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レイモンド・チャンドラーの猫
レイモンド・チャンドラーの猫はタケというなまえだったのだが、 来訪するアメリカ人たちの発音によってタキとゆがめられ、 図らずも、bambooからwater fallへと変身を遂げた われわれはなにかを誤解すること、 おもいちがうことによって、 世界というものの真に近づくのである イギリスの夏は遠い 手のひらが熱くなる午後の港 たったいま交わした約束がでたらめだったと 吐きすてることもできないいまま客船を見送る どこにもトポスを持てない、 われわれの世代 悲しい一撃を求める孤独の果てで われわれはきみをもういちど抱きしめたい われわれは猫のなまえのように変容するなにかでしかないのだから。 *追記 最期の詩集をちかぢかだします。題名はまだ決まってません。読みたいひとは是非ぞうぞ。↓ https://drive.google.com/file/d/1a9pQhkUMOeAOkLmCFKwyAmRrjVo5N-FX/view?usp=drive_link
レイモンド・チャンドラーの猫 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1535.9
お気に入り数: 2
投票数 : 3
ポイント数 : 13
作成日時 2024-07-14
コメント日時 2024-07-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 3 | 3 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合ポイント | 13 | 13 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 3 | 3 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 13 | 13 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「ロング.グッドバイ」もちろん R.アルトマン監督作品だ。観たかな。忘れた。もう一度確かめたい。 英国の夏は遠い。しかし情景も飛んで尻切れ中途半端に終わらせている。詩集の宣伝がしたいだけなんだろうね。にゃんこい。
0ヒントを書いておくと「イギリスの夏」というチャンドラー作品がある。
0訂正。「アラガイ」へのコメント。
0もしも親切さを売りにするのなら2連目は以下のように書くべきだったかも知れぬ。 『イギリスの夏』の午後は長い 永遠だとジョン・パリンドンはおもう、 それはまさにイギリス人とおなじくつづくのだと 「アメリカ人特有の咽頭音ってやつがぶり返して来たのさ」とかれはいう、 「長い冬眠から醒めてね」って
0ヒントもクソもないさ。だったら「イギリスの夏」という本の~を付け加えればいいし、あたまの中じゃできてるじゃないか。親切、に? だいたいね、魂がこもってないのよ。言葉に魂が。手を抜いてるのがわかる。
0われわれはなにかを誤解すること、 おもいちがうことによって、 世界というものの真に近づくのである どこから引っ張ってきて加工した言葉か知らないけど 読んでみた限りでは、 あなたがこの言葉の意味を理解して書いているとは とても思えない。 イギリスの夏は遠い もちろん「イギリスの夏」なんか一ミリも知らない のでしょうけど、知らなくても詩ならある感性の もとで書ける。だけど、これはちょっとひどい。 全体がイギリスの夏を知らなければ書けない構造に なっているのじゃないかな? でも書いてしまっている。 雰囲気だけで。そういえばこの作者の書くものは いつも雰囲気だけだ。それじゃあまりに空疎だ。 ラストの連などそういう意味で低劣だ。 ちっとは自己愛の館から足を踏み出して、痛くとも 眩しくともいいから、外をちゃんと見てはどうか。 自分でなにかサイトを主催してるんでしょ? これじゃあまりにひどい。
0生憎精神論には興味がない。言葉の焦点をカメラのレンズのように合わせたり、暈かしたりできるというだけのことだ。
