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ダグマ 1 [南仏紀行]
ダグマは旧東ドイツのドレスデンから息子アンドレアスを頼って南フランスに滞在していた。友人もなく言葉も覚えようとしない私のために、事務所で働くアンドレアスが心遣いしたのかもしれない。彼女は、ある日気軽な調子で話しかけて来て、私たちはすぐにともに行動するようになった。海辺で私が日本から持って行った仏・英・西(スペイ語)・伊の簡易な翻訳ができる計算機を仲介にして、様々なことを語り合った。 ダグマの娘はバレリーナ、もうひとりの息子は故国で建築に携わっている。90パーセントが戦争で破壊されたドレスデンの建物を、新しく建てている。その建物には、ポール一本にも最初から古びを施すのだという。彼もダグマもそうしたドイツのやり方に誇りを持っているのが感じられた。日本にいた頃ヨーロッパの指導者が、「私たちは新しさの美と歴史を重ねた美のどちらを選ぶかを熟考し、歴史の美を選んだのです。」と語っていたのを思い出した。日本もそうだったらどんなによかっただろう。何度新しく立て替えたとしても、はじめから古い美しさを持った街や村。私は、桜の花びらが浮かんで流れる川沿いを、絵日傘を差して和服の親子が歩く日本の写真誌をダグマに見せ、「日本も美しいのよ」というと、そのたびにダグマは、「日本の自然はとても美しい」とだけ言った。 「ナチスについてどう思う?」ダグマは戦争中、4.5歳の少女だったはずだ。彼女はしばらく黙っていたが、「政治が悪かった」と言った。彼女はグレーがかったすみれ色の瞳をしていたが、不思議な表情を持っていた。笑うときはごく控えめで、考え深いほほえみ、というくらいであったが、否定的な表情をするときに驚くほど大きな変化を見せる。眉間のしわを思い切り深くし、顔全体を中央に寄せ、その後、ぽん!という破裂音とともに心をはき出すというような。そのときすみれ色の瞳は、私が見とれるほど美しく燃え上がる。 ダグマと私の最も気の合う点は、ふたりがどんなに歩いても疲れない足を持っていた点だ。私が憂鬱なフランス語の授業を受けている間、自由なダグマは、今日はあの山の麓まで歩いてきたのよ、と彼方の山脈を指さした。もう若くない私とダグマが、校庭や海岸でいつも一緒にいるのを、日独同盟、とアメリカの少女たちは笑っていたらしい。 白い波と潮騒に包まれた灯台の下の岸壁にふたり足を投げ出して、私は現地の書店で買った独仏版の『ドゥイノの悲歌』をダグマにドイツ語で読んでもらい、テープに録音した。
ダグマ 1 [南仏紀行] ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1093.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-03-12
コメント日時 2017-03-30
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
3連目のダグマの否定の表情、の描写に強く魅了されました。様々な描写を通し、ダグマという人物がとても魅力的に思えます。 舞台はフランスですが、ダグマという人物を中心に据え、抑えた過不足のない筆致から、ドイツの風景が立ち昇ってくるようでした。感情の描写が無くとも、いや、それゆえに、主人公とダグマの友情が実際の事柄の描写を通じて伝わって来ます。最後の海で詩を朗読するシーンも素敵です。 ドイツはいつか行ってみたいと思っている国なのですが、その気持ちがより強くなるような詩でした。好きです。
