶の中に収めてみつめるという想念は量子論的な思考への暗示でもあり、一言では捉え難い。~宇宙が一輪の花になる~昨日のわたしは今日のわたしでもなく、当然明日のわたしではない。シュールな見方というのはそのように固定されない読みがおもしろいのであって、僕はそれが表現の個性だと思う。
0こんばんは、おはようございます。 こんばんはなのか、おはようごさまいますなのか、微妙な時間です。ただ今の時間は、AM4:00です。こんばんはなのか、おはようございますなのか、もしくは両方かもしれませんね。こんばんはでもあり、おはようございますでもある状態、まるでシュレディンガーの猫の思考実験のようですね。ま、そのような深遠なパラドックスの話ではないのかもしれません。 アラメルモさんのご感想は本質的で、『Cosmos』という作品は、それぞれの鑑賞者の中に様々な『Cosmos』となって生まれ変わったと思います。一輪の大きな薔薇の花びらを想像される方もいれば、人生を振り返ったときの轍の跡を想像される方もいらっしゃるでしょう。私の想像以上の印象を『Cosmos』に持つ方がいるかもしれません。私自身、多角的な作品を創造したいと考えています。 >宇宙が一輪の花になる この一句だけでは、単なるシュールな飛躍であって、シュルレアリスティックな表現とは言えないかもしれませんが、『Cosmos』の構造に組み込まれた重要な役割の一句であると察知できれば、その一句がシュルレアリスムの手法を用いられていることまで理解することができるでしょう。 しかしながら、「そのように読んでください」というお話ではありません。どのように読まれても私は嬉しいです。アラメルモさんは、シュルレアリスムの作品から鑑賞する喜びを得るためには、予備知識が必要と思いますか? 私はあってもなくてもいいと思います。アラメルモさんも同意されると思います。ダリが生きていた当時、シュルレアリスムの知識なんて持っていないだろう一般の方々が、ダリの絵に驚愕し、魅了されたわけです。それは現在も変わりません。 >量子論的な思考への暗示 中々に鋭い洞察です。一言では捉え難いことを、それこそ難解な知識を用いることなどなく、誰にでも分かるような平易な言葉で表現したいと考えています。
0入ってるなあと思いました。運を天に任せ傑作を作る類さんの世界観が出てる感じがします。シュールで、ドアーズのジムモリソンみたいな雰囲気ムードは感じました。説得力はどうか? というと、まるで、ミクロコスモスが花のコスモスになっちゃったぐらいの感じで、スケールの大きなものが人工空間の中に丸く収まり、ペットと化して人間の思考で理解出来る物になった時に今度は、それを語る人間の言葉が理解するのが難しくなっちゃったみたいな、ちょっと飲み込めるようで飲み込みづらい話ですね。窓辺に宇宙を飾れるという超現実的な世界観を、頭の中で咀嚼して論理矛盾も含めて絵として飲み込めるか? 古典落語にあたま山という話がありますが、あれは飲み込みやすいと思う。これはそれを詩として表したような内容ですが、もう少し客観性が欲しいかな。つまり外側から見た視点がもう少しないと安心出来ない。安心感は作品に身を委ねる時に大事かと。
0Be issueの件、了解しましたっ!光栄ですっ!いやいや教えていただいて良かったですよー楽しみにしとこー詩熱再燃ええやん!ええやん!僕も残火燃やしてやってまーす!