0誤読も読みのひとつとして赦されてもいいだろうとわたしはおもっているが、あなたのコメントは途中で分裂してしまっている。詩の意味や、それを支える技術について云いたいのだろうけど、途中でただの貶しになり下がっている。「いつも雰囲気だけ」? その根拠は提示しなくてもいいのだろうか。《ちっとは自己愛の館から足を踏み出して、痛くとも眩しくともいいから、外をちゃんと見てはどうか。自分でなにかサイトを主催してるんでしょ? これじゃあまりにひどい》とは話にもならない。特に「自己愛の館」以下はtakoyo2氏の偏見と願望、そして精神的勝利が怨念のように隠っていて、詩への批判というより個人批判である。わたしはサイトを主催していないし、主宰しているのは短歌誌と出版局のみである。それだって詩の優劣にも好悪にもなんら関係はない。本筋とは関係のないことをあるかのように書いていて、それこそ低劣な感情的批判である。
1些か、コメント欄が波瀾の趣を呈していらっしゃいますけれども。 知るが故知らず、 知らぬが故知る、 ということも甚だ、あり得ると存じ上げます。 体験、経験主義の危さとは、畢竟創作の俎上にて最も必須でございます想像力を否定し、 体験(此れも主知的に分析を致しますならば、肉体を経過しつつ空想力、想像力を実感を致します営為)を懐疑も無く肯定をして仕舞います様な、 主観的振る舞いに耽溺をしてしまいます事を奨励していらっしゃる点にあらせられると、思われるのでございますが。 良い詩(人其々にその尺度はございましょうが)の立脚地点とは、主観と客観の同時的存在、或は主客両者の中間地点の辺りにあるのではないでしょうか、 と感受を致しました次第でございます。 獄中歌人でも、闘病詩人でも、素晴らしい作品を書き上げる御方はあらせられます。 重要なのは、必ずしも実際経験ではなくとも、 書物や美術等の表現に触発され、謂わば二次的な、想像的経験、と申します様な営みを重ねて行かれに為られる事なのではないでしょうか。 その点に於きまして、本作を評しますならば。筆圧の強かな作風の程が主‐潮流となっております本界隈に於きまして、 謂わば淡彩画的輪郭を伴いになられました情緒の趣(夙に第三聯)が、謂わば非‐国籍的な透明性を纏われた、不思議な情感を醸していらっしゃられると、 感受を致しました次第でございます。 勿論、異論の程も謹んで受け賜りたく存じ上げます次第でございます。
11.誤読も読みのひとつとして赦されてもいいだろうとわたしはおもっているが、 誤読がなぜ許されるのでしょう? 自由な解釈や読みは「誤読」じゃないですよね? 誤読ってのはどこまでも誤読です。それがなぜ許されるのか理由が聞きたいのです。 あのね、誤読ってのは正読のための過程であるといえばいいのですよ。 正読なんて誰にも出来ないけど誤読の積み重ねで正読に近づくんでしょう? それを頭から誤読でいいなんていってるから、何をいってるのかなと思ったのです。 途中でわたしの何が分裂してるのかな? あなたにヒントを与えてあとは考えて ほしいから次に移っただけですが、わかりませんか。 2。「いつも雰囲気だけ」? その根拠は提示しなくてもいいのだろうか。 この詩、誰が読んでもアメリカの作家・詩人たちの文体や心的境地の物真似であることは 明らか。あなたが彼らの本を読んで、「ああ、こういうのいいなあ」「こんな風に書きたいな」 という子どものような純なファン心理がそのまま文章に反映したものにすぎない。自分では そのままそっくり米国作家になりきってしまっていて、おれの心そのものだと幻想している のでしょうけど、読者は岡目八目で冷静ですから。これは「誤読」じゃなくわたしの感想です。 3.《ちっとは自己愛の館から足を踏み出して、痛くとも眩しくともいいから、外をちゃんと 見てはどうか。自分でなにかサイトを主催してるんでしょ? これじゃあまりにひどい》とは 話にもならない。 憧れる作家の文体や心的境地に憑依して、物真似の如き文章を書くことが悪いかどうかを いってるのではないのです。そういう少年のような純粋無垢な時代はだれにでもある。しかし、 わたしたちはもう大人だ。日本は日本ではなく世界の中に漂う舟のように存在しているとき 大人が、いつまでもそういうところに佇んだままでいいのかと疑問を投げていってます。 貴方がた「帆」の方々には進歩というものがまたくない。いつまでも、 薄い穴蔵のようなところにしがみついて、人より少しは上手に書ける程度の 才にしがみついて自己満足にふけっている。そこから一歩でも前に歩けないのか どうか、そういうことを問うているのです。多分ご理解いただけないでしょうが あなたがたが主催しているところへ投稿をされている若い方々のことを考えると 失敬かとは思いましたが、やはり一言いわざるをえないと思いました。 失礼いたしました。
