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盛夏の死
歳月はわずらわしい蚊の唸りのように経過した。時折、神経をすり減らすその蚊は接近し、肌に止まる。するどい痛みに体が震え、追い払おうと手を出すが、こういうときに限っていつも反応が遅い。既に蚊は離陸して、また以前のように、映写機にも似た羽音をたてている。フィルムが引き続き一枚一枚、淡々と入れ替わり、執拗に私をつきまとう。 私は毎日、こぢんまりした部屋にこもって腕時計を組み立てた。ルーペを通して拡大された小さな歯車をピンセットで取る。灯りにかざして形を確認する。寸毫のずれもないように円盤に嵌め込んで、メカニズムを結晶させてゆく。 順調であれば一日五本のペースで組み立てられるが、それには繊細な手の動きと、注視の継続が必要だ。手首が効かなくなったり、精力が尽きてしまったりすると、何日か寝込んで仕事が滞ることもある。寝込んで完治する病もあれば、一生続くであろう痼疾もある。 集中をなるべく妨げないように、周りの錯綜とした世界から私はできる限り遠ざかった。 住処は、森の孤独を思わせる、閑散とした街の一角の屋敷に移した。百年も前に砂糖の生産で大儲けした実業家が、来賓用に建てた宿らしい。 壁は厚く、天井は高く、外には美しい装飾が施されている。道路に臨んだ面には最上階の五階までギリシャ風の柱が突き抜けている。傍でミューズたちが舞って不動の世界から、路傍のわななく木々に向けて、指先を伸ばしている。ベランダの手摺や、柱の両端にはアカンサスが硬い葉を広げて、何十年も朽ちることなく茂っている。地表付近の外壁には、数年前までは隈なく除去されていた蔓草が、近年の管理人の怠惰を見計らい、辛抱強く根を張っている。彼らは日差しを求め、石灰が輝いている高所に登ろうとしている。低い箇所のアカンサスは、もう随分前から蔓草に巻かれ、すっかり隠れてしまった。 季節は流れ、蔓草は枯れ、寒さは壁を侵食し、路地は大きな氷塊になる。寸暇も惜しんで回っている秒針を見て、根性と精力があった青年期を思い出す。夢を抱き、風を切って歩いた若かりし日、それは過去となり、現在もやがて去る。 海は際限がないと気づく。航海をいくら続けても、空と海の二つの青の境界線が四方にある。夢は地平線そのものであった。 作業をやめ、部屋から出た。切れ目がないと、夢と現実の境が分からなくなるように、時計から目を逸らさないと、時間の認識があやふやになる。代わり映えしない光景を見続けると、今は記憶のなかの過去なのか、と自分に問い詰めたくなる。同様に、未来も、既に過去に包含されている気がしてくる。自由意志はないのだと。 私はソファーに腰を据え、お茶をたしなむことにした。暖炉から薪が爆ぜる音がしている。 部屋の壁紙にはイーカロスが描かれている。硬い筋肉が隆起した腕や足、胸には調和しない、しなやかな羽。地面を足で蹴りながら歩く無力感から解放された美男の唇からは悦びが洩れている。視線は上空へと向かっている。虹彩には緊張ともとれる澱みがあるが、飛翔の軽やかな動作に慣れるにつれ、それも弛緩へ変わる。入ったら抜けられない悦楽へと、イーカロスは踏み入った。太陽のコロナに呑み込まれて、彼は永久の叡智を手にした。叡智を体得してない地上の者は、彼の行動を嘲笑し、神話にし、語り継ぐ。 口に近づけたカップから、湯気がのぼり視界を遮った。香りの微粒子は鼻のなかに入り、嗅毛に触れる。嗅覚受容体が働き、匂いを分析し、脳に結果を届ける。年老いてからは、この銘柄の茶しか飲まない。同じ香りが幾度も情報として脳に届き、また同じか、と息をつく自分がいる。もはや香りではなく、腐敗する体の汚臭に思えてくる。 うたた寝をしていた。目が覚めるまで分かからなかった。カップは空のまま、テーブルに置いてある。体が寝汗で濡れていた。暖炉には熾火もなく、細々とした炭が散っているだけだ。 吐き気がする。立ち上がると、体が揺れて、壁が傾きはじめる。狭まってくる天井と床の隙間で押しつぶされそうな感覚から逃れようと、おぼつかない足取りで進む。