0表現力がとても面白いと感じました。「宇宙が花瓶に収まる大きさで」という限りなく大きい物を、それよりもかなり小さい物とするまでという表現力に感服しました。
0最後の3行が少し唐突であるような気がしました。 暗闇や宇宙、自身の孤独がひたひたと広がる中の一瞬の閃きと1輪の花との対比は面白いと思ったのですが。 花瓶に収まる宇宙への布石が詩の言葉としてあまり無かったからかもしれません。
0>運を天に任せ傑作を作る類さんの世界観が出てる感じがします。 傑作であるか駄作であるかも全て運に任せています。『Cosmos』も含めて、私の作品は全て運の産物です。私が経験する出来事や偶然の巡り合わせから生まれる思考や価値観は、まさに運に導かれた産物であり、そこから得られるアイデアも、一つ一つの偶然が累積した結晶と言えるでしょう。 >窓辺に宇宙を飾れるという超現実的な世界観を、頭の中で咀嚼して論理矛盾も含めて絵として飲み込めるか? 『Cosmos』では、『あたま山』と同様に、言葉でしか表現できない矛盾の世界を探っています。視覚的に映らないとしても、言葉にはその背後にある多層的な感覚を伝える力があります。単に論理的な整合性に頼るのではなく、感覚や直感で受け入れることに近いかもしれません。シュルレアリスティックな世界観をどのように受け入れるか、それは思考の自由さや柔軟性に深く関わっています。思考や視覚の枠を飛び出すことで、物事の本質や隠れた意味に触れる手段となります。 それにしても『あたま山』は深い啓示に満ちた噺であり、考えてみれば、人は誰もが自分の頭の中へ飛び込んで溺死する、のかもしれません。自分の思考や欲望という「頭の中の世界」の深みに飲み込まれる――このように落語からは、個々の解釈によってユーモアや滑稽さを超えて、示唆に富んだ教訓を得られます。私なら、自分の頭の中から飛び出して羽ばたいてやろう、と思います。 >もう少し客観性が欲しいかな。つまり外側から見た視点がもう少しないと安心出来ない。安心感は作品に身を委ねる時に大事かと。 確かに『Cosmos』は、内的な要素に満ち満ちており、自己完結している一面が強調されているでしょう。外側の視点が欠けると、閉じた世界になりがちです。その孤独さが、いかなる安心感をも跳ね除けてしまうのかもしれません。広大な視点をもたらす宇宙さえも、矛盾の力によって花瓶の中に収束し、内的な要素として部屋に飾られるという結果になっています。私はミニマリズムを意識して、余計な情報を削ぎ落とし、核心を際立たせる手法を採りました。その所産として、『Cosmos』の抱える内面的な孤独感と矛盾の力が一体となって、いかなる安心感も、いかなる客観性も拒絶し、不安定な感覚を与えることに功を奏したのではないでしょうか。安心しないで欲しい、というのが私の本音であり、挑戦状でもあるのです。とは言え、次回に投稿する作品は、もっと軽い筆致で書いたものです。是非、機会があれば、またお読みください。
1こんにちは。 嬉しいお言葉ありがとうございます。 想起したブコウスキーの金言を以下に引用します。 「小さな種火を残し、その火を絶やさないで。種火さえあればまた燃え上がるから。」 どんなに小さな希望や情熱でも、それを大切にし維持することの重要性を感じさせられます。ひいては些細に見えるアイデアの種も、大事に守り続けることで、一つの作品が樹立する可能性があるという点が、とても励みになる金言だと思います。
0こんにちは。 「宇宙が花瓶に収まる大きさで」という表現は、想像の限界を壊すような矛盾の中に深い意味を感じてもらえることを願っていました。大きさと小ささ、無限と限界といった対照的な要素を用いることで、視点を転換させ、固定観念を覆す手法としても機能すると思っています。
0成程、深いですね。 視覚的整合性を欠いた世界。勝手ですが、コメントを受けて投票させて頂きました。 解釈に納得し、深い作品と認識を新たにしました。 視覚的整合性に囚われない世界。それは私の実は追い求めていたものに近い気がします。
0こんばんは。 >最後の3行が少し唐突であるような気がしました。 >花瓶に収まる宇宙への布石が詩の言葉としてあまり無かったからかもしれません。 ご指摘ありがとうございます。 唐突さは、『Cosmos』にとって本質的な要素であると考えています。しかしながら、それはポジティブな効果とネガティブな側面を併せ持つ諸刃の剣でもあります。詩の流れにアクセントを加える手法の一環である一方、紅茶猫さんの仰る通り、文脈に布石が不足している場合、読み手に混乱や違和感を与えるリスクがあることは承知しています。不意打ちのように感じる方もいらっしゃるかもしれません。 それでもなお、私にとってこの唐突さは意図的に配置したものであり、そこから生じる緊張感や驚きが詩全体の世界観を引き締める鍵であると考えています。ただ、その取り扱いには細心の注意が求められるのも確かです。シュルレアリスムやダダのような流派では、唐突さはむしろ本質的な要素です。今回の『Cosmos』については、現行の形を維持しつつ、紅茶猫さんのご指摘を深く心に刻み、次の詩作に生かしていきたいと思います。
1こんばんは。 視覚的整合性に囚われない世界を追い求めているという点に共感していただけたこと、とても嬉しく思います。しかしながら、それもあくまでも私の詩作の一面に過ぎません。私はもっと様々なバラエティの形式を模索していきたいと考えています。