0あまりにも正攻法というのか・・・リルケの『マルテの手記』は、果たして小説なのか、散文詩なのか、というようなことが、しばしば問われますが・・・そんな、ある種のビルドゥングスロマン的な小説の一節を読んでいるような感覚がありました。翻訳文体と言えばいいのか。もう若くもない二人、という所から見て、戦後50年以上が過ぎているのか。ドレスデンの再建はいつまでだったか、とググったら、フラウエン・キエウヒェの再建が終了したのは戦後60年、とのことでした・・・そんなにも時間がかかっている(かけることに意義を見出している)のか。スペインのサグラダ・ファミリアもそうですが・・・宗教的背景があるのかもしれませんが、日本の戦後再建、復興との差異をそこに感じますし、そういったことへの批評的視座が、今後の作品に現れて来るとより深まるのではないか、と思いました。 ドレスデンの、徹底した再建の執念は、恐るべきものがありますね・・・北の陰鬱な空と、寡黙で黙々と仕事に従事する人々、フリードリヒが描いたドレスデン近郊の淋しいような悲しいような沼沢地の映像、海辺の風景を重ねつつ・・・
0キエウヒェ、ではなく、キルヒェ、です・・・修正の仕方がわからないので、レス欄で。
0日本の若い世代の人たちは、広島と長崎への原爆投下や東京や大阪などへの大空襲などを知らない人が少なくありません。「この世界の片隅に」のヒットによって、こうした負の歴史に興味を持つ人が確実に増えたであろうことは、喜ばしいことだと思います。ドイツに関しても、ナチスによるユダヤ人迫害を知っていても、ドレスデン爆撃の悲劇を知る日本の若者はそれほど多くないのではと思います。連合国側のアメリカやイギリスの国民ですら、多くの民間人を巻き添えにしたこの爆撃が必要であったのか疑問に思う者が多かったと聞きます。そして現代においても、ドイツの極右政党などがドレスデン爆撃を政治的宣伝材料に使っているそうです。これは原爆やユダヤ人迫害にも言えることですが、悲劇の本質から目をそらして自分たちの利益に結びつけようとする行為には嫌悪感を抱かざるを得ません。 ドイツの人たちは、ドレスデンの街並みを可能な限り再建しようとしています。語り手は、それを素晴らしいことであると思い、その一方で古い建造物が持つ歴史的価値を顧みない日本人を悲しく思います。まあ例えば英国においてはロンドン大火でロンドン橋やほとんどの木造の建物が焼失しましたが、彼らはこれを新しい都市を造る好機と考えて石造りの建物による新しいロンドンを誕生させました。日本は地震や台風などの災害も多く、歴史の保存と災害に強い街作りの両立という難しい問題を解決していかなければなりません。 それはともかく戦争による破壊と再建、国による歴史観の違い等々、非常に興味深い散文詩だと思います。リルケの「ドゥイノの悲歌」をドイツ語で朗読してもらいテープに録音するという終わり方も、作品の内容を考えれば実に見事なしめ方だと感じました。タイトルから想像すると続きがあるようなので、自作を楽しみにしております。
0*白犬さん、コメントありがとうございます。 ほほを膨らましてぷっとはき出すのは、他の人にも見たことがありますが、ダグマはとても強い仕草で、国の歴史が痕跡を残しているのかな、と思ったものでした。 この頃は、不安や歓喜の波が大きくて、五感を総動員して切り抜けていたので、事実そのままに書いても目に見えない感情が寄り添ってくれるのかもしれないと思いました。うれしく読ませていただきました。 ドイツは都市も城も小さい村も美しいですね。 私もいつか行きたいです。 ダグマはまた登場しますので、よろしくお願いいたします。 *まりもさん、コメントありがとうございます 「あまりにも正攻法というのか・・・」 「ビルドゥングスロマン」 「翻訳文体」 皆さんにさまざまに指摘されるところですが、端的に言ってくださってすっきり納得できました。 一つ思うのは、環境や日々押し寄せてくるものが予想のつかない困難さをはらんでいる場合、まっとうであることが身の助けになる、という実感を持ったことがありました。 元々の性格や傾向はスイング?やロック?しているのですが、 その反作用というか生き抜くための「まっとう」への矯正がうまくいきすぎた結果かと思います。 もう少し本来自分的なところで、今となっては冒険?も試みたいと思います。 これからもよろしくお願いします *もとこさん、コメントありがとうございます。 この舞台となった2002年頃、日本への原爆投下を知らないアメリカの若い人たちが多いのに驚いたのですが、今や日本も同じ状況だったのですか・・・。 