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靴を履き、物語をポケットに、ポエムを歩く
ポエムを書き終えるということは、ポエムを書き始めるということだ。おまえはまず一篇のポエムを書き、そこから人間になっていきなさい。 ちなみに言っておくが、パチンコは娯楽ではない、と言い終えると父は公園へ帰っていった。 つまり、わたしは考える、つまり、 つまずきに気がついた瞬間からわたしは、ペテン師になるべきだったのだ。その才がなく、こころを知ることだけが生きがいのような。 だから、今日のダイアリーは「ポエムから始まるわたし計画」というふうに書きはじめ「ひとつの青が空と海を生成し、喝采の中、飛び立っていく鴎たち」というふうにしめくくるべき。 そうですね、 海には貝殻がありますが、貝殻には海がありません。しかし海のない国を生きるわたしたちの内に、においさざめく海がある、という身勝手な答えを導きだすことはできませんか? そのような、どこまでも広がるなだらかな丘の連続を、ひとつひとつ越えていくような問いをくりかえし、物語めいた百年をついやす。惑いとは物語であり、物語とは救いである、というふうに。編みこみ、解きほぐし、紙のうえや舌のうえから、目をすり抜け、耳をすり抜け、ときには体のなかふつふつと沸きあがる、言葉の、その永い永い生のなかを、なんとはかなく生きて死ぬわたしたちの体、記憶、 あなたが座るベンチの前に、わたしが到達するまで、あと12メートル。セーブポイントを目指す勇者のようなこころで。 あなたが座るベンチの前に、わたしが到達するまで、あと0メートル。聖者のような睫毛に隠れて、あなたは言う「今朝、わたしはとてもうつくしい夢を見ました。その証拠として、足の爪につめたい土が詰まっているのです。」 む、むむむ、そうですね、城を築くようなやさしさは放棄するべきと思いませんか、その、自身を強化するためのやしさというのは...むむ、そうですか、思わないですか、わたしは、そのようなやさしさを放棄し、醜さを手に入れてこそだと思うわけですが、違いますか、確かに、違うのかもしれません、むむむ、しかし、しかし!すべての醜いものたちよ! 今からわたしは靴を履き やわらかな土草を歩きます。 (かすれるような この音は 草の音か それとも) いつのまに、ほんのすこし道を逸れ、かたっぽうの (風の音か) 靴を失った足で、しめった土のひんやりを踏む。足裏からくるぶし、くるぶしから足首、足首からふくらはぎ、つめたさを感知した部分から、肉体が再生されていくみたい。ほら。わたしの足の甲を渡る、やわらかな虫 (水かさがますように) そうですね。あなたが言う通り。わたしは (鼓膜を薙ぎ倒していく) もっとはやくにあなたを赦すべきでした (この草の名はメイジソウ) ほんとうに、わたしは、わたしを (この草の名は) 赦してもいいのでしょうか (ときを同じくして満ちていく) 惑いのなかにはいつも (風景の透きとおる) 海があるように思えてなりません、やさしく手をまねくような、 ざっばっーん、ざばんと海がひるがえり、ざばーん、ざばんとわたしは飛び込む、ざばーん、ざばんと海が、ざばーん、ざばんとわたしが、ざばーん、ざばんと混ざりあい、ざばーん、ざばんと鴎が、ざばーん、ざばんと笑う、ざばーん、ざばんとわたしも、ざばーん、ざばんと笑う、ざばーん、ざばんときっと、ざばーん、ざばんとこれは、ざばーん、ざばんと全て、ざばーん、ざばんと脳内、あなたの、
靴を履き、物語をポケットに、ポエムを歩く ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2156.2
お気に入り数: 4
投票数 : 4
ポイント数 : 0
作成日時 2023-10-28
コメント日時 2023-11-24
項目 | 全期間(2024/11/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
実に、物語と詩が結婚したような詩ですね。物語は、丘を越えていくこと。GPT-4によれば、詩のような物語もあり、物語のような詩もあり、詩は短く物語は長いという違いがあるそうです。抽象度の違いもあるそうです。海は、詩ですが、貝殻は物語。美しくも、醜くもある詩人。それが正しいようです。戦争の時代にあっては。戦争が終わったら、美しい詩が増えるでしょうね。それでも、記憶は残る。醜さの傷は、癒えても古傷は残る。だから、海はざばん、ざばんという。脳内は、醜くも美しくもある。ただ、空よりも広い。暗い空より青空が空の本質。だから、あやめさんは美しい詩人である。
0詩人の内に潜む、詩を書くことへの想いを綴った散文詩のようですね。 特に1連目がとても印象的でした。ひとつの詩を書き終えることがまた新たな始まりとなる。その連続の内に自分という人間を創ってゆく。そんなふうに読み取りました。 その後の数連では、詩を書くことへの悩みや苦しみが描かれているようですが、「(かすれるような」から始まる連はとても美しく、ここだけで独立した詩としても成り立つような気がしました。 ところで、つまずきに気がついてペテン師になりきれたのでしょうか? 何となくそのことが気になりました。
0一行目から引き込まれる文章でした。途中で書き方を変えられていて、それは読み手を飽きさせない工夫に繋がっていくのだと思います。この詩は、詩の中にある詩というような印象があるのですが、気になるのは連同士の結着が薄いこと、良く言えば一連一連に広い物語性を感じますが、悪く言えばそのさわりの部分だけが提示されている気がします。「においさざめく海がある」というお言葉があるように、言葉から見えてくる風景があり、筆者の方の伝える力というのは的確なものがあると感じます。この作品におきましては、適切な文量の書き起こし、そしてその繋げ具合というところに課題が残されているのではないかと思いました。ここからは余分なことなのですが、自分の作品の価値は他者からの評価だけではなく、自分が読んできたもの、自分で吸収してきたこととの比較から生まれるべきであると思います。また詩というのは自分を隠してくれるもの、自分をその中に溶け込ませることができるもの、海のような広がりを読み手に味わわせてくれるものだと思います。書くことでしか見えてこない筆者の方の潮騒を、読み手にたくさん聴かせて欲しいと思いました。