1宇宙の果てしなさ。宇宙自体が一輪の花に。宇宙が花瓶に収まる大きさと言う事に脅威を感じます。飾られた宇宙はどんなビジュアルなのかと言うところも興味をそそられるところです。
0こんばんは。 >飾られた宇宙はどんなビジュアルなのかと言うところも興味をそそられるところです。 ご想像にお任せいたします。お好きなように思い描いていただいても構いません。 ご感想をいただき、閃いたことがあります。もし、宇宙を飾った花瓶が落下して割れてしまったら、これまで閉じ込められていた宇宙が解き放たれ、再び果てしない広がりを取り戻してしまうのかもしれません。そして、その解放された宇宙は、私たちの日常と静かに溶け合いながら、新たな秩序や形を生み出していくのでしょう。とはいえ、それはまた別のお話かもしれませんね。エイクピアさん、ご感想をありがとうございました。
0この詩を読んでひとつのビジョンを思い出しました あれはいつのことだったかも覚えていないし なぜだかも忘れてしまったんですが その夜 僕は裸眼でした シティのはずれにある友だちの家で何杯かワインを飲んで いい心地になりながら すこし気分を変えて いつも乗るバスででなく 徒歩で家まで帰ることにしました およそ三十分くらいの行程です 僕の住むアデレードは碁盤の目のようにできてまして 更にそのシティの周りをぐるりと緑地が囲んでいます 住処は数キロ西に行ったところにあって そちらの方には 墓地から始まる人工的な林が続くちょっとした丘になっていて その下方には貨物線や客線路やら長距離列車などの列車線たちが固まって伸びていまして シティから真西に徒歩で向かうと それらを全てオーバーパスするためにかなり立派な跨線橋を てくてくてくてく歩いて越えていくことになります アデレードの夜はとても静かです 歩道の隣は片側二車線ずつの車道で なにかの群れのように車たちが行き交う以外は ほとんど風すら動きもしない たとえば透明な巨人たちが線路の上に仰向けになって寝息を立てているようでした 僕はひどい近眼のうえに乱視なので視力を矯正しなければ ほとんど物事の輪郭が保てず あまつさえ視界の利かない暗い歩道橋の疎らに立っている電灯の光は強調され拡散されて見え 光線を何倍にも大きくするのでした 遠くにあった信号機が特に美しく 緑にまた赤に点滅していく様は なにか世界の本当の秘密を示唆しているようでした 近づいてみると 信号灯はたくさんの小さな電灯でできており 光の絞りがデタラメになった僕の眼では それらひとつひとつのアンプリファイされた光がまるで花のように開いて ゆらゆら揺れました それは蝶のように踊り あるいは戦うようにすら見えて すこし僕はそのイメージに中てられて なんとなく 指を伸ばしてそれをつかもうとするのでした というのも いままでひとつの光としてみえていたものも 実は無数の光の集合体だったんだなと なんだか感銘を受けたからです 無数の星の宇宙がひとつの信号機だったら あるいは一輪の もし想いをひとつの花にすることができたら こんな風に飾ることができるのかもしれない と思いました 僕は誰かの孤独を いやむしろ自分の孤独を救うことすらできないのかもしれませんが 類さん 僕はこの前お花を買ったんですよ それはだんだん萎れてきてますが 僕の孤独をまさしく救ったものです そしてもし言葉をひとつの花にすることができたら それは永遠に咲く花で この詩がそうですよ
1俺の話も聞いてくれるかい 俺がまだ高校生の時の話なんだ 俺は福岡県の北九州というところに住んでいたんだ ガラの悪い土地柄だったんだけどさ 俺の愛する街でさ 俺もガラの悪い人間だったかもしれない でもヤンキーとかギャル男とか そんなんじゃなくて 孤独な人間だったんだ 真夜中になると いつも一人ぼっちで 真っ白い革ジャンを着て オールバックにして イカしたブーツを履いて 知らない街から知らない街へ ひたすらに歩き続けたんだ 俺の住む街はさ 海沿いでね 港町の方へ歩いていくと 潮風の湿った独特の匂いが漂ってくるんだ そして俺はいつも 歌を歌っていた 口ずさんでいた 彷徨っていた 友達がいなかったわけじゃないけど とても少なかったんだ 俺の中で渦巻いているものは わけのわかんない 色とりどりの言葉たちだった! ちょうどいい場所を見つけるとさ 座れそうな所に座って ガラケーを取り出して 詩を書いていたんだ! でもね 目の前の現実なんて どうでもよかったんだ そんなことより内面で蠢き続けるやつを 吐き出したかったんだ 思春期のゲロみたいなもんだ 止まらないイメージの爆発を ひたすらに書き殴ってやった! 行き場がなかった どうしようもなかった 孤独だった でもね こうして あなたが あなたがたが 天才詩人2さんたちが こうして詩を読んでくれて こうして思いを語ってくれるのです 俺と同様に孤独だった詩が あなたがたに読まれ あなたがたに救われました この詩は 俺の魂が宿っています それはとてもとても孤独な魂です 願わくば あなたがたが あなたがたの心の窓辺に この孤独な詩を飾って 愛してくれますように そして この孤独な詩の花が あなたがたを 天才詩人2さんを 癒してくれますように 天才詩人2さん 安心してください この詩は言葉で作られているために 永遠に枯れません あなたがたが この詩を忘れ 色褪せてしまわない限り…… この詩を 言葉の花束を あなたがたに 天才詩人2さんに お渡しします
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