壁に掛かっていた絵画が落ちる、戸棚が倒れる、シャンデリアの硝子が割れて降ってくる。痛みが目に見えない小さな蝿たちのように、皮膚を刺してくる。歩く先は、ドーナツ状の隧道のように過去に直結する。光った四角形が見える。外の光を遮るカーテンだ。それを思いっきり腕で薙ぐ。 街路に通ずる窓だ。木々の緑が目を抉る。陽炎が無人の道路を支配している。暑気が蟻の巣を、葉の気孔を、埋められた柩の隅々まで、世界の穴隙をひとつも残さずに満たしている。熟れた果実を噛んだときの勢いで、体中の汗腺から汗が放出される。空気が柔らかい固体みたいに肌に密着する。 葉が揺れ動き、風が治まると、再び静寂が訪れた。かすかな声。高調子の声が鼓膜を刺戟する。女性の笑いだ。 陽に雪白の肌を晒したミューズたちが、姿を現した。円を描くように踊りながら彼女たちは、下界の人々を誘った。一人のミューズがそっと駆け寄り、私の手をとって盃を握らせた。渇した体は、瞬時にそれを口元にかざし、口腔に流し込んだ。甘みと苦みが交互に舌をくすぐる芳醇なワインであった。 飲み干すと、私はそのミューズに続いた。窓から抜け出して、輪に入った。陽の光に肌が荒れる危険も、汗を流す恐れも、もう既になかった。神秘の体は生理現象を悉く否定した。私たちは互いに微笑み、談笑し、手を繋いで踊った。 永久に回り続ける楽園で、時は止まっていた。
盛夏の死 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 851.0
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-05-14
コメント日時 2024-06-30
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
何が書かれているのかと言えば、「こんなふうに逝けたらいいな~」という願望でしょうか。もっと客観性とか科学とか、事実とか、いわゆる”文系”が避けたがる怪物へ啓かれた感覚がないと、この主人公の前にまず読む方の息が詰まって死んじゃいそうです。
1お読みいただきありがとうございます。 最近、美やら死やら老いに関する逆説がてんこ盛りの「ドリアン・グレイの肖像」を読みまして、この作品はそこから影響を受けて書きました。 ワイルドが書いたこんな序文にとても惹かれました。 「すべて芸術は表面的であり、しかも象徴的である。表面より下に至らんとするものは、危険を覚悟すべきである。……有用なものを造ることは、その制作者がそのものを讃美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に讃美するかぎりにおいて赦される。」(福田恆存訳、新潮文庫) 私は純粋な理系なので、現実世界では厳密に穴のない理論を組み立てていくべきだと考えならも、そのような手段には限界があると考えています。実際、とてもとても厳密な学問といえば、数学と物理、化学ぐらいでしょう。他は一種の曖昧な、証明しえない箇所を含んでいるように思えます(だからといってそれが無用とかつまらないとか言ってるわけではありません)。そのような曖昧さが全面的に肯定されるのは、芸術だと私は認識し、だから数式で表せない考えを書いてみようと時々思うんです。もちろん読者が興味を持たなければ、それは無用だという結論になります。ですが私にとってこの作品はとても切実な問題をはらんでいる気がします。科学という視座に立つと、私の書くもの全ては無価値です。 科学のように厳密性がないので私の作品は出来不出来の振幅が大きいです。時には多少読者に好まれる作品も現れますが、今回は失敗作であると考えてください。
0掌編として読ませていただきました、個人的にいえばとても好い、うつくしい文章表現であると思います。ただタイトルにある、このものがたりの季節が盛夏であると。ただそれだけであるなら、どうも内容とはズレているきがしますけど。なにか意図ありますか?