0この詩の第1連めは誤解・誤読のもたらす予期しない結果を描いたものだ。読みまちがうことで生まれるだろう表現もあるだろうとおもい、書いた。もちろん、それは結果をもとにだれかを非難したり、権利を侵害しなければという条件に於いてと考えてだ。チャンドラーの猫のなまえを例にとって、それを提示したまでである。 アメリカ文学からの影響は否定しないが、その影響に限定して書かれた詩ではない。嵯峨信之や、田村隆一、吉原幸子といった詩人からも影響はあるし、「いつも」という限定の答えになっていない。たとえば過去にこの場所に投稿した『駅にムササビが』という作品があるが、それも貴殿にとっては同様に読めるのだろうか。少なくともこの詩に登場するのは領邦としての日本の「われわれ」であってアメリカ人ではない。そもそもアメリカ人はタキとタケの区別もついていない。 あとづけの理論でどうとうでもいえるだろうが、『自己愛の館』という語はかつて貴殿がべつの名義で繰り返し発言した『急性精神発達症』となんら変わらない。本質的には相手を一等下に置くために必要な区分──それも侮蔑表現であって、その域を出るものではない。《日本は日本ではなく世界の中に漂う舟のように存在しているとき》──これも苦しい。日本が日本でなかったときなどない。漂ってもいない。世界は領土も領海も決定されてある。それを守る国と、守らない国があるだけだ。 短歌を解さない人物に歌誌について語る資格はない。実際読みもしていないだろう。われわれがもし自己満足しているのなら、続刊をだすどころか、スタートもしなかっただろう。むしろじぶんに不満があるからこそ、ひとは表現するものだとわたしは考えている。「失礼」だとおもうのなら、黙っているのがいちばんの利口である。 アラガイ氏といい、ふたりとも合評マナーにある、「作者に敬意を持って、批評すること。」ができていない。論理を装って悪態を吐いているだけだ。「ヒステリーチャンネル」のレギュラーを狙うなら、それもいい。
1>論理を装って悪態を吐いているだけだ。 この読みが「誤読」ではなく「正読」だとあなたが思っているのなら そもそもこの詩の内容自体が無意味になるのでは? しかし冷静に相手の意見を意見として聴いてみるのも悪くないと 思うのだけどね。わたしはあなたより詩は下手どころか初心者レベルだが 文章を読むことにかけては年季を積んでいる。ここに現代詩をちゃんと 評価できる人間なんか一人もいないことくらいわかっている。 たまには歳寄りの意見を聴く度量をみせてはいかがですか。わたしは これまで黙っているだけで、それほど阿呆でもないし、ヒステリー? なんかこいているヒマもないですよ。思想性や世界認識がかけらも 見いだせない詩なんか、もはや今の時代には無用だと思うだけです。
0私はこの作品すごく好きだわー 〝世界〟がすごくよく描かれているし、この文体もめっちゃ好き。雰囲気はめちゃくちゃ変わったけど、これは中田さんの文体から派生していると思う。中田さんらしさを残しつつも更に美しく変貌している。蝶みたいに。 詩集の方も読ませてもらいますねー この作品は入れないの?
1では貴殿のいう、『自己愛の館』という語や『急性精神発達症』という語はいったいなんの目的で発せられた辞なのか。こういった侮蔑や悪態を耳を貸すのは浪費でしかない。度量もなにもない。「わるい書物などいうものはない。わるい読書があるだけだ」という寺山の辞を反芻するだけだ。貴殿にはもっとふさわしい書物があるはずだ。
0ありがとうございます。詩集のオマケとして改稿版を最期に収録しました(もくじには載ってませんが)。いままでわたしの詩を愉しんでくれたひとたち、ありがとうございました。敬白
1よかったね、褒めてくれる人がいて。 わたしもうれしいよ。人はみな違う。そのことを わかってほしいね。あなたとわたしは違うんだよ。 またronaさんとわたしもまったく違う。それが人間。 いちいち批判されたからといって悪態を吐いているだの と悪態つくのは幼稚すぎる。
0老人介護はわたしの仕事ではないということだ。あしからず。
1ちょっと否定てきな見解を述べるとどうしてこうも 悪態だの、罵倒家だとのいわれるのかな。笑 わたしやatsuchan69さんみたいに皮肉や嫌がらせ受けても いい刺激だとばかりにニヤニヤ笑ってられる大人になって ほしいな。いつになったらきみは精神的に成長できるのか? 幼児性から脱却できるのか、それが心配だよ。でも、あれだ、 正直なコメントはしなきゃいいのでしょ? はいはい、二度と コメントしませんから。それでお互いに了解しましよう。 簡単な話です。
