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指揮
生まれつき聾唖を背負った 人生は地獄だと 一本の大きな釘が私の胸めがけて突き刺してきた その日から私は 果てしない透明の中に自分を失いそうになりながら 無音を指揮する能力を身につけようとしていた 26歳になってすぐ統合失調症を背負った やはり人生は地獄だと もう一本の大きな釘が私の胸めがけて突き刺してきた その日から私は 限りない狂気の中に心を崩されそうになりながら 幻聴を指揮する能力を身につけようとしていた 思えば不思議なことだ 無音と幻聴 この相反する現象が混ざりながら同居していて 二本の大きな釘が私の胸の最奥へ 螺旋を描きながら結び合い 一本の釘になる その日から私は 引き裂かれそうな自我を保ちながら 矛盾を指揮する能力を身につけようとしていた 私の人生は暗闇に満ちていて 星がひとつひとつ光り輝いていた 私の胸に突き刺さった一本の甘美な釘を抜き取って 指揮棒のように人生の地獄を奏でながら 背負ってきた全ての悲しみの向こう側へ その祝福を指揮することができるのは 他でもない私しかいない
指揮 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 963.0
お気に入り数: 2
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2024-05-19
コメント日時 2024-05-27
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
私を指揮できるのは私自身という強い意志。良い詩です
0釘を抜き取ったら、どんな素晴らしい可能性が開けるでしょうか。 『HUNTER×HUNTER』っていう漫画で、主人公の仲間の男の子が、兄によって脳に埋め込まれていた 針を抜き取って、覚醒した、っていう話がありますね。 無責任に言うと、暗闇を指揮するその内的体験は、誰も感じたことのない高みに上るでしょう。 その経験を踏まえて詩にすれば、みんなと通じて素晴らしいことができる。
0胸に刺さる長く太い釘、無音と幻聴、指揮と指揮棒 直面されている具体的な困難を共有することはできませんが、自分の血を流している釘を大きな痛みとともに抜き取って指揮棒にするという光景の強さに心が動かされました。
0自分の人生をがっぷりと勇敢に真っ向から扱う姿は御立派です。素晴らしい意気込みのある詩ですね。感動した。
0コメントありがとうございます。 僕は虫のように弱い人間ですが、弱音を奏でてばかりではいられないと思ったのです。しかし、無音や幻聴を指揮することは、やや強弁に過ぎたのかもしれません。闇の中で虫のように生きている人間の悶絶ぶりを素直に綴らせてもらいました。けれども、光が欲しいですよね。自分の人生、祝福を指揮することができるのは、やはり自分自身です。武士は食わねど高楊枝、という諺にあるように、武士の家系として心強く生きていかなければならないと思っています。
1コメントありがとうございます。 内的体験と言うと浅学ながらバタイユを想起しますが、絶望の物語を通して眩しい希望を描きたいと思っていました。酔狂とも言える反骨精神の実況です。夜は暗くても星は見える、だから僕は大丈夫だと自分に言い聞かせています。
1コメントありがとうございます。 ”No pain, no gain”という言葉が僕は大好きなんですよね。痛みなくして得るものなし、という意味です。心の痛みを生む釘を指揮棒にすることで心の支えとなるものにしたかったのです。雨の中でも嵐の中でも、たった一人でも、悲しみの向こう側へ懸命に指揮してやろうではありませんか、人生を祝福するために。
0コメントありがとうございます。 予定調和的ではないかと危惧していたのですが、好感触に感謝致します。男の意地を描写して良かったです。無音や幻聴を指揮することと、胸に刺さった釘は架空の比喩とは言え、無音と幻聴という耳の問題を抱えている事実があるからこそ、比喩のリアリティが読み手に伝わったのでしょう。そういう自信があります。僕は人生の敗北者なのかもしれませんが、敗北者とは言え負け惜しみではなく自分の人生を祝福したいと思います。
1生きていくうえで悲しみというのは誰でもありますが、それは不快なものだと定義することができます。これは例えば、映画や舞台、感動ポルノで演じられる悲劇への観客の反応とは決定的に異なります。 人生に起きる不快。これは個々人の感じ方の問題でしかないのですけど、だからこそ強力な根拠となりえる。 まあ、ホラー映画だって不快と感じる人がいますが、これはあくまで劇場内での出来事なので、どうにも不快でたまらないのなら、会場を出て行けばいいわけですけど、実際は不快なだけではないですね。わざわざ観に行ってるんですからね。 人生でいくつか起きる事件によって不幸になるときに、これは単にしあわせがないからということではなくて、もっとはるかに強く不快が同伴している(今、わたしは長い闘病の末に亡くなった父のことを思い出しています) 不快な感じ。社会的に、人生的に否定的に評価せざるを得ない事実に反応しないといけない時に、意思的に、こういう感じ方をしないのが、いちばんよいのではないかな...と考えました。 あと、こういうことも考えたのですけど、もし自分の人生に否定的な事実があったとしても、ホラー映画を見ている観客みたいな感じ方で捉えられれば、たんに不愉快なだけではないはずなので、そのほうがいいのではないかな、とか。 わたしなりの「指揮」論でした。
0『指揮』論ありがとうございます。 不快な出来事も昇華させることが創作の醍醐味でしょう。カタルシスを得るために創造するには、当事者感覚を持って自身の人生と向き合うことが重要です。同時に自分の状況を俯瞰する冷徹な能力も要求されるでしょう。主観的でありながら客観的であるということ。バランスのいい視点を持つことは、創作における作品内の情報の取捨選択の決定に役立ちます。ただ、自分の人生の出来事を、自分自身どれだけ把握できているか、認識のネットワークでどこからどこまで網羅できているか、それは人生に対する態度の問題でしょう。認知バイアスで認識が歪んでいる場合も考えられますがね。映画であれば不快なら出ていけばいいのですが、人生からは逃げられません。ツァラの唱えたダダだけが運命から逃がしてくれるそうですが、壊れた頭で無意味へ走るのも御免ですね。絶望です。キェルケゴールの死に至る病の一種に侵されながら、聖書を読む気にもなりません。それでいて絶望を捨てる勇気もありません。僕の絶望は家にあります。毎日、絶望的な映画の中で暮らしています。解決策が見つからない絶望です。しかし、ユーモアは必要ですね。真剣なユーモアで絶望を吹き飛ばすことができればいいと、希望があるとすれば、それしかないと思っています。
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