1細緻なる美意識。主体の組立てる時計機構は厳密なる科学意識、法則の写し絵なのかも、知れません。 アカンサス、歌人では近藤芳美を直ぐに連想を致しましたが、希臘の彫刻‐柱へかの意匠が佳く再現為されておりました事等を、彷彿としつつ。 御作を一幅の画と致しまして鑑賞を致しますならば、画の中の画、「イカロスの墜落」か「イカロス哀悼」が刻銘に描写なされる事に、 ヨハネス・フェルメール的なる重層性を憶え、眩暈を致しました次第でございます。 「表象に意味を求めてはならない。表象は表象であるが故に無限の入子構造を付帯し、表象の死、終点とは其処に意味‐定義付けが為された地点に有る。」 この解釈が相応しいものであるかどうかは甚だ自信はございませんが、 孰れにせよ、秀逸且つ白眉なる至文の一片をわれわれに公開して下さり、允に心嬉しく存じ上げます次第でございます。 福田恆存の御言葉、兎角総ての表現物に意味‐有用性(解答とも換言出来得るでしょう)を希求、要請する現代的人間の宿痾を見事照射・炙出なされており、 至言とも思いました次第でございます。偶像崇拝の時代。
1コメントありがとうございます。 うつくしい文章表現と言っていただいたのは、光栄です。 タイトルについてですが、私は殆どの場合、タイトルにはあまりこだわりがなく、できるだけ単純にしたいです。ですが、今回はある程度意味はあって、元々この物語の結末が着想されたのが、「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる。」(ボードレール「人工楽園」)という言葉からでした。恥ずかしながら、ボードレールの書き物自体は一冊も読んだことがなくて、これは三島由紀夫の「真夏の死」のエピグラフにありました。この短文から妄想をして、今回の作品を書きました。そこで、タイトルには発想の起点の面影を残したかったのであります。「真夏の死」や「人工楽園」とかをそのまま使うのは違うのかなと、「盛夏の死」にしました。今思い返せば、これでもあまりに直接的だったかもしれません。
1作品をお読みいただきありがとうございます。お寄せくださったコメントを深く頷きながら拝読しました。 死は不思議なもので、本人が明確な理由を持って逝くというのはとてもめずらしいことです。自害であっても、究極的に探れば偶然の不遇の連続が根本にあったりします。死は偶然。明確な理由があったとしても、それが後世の人々に理解されるかはまた別の問です。何かと社会は、故人を死に、誰が何が追い込んだかを追及したがります。おそらく、再びその"過ち"が社会で繰り返されないために。ですがこの場合、故人が試験紙として巨大な社会のいちデータとして使われ、捨てられているような気がしてやまないのです。内面が、死に関連するものも、そうでないものも、その故人を人間たらしめている。心情を言動に表さないのは当然で、記録が残っているのは稀です。知る術が限られているからこそ、民衆の妄想で故人の人物像をつくる。妄想が別人をつくる。結局死についての真実は知ることができないという考えを表現したかったというのは大いにあります。私がコメントを読んで正しい理解ができたのであれば、鷹枕可様の言葉を借りると、「社会の目に映る死は表象の塊であり、定義付けは不可能である。故人はいつまでも表象としてだけ、社会で生き続ける。」ということを私は考えています。 鷹枕可様の詳らかな解釈を何度も熟読して、学ばせていただきます。
0作品をお読みいただきありがとうございます。お寄せくださったコメントを深く頷きながら拝読しました。 死は不思議なもので、本人が明確な理由を持って逝くというのはとてもめずらしいことです。自害であっても、究極的に探れば偶然の不遇の連続が根本にあったりします。死は偶然。明確な理由があったとしても、それが後世の人々に理解されるかはまた別の問です。何かと社会は、故人を死に、誰が何が追い込んだかを追及したがります。おそらく、再びその"過ち"が社会で繰り返されないために。ですがこの場合、故人が試験紙として巨大な社会のいちデータとして使われ、捨てられているような気がしてやまないのです。内面が、死に関連するものも、そうでないものも、その故人を人間たらしめている。心情を言動に表さないのは当然で、記録が残っているのは稀です。知る術が限られているからこそ、民衆の妄想で故人の人物像をつくる。妄想が別人をつくる。結局死についての真実は知ることができないという考えを表現したかったというのは大いにあります。私がコメントを読んで正しい理解ができたのであれば、鷹枕可様の言葉を借りると、「社会の目に映る死は表象の塊であり、定義付けは不可能である。故人はいつまでも表象としてだけ、社会で生き続ける。」ということを私は考えています。 鷹枕可様の詳らかな解釈を何度も熟読して、学ばせていただきます。 (誤って作品へ送ってしまったので、再送しました。)
1ガチのマジですばらしすぎる みんなよめーー
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