0追記 『急性精神発達症』なんてだれが、どこでいってるの? もうさあ、こんなことやめなさいよ。ちょっと批判的なことを言った だけで余裕をなくしてトタン屋根の上の猫みたいに毛を逆立てて ありもしない、いいもしないことばを持ち出してくる。 少しは冷静になってくださいよ。大人になりましょう。
0言葉の焦点をカメラのレンズのように合わせたり暈かしたりできるというだけのこと。その動機は何ですか? 中田さん、あなたね、入魂、気持ち気合いを込める。ってスポーツじゃないんだから根性論との違いくらいはおわかりだろうよね。生憎精神論には興味ない。では科学論文でも書けばいいのどすえ。
0強くなければ生きていけない 優しくなければ生きる資格がない われわれと孤独。ハードボイルドな構図と語りに落とし込まれた最終聯が航跡のように残るようでした。世界にはたくさん猫の写真や画像に動画がありますが、街をうろつき遊ぶ、そのあたりのノラを捉えたものは存在しないのかもしれません。永遠にとらえることができない決定的瞬間なるものが猫そのものであり、生であるかのよう。 知と無知。理解と誤解、コンニチハサヨウナラを交差しながら進んでいく、瞬きのような裏切りと反故の表裏をみる一瞬一瞬を思いました。
1わたしは投稿掲示板のコメント欄でレスバの応酬するなどという莫迦な行いをやらかしてしまった。いまさら反省している。それと自作について逐一答えるとか、自作解題するといった失態を演じてじぶんを恥じ入るばかりだ。「作品というものは作者が半分つくり、もう半分を読者がつくる」という原則を忘れていたし、「作家の責任は作品を書いてリリースすること」という辞を忘れていた。それでもアラガイ氏とのやりとりのなかで第2連を改稿したのは正しかったとおもう。以下、最終稿。 レイモンド・チャンドラーの猫はタケというなまえだったのだが、 来訪するアメリカ人たちの発音によってタキとゆがめられ、 図らずも、bamboo から water fall へと変身を遂げた われわれはなにかを誤解すること、 おもいちがうことによって、 世界というものの真に近づくのである 『イギリスの夏』の午後は長い 永遠だとジョン・パリンドンはおもう それはまさにイギリス人とおなじくつづくのだ 「アメリカ人特有の咽頭音ってやつがぶり返して来たのさ」とかれはいう、 「長い冬眠から醒めてね」って どこにもトポスを持てない、 われわれの世代 悲しい一撃を求める孤独の果てで われわれはきみをもういちど抱きしめたい われわれは猫のなまえのように変容するなにかでしかないのだから。
3改稿前の方が良かったな。チャンドラー作品を知らない者にとっては小さな親切大きなお世話で最初に読み込めていたイメージが総崩れになる。こう読ませたいという意図が丸見えで色んな意味でがっかり。
1いろいろと意見はでるだろうし、そういわれると引き返したくもなるのだが──まあ、今回は『イギリスの夏』をちゃんと読んでなかったわたしの盲点だなとしかいえないな。改稿前のものは9月に発刊の小冊子『Uncollected Poems : 2022 to 2024 / "A Psyco killer Without Agony" / ChapBook : 4』に収録するよ。PDF⇒ https://drive.google.com/file/d/1Noec0A3w6ahMRps8eplb3IlKQbu_67P7/view?usp=sharing
0まぁ作品は作者のものだと思うので改稿されてもしゃーない。 でも私は改稿前の方が断然好き。
1先日、こちらのサイトの「葉舟」という作品に感想をあてたのですが、なかなかにむつかしく、難しいなら黙っていればいいものの、何故か動かされる作品でした。魅力的だったのですね。 ちょうどわたしの突飛な感想を投稿する前に、こちらのレイモンド・チャンドラーの猫を読みました。なんというタイムリーな作品なんだろうと勝手に運命を感じたものです。変な言い方ですがわたしには後ろ髪を引かれつつ、後押しをしてもらったような気がいたしました。 一枚岩のように感想が共通すること 気まぐれな猫のようにありつづけることはつきつめれば孤独になる どちらもおもうことが多すぎて わたしはそれらのことに対して 「いいかげん」に接することしかできない だろうなぁと思っております。笑
0手癖で書いてるね。力尽き果てている感じ。
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