あえて知らせようとする力が働かないと、知らないまま充分生きていけるということですね。 恐ろしい気がします。 でも、これ以上過去の痛ましい事実を知れというのも酷な気さえする、 震災など大災害を老いも若きも目の当たりにしつづけている近年でもありますね。 複雑ですが、やはり知ること自分だけの知識として押さえておくことは、たとえば表現として発する一つの単語の力や豊かさのためだけでさえよいことと、 もとこさんのコメントは感じさせてくれます。 >まあ例えば英国においてはロンドン大火でロンドン橋やほとんどの木造の建物が焼失しましたが、 彼らはこれを新しい都市を造る好機と考えて石造りの建物による新しいロンドンを誕生させました。<(もとこさん) 実は、戦後の焼け野原に立って、同じように考えた日本人がいたそうです。かれは、 「パリのような、ロンドンのような、ワシントンのような、いやそれ以上に美しい都市東京を!」と願い、尽力したのですが、復興の怒濤のエネルギーに飲み込まれて、今の東京になったのだと・・・。 「ドゥイノの悲歌」へのまなざしなど、とてもうれしく読ませていただきました。 ありがとうございました。
0まりも様 もとこ様 そんな深い意味のある詩だったのですね。。 戦争の部分をさらっとしか読めず(理解できず)、ただただ、この詩の簡素かつ端正な佇まいに惹かれていましたが、全く読めてなかったということですね。 自分の無知がとても恥ずかしいです。無学な人間です。ドレスデン、調べます。 横レス失礼致しました。 fiorina様 私は詩の訴えたいことを全く読めていなかったようです。すみません。そんな輩にも優しいレスをいただき、ありがとうございます。 意味も分からず、ですが、素敵な詩だと惹きつけられたのは確かです。続きも楽しみにしています。
0*白犬さん、 私も自分の好きなことだけ衝動的に追い求めて、それだけをたいていにんまりしながら書いているので、堅苦しい顔つきはしてるかもしれませんが(時にそういう顔をするのが好きでもありますが)、読む方がどこかに惹きつけられてくだされば、これ以上の歓びはありません。ありがとうございます。 *花緒さん お久しぶりです。すてきなサイトを立ち上げられ、日に日に充実されていく様を拝見していました。 >この一編で、詩情を感得できるかというと、わたしには、あまりよくわからなかったというのが正直なところです。<(花緒さん) 皆さんの詩やコメントを読ませていただいて、「そうかもしれない」と花緒さんに通じる若い方々の感覚を想像的に受け取っています。 私自身は最近、詩文だけに限らずじみ~なものから極彩色まで感受してしまうので、我が身を省みずいうと、利休と秀吉の争いのようなものがいつの時代も表現にはあるなあと素朴に思うのですが、若い頃は退屈こそ暴力だと思っていました。 自分がそうなっているのかもしれないという恐れを抱きつつ、まずは皆さんの感覚に目を瞠りながら少しずつ学ばせていただきたいと思っています。 『ドゥイノの悲歌』は、晩年のリルケが古城に一人暮らして書き上げた生命の賛歌であり悲歌ですが、私は生きてきてこの詩しか読んだと思える詩がないくらいなのに、翻訳でしか朗読できなかったので、ドイツ人に読んでもらえたのは悲願というか、やった~!という感じでした。(いまは、youtubeで簡単に原文朗読が手に入ります。) 長文失礼しました。これからもよろしくお願いいたします。
0僕は、目が悪いのか頭の状態が悪いのか、速く文を読めないので、ゆっくりじっくりと読めたこの詩で、少し(個人的な事について) 救われました。イメージが、どの詩文からも、豊かに立ち上ってきて、穏やかで、感情に満たされている文なので、生きるのも そんなに悪いことばかりが起きるわけじゃないな、と思いました。そして、もう一つ、「美」というものに、僕は大きくこだわっていた みたいだと、思いました。音楽でも、良い音楽は、構成やなにかが、整っています。詩だってそうです。見た感じで美しいのは それだけで意味があるし、良い感触を受けるのは、やっぱり美しい。心も美しくありたい。そうするのが、生きる目的になるかも しれないな、と思っています。人生勉強も、美抜きでは、考えられません。僕自身としては、そういう究極を、求めるべきだと、 考えました。
0*黒髪さん リルケは『ドゥイノの悲歌』で「美は恐るべきもののはじめに他ならぬ」と言っています。 この言葉の意味を私がどのくらい理解できているかわからないのですが、 >美しくありたい。そうするのが、生きる目的になるかもしれないな、と< >僕自身としては、そういう究極を、求めるべきだと、考えました。< (黒髪さん) 今こう言われる黒髪さんと同じように私も、かつて『ドゥイノの悲歌』に導かれ、人生を歓びのうちに歩き続ける狂気が平凡な私の生に宿っていくのをに感じました。肉体が滅んでも消えることも後悔することもない日常の歓び。 そして、ダグマと歩き語り合う中に更に感じたのは、ヨーロッパでは街全体、そこに生きる人々がすべて(路上にうずくまる物乞いの人も)美の歓びの中に生きているということでした。一人の個人の部屋がどれだけ貧しかろうと散らかっていようと、一歩外に出れば目に飛び込んでくる街が美へそそのかさずにいないからです。 うれしいコメントありがとうございました。
0ダグマと語り手を通じて、いろいろな事をこれから伝えていこうというか、書き綴っていく作品だとおもうのですが、まだまだよくわからない事だらけで、読んでてピンとこない所が多かったというのがひとまずの感想です。(多分。僕は天才詩人さんの作品を先に読んでしまってるからかもしれない。) 続きの作も投稿されているので、それを読んでから感想を寄せた方がいいのかもしれないと思いつつも、気になった所について、少し触れてみたいと思っています。 >「日本の自然はとても美しい」 この返事の仕方ですかね。なんとなく連載の始まりみたいな感じで、個人的にはちょびちょび読んでいけたらいいなと思っています。間違いなくこういった紀行文を書ける人っていうのは、、、増えてきてるかもしれないんですが、それでもやっぱりリアルタイムで読んでいけるというのは単純に楽しみです。
0*hyakkinnさん この文は、導入部をはしょったところから始めていますので、不親切なものになっていると思います。すみません。続けて読んでいただけるよう、ピースがはまって少しずつ映像が鮮明になるよう願っています。これからもよろしくお願いいたします。 > >「日本の自然はとても美しい」 > この返事の仕方ですかね。 (hyakkinnさん) 私もこの表現に少し沈みました。その後、ダグマにドレスデンの写真集をもらったり、ネットで画像検索し、人間が作る街の美しさに明確な意思がある国と、一部の場所を除いてはそういうことをあきらめているかのような国との違いを感じました。日本の自然を褒めてくれたのはダグマの優しさだったと思います。自分の生まれた国やふるさとを愛するのは誰にとっても同じだろうと思いますが、それが絵のように美しく、しかも爆撃で殆ど破壊されたというのは、どんな気持ちだろうと思いました。
0*天才詩人さん B-REVIEWは作品の質量もさることながら、真摯かつ繊細な語らいと学びの場になっていることに魅力を感じます。激しい応酬はなくとも、時をかけゆっくりと浸透し定着していくものが、個人にとっても場にとっても自然な熟成、到達になると信じています。 「ダグマ」へのコメントありがとうございます。 >忌むべきことにそうして膨大な労力を投入して作り上げたメトロポリスも1940年代の空襲で再び灰に帰してしまう。この間、おそらく15年もないわけです。< (天才詩人さん) 日本列島を一人の存在としてみると満身創痍の痛ましさですね。それなのに「豊か」と言われるような国になっていることの恩恵は、海外ではより強く感じていました。それ故にこそ、私は無い物ねだりをしてしまうのかもしれません。 パリの裏通りを警視メグレのように歩いていたとき、向こうから歩いてきたフランスの少女に、すれ違いざま「帰れ!」という仕草をされました。ちょうど旅行者や移民が増えすぎて、パリ市民が憤慨しているという記事を読んだばかりの時でした。そのとき、「あなたも日本に来ればいい」と心の中で返したのですが、次の瞬間、私がそうしているように、彼女が歓びにあふれて日本の裏通りを歩くだろうかと考えました。この人が来たいと思うような国でなければ、彼らが営々として築いた美を盗み食いするような旅は、心からの喜びにはならないと感じたのです。経済的な国力とは異なった、もう一つの国の力として、ヨーロッパは小国でも美しい町や村を作り続けている、と感じました。その驚きを、こどものように書いてしまうのかもしれません。 私は漫画経験は、『星の竪琴』『リボンの騎士』『カムイ伝』『ポーの一族』などです。 本当は貸本屋に入り浸って手当たり次第、新聞の4コマ漫画や化粧品の宣伝漫画までむさぼり読んでいましたが、「キャンディーキャンディー」は名前しか知らなかったです。「キャンディーキャンディーを読んで育った一女性の、(でもそれなんかちゃうやろ)という呟き」を聞くために、手に取ってみたいと思います。
0散文としても、詩としても、美しい文章だと感じました。海外の香がいたしますが、やはり日本人としての視点を感じます。それはたとえば、旅に行けば、異文化の中に飛び込むわけで、孤独にならざるを得ない瞬間が出て来ます。そんな趣を文体と語の選択、その運び方から感じ取りました。
0*葛西佑也さん >孤独にならざるを得ない瞬間が出て来ます。そんな趣を文体と語の選択、その運び方から< (葛西佑也さん) この旅は不安と孤独と自由をひりひりと感じながら空の下を歩くことが主でしたので、生きることをそれで十全だと感じる自分がいて、それらが文章ににじんでいればいいなと思っていました。他の方の詩を読んで、私のは描写と主張が勝っているなあ、と感じつつあります。こちらで今感じていることは新鮮で、今後への意欲となっています。ありがとうございました。
0欧州の歴史とは、戦争の惨禍を経ることにより醸成された個人主義であり、それが、国家という概念の基底にあるユーロ。英国を模倣した日本における国家という概念に、脆弱さが漂うのは、その確立されない個人主義の為だと。旧東ドイツでもしも、「ゆとり教育」について説明を求められたら、本作『ダグマ 1 [南仏紀行]』を是非読んでくれと、僕は云うかもしれない。読者の皆さんは「ゆとり教育」が成そうとした目的をお判りだろうか。それは、個人主義の確立。その賛否は別として。美の感性は個人主義に依らなければならない。美的センスと批評。 尚、この作品紹介コメントは三浦の主観であり、仮定に基ずくものであり、反証に耐える知識無き、三浦が無学であることを前提とする。 fiorina さん、投稿有難う御座います。
0*三浦果実さん B-REVIEWのゆったりとした静かな歩みに、すてきな散歩道を見つけた思いです。どうぞよろしくお願いいたします。 >「ゆとり教育」が成そうとした目的をお判りだろうか。それは、個人主義の確立。< (三浦果実さん) わたし自身は、ゆとり世代を大きく(上方に)逸脱した世代ですが、個人的に自然を教師にしていましたので、後のゆとり世代の方たちと同じ空気を吸って生きてきました。 そういう日本人は、ダグマにとっては時々首を傾げる存在だったようです。 周囲にいたフランス人や欧米人の個人主義とも異なった、脆弱な個人主義を発散していたことでしょうね。 >美の感性は個人主義に依らなければならない。< とてもうなづくことであると同時に、たとえば大きく切り取った一枚の絵(風景)を、目を瞠るほど美しいものにと願うとき、個人主義が築きあげた今の日本の風景に少し疑問を感じるのです。私のようになんの力も持たないものは、ただ願うことしかできないのですが、 生まれ病み老いて死んでいく人間の避けられないドラマに、できるだけすてきな舞台(書き割り)を、と望まずにはいられません。ダグマも私もその点では一致していました。文中でダグマの言ったことはわたし自身の声でもありました。 三浦さんのコメントが意図したところを感じられたかどうかわかりませんが、コメントうれしく読ませていただきました。ありがとうございました。
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