0つまらん。 文極時代の洗練された感性が微塵も残っていない。 だからこんな連中と組んだのだろうけど もう干からびたのだから無理に書いても悲惨な・・・・
0黒髪さん、ありがとうございます。 黒髪さんのコメントがひとつの詩のようですね。「海は、詩ですが、貝殻は物語。」「醜さの傷は、癒えても古傷は残る。だから、海はざばん、ざばんという。」ここなんかは読んでいてゾクゾクしてしまいました。物語と詩の結婚というのも美しい。わたしはそういった文章を求め、作っているような気がします。詩のようなリズムと心地よさを持った物語がすごく好きです。 そういえば最近、美しい詩人から美しいメッセージをもらいました。叶った夢は消えてしまう、でもそれは始まりでもある、人生は夢そのもの、そんなようなことを言っていました。言葉を操る人のちからってすごいですね。その人の言葉の闇に落っこちてしまいそうになります。
1m.tasakiさん、ありがとうございます。 一連目はm.tasakiさんが読んでくださった通りのことを込めて書きました。こんなふうにきちっとあてられると、嬉しいような恥ずかしいような不思議な気分になるものなんですね。 「ところで、つまずきに気がついてペテン師になりきれたのでしょうか? 何となくそのことが気になりました。」 わたしがなんとなく、この人ペテン師っぽいなと思う人って、そうなりたくてなってるというよりならざるを得なかった人ばかりの気がします「わたし」はきっとペテン師になれないでしょうね。迷いが多すぎて、すぐに理性を失ってしまうから。 m.tasakiさんありがとうございました! わたしもあなたみたいに詩を読めるよう感性を磨いていきたい。がんばります。
01.5Aさん、ありがとうございます。 一連一連の結着の弱さと薄さについて、自分でもなんとなく気がついていたので、指摘をいただいてドキっとしました。確かに。わたしの詩の書きかたとして、ひとつの詩を人目にさらすまでに、人に見せられない詩を数篇つくって、それを土台に脱線を繰り返しながら決着させていく、というのがあり、そのやり方に問題があるのだろうと感じています。 なぜ、作品の価値について言及されたのか、その心を汲む自信が私には無いのですが、1.5Aさんのおっしゃるとおり、自分の作品の価値というのは他者からの評価だけでは決定されません。作品を作る過程では、その作品を受け取るであろう他者の評価軸は雑音でしかなく、自分が射止めようと思っているものに対して誠実でありつづける必要があると思っています。(射止めようとしているのが他者からの称賛なら、また話は変わってしまうのですが) ですが、公開後の作品については、それを受け取った他者からの評価は無視できないものがあります。他者からの評価は貴重な声です。新しい視点の獲得へ繋がる場合もあります。はじめから自分が今持っているものだけで自分の作品の価値を決めるのではなく、他者からの評価を含めたさまざまな揺らぎのなかで選択・決定をし、自分の作品の価値を決めていくほうがその後の詩作に生かしていける点を含め、わたしには合っているような気もします。 1.5Aさんに、自分の詩を読んでいただけてとてもうれしい。わたしは1.5AさんのPolar bear iceでの描写の美しさと確かさに、こころ奪われてしまったくちです。 また、コメントも、ものすごく深い水への入り口みたいで、すてきな宿題になりました。ありがとうございます。感謝!
1takoyoさん わたしが洗練された感性を持ってたことなんてあったかな。自分ではわからないや。もし過去形になってしまっていたとしても、わたしにそんな感性があったと思う人がいてくれるなんてありがたいですよ。 つーか干からびたって! なんなんすか!辛口すぎ!ひど!笑 この場で他の人にそういう態度とっちゃ駄目ですよ。故意に傷つけるような言葉は慎んでね。お願いします。 とにかく、読んでくれてありがとう!
0>わたしの詩の書きかたとして、ひとつの詩を人目にさらすまでに、人に見せられない詩を数篇つくって、それを土台に脱線を繰り返しながら決着させていく、というのがあり、そのやり方に問題があるのだろうと感じています。 書く内容にもよりますが、一気に書いた詩をゆっくりと推敲する、同じ線上に存在する詩片を隣り合わないように集合させてみる、別々の日に書いた別々の内容の詩をひっつけるための糊代を考える、この何れかの書き方で僕は詩を書いています。書き方は、その人に一番適した形が、その時々で存在するのだと思います。 >射止めようとしているのが他者からの称賛なら、また話は変わってしまうのですが このコメントで、僕が言いたかったことを理解されていると感じました。的を得たコメントと称賛のコメントは別であり、称賛のコメントに心を傾け過ぎることなく、同時に自分の内面にも耳を当てながら、詩の世界を精進することが大切だと考えています。こう考えるのは、これは詩に限ったことではありませんが、褒められることで窮屈になったり、面白さを置き忘れてしまうような節がどこかにあると思ったからです。以下は僕の想像です。あやめさんの詩は、このサイトの過去作を読ませて頂きましたが、他者からの評価を得やすいのだと思います。(あやめさんの)詩を読んだ方は、詩だ!と直感できる。それは、きっと詩の扱い方が上手であるから。僕は詩を読ませて頂き、詩の核となるもの、それはおそらく自分自身であると思いますが、それを詩に発するということを、更にされてもいいのではという印象を持ちました。それからもっと詩を書かれて欲しいということ。そして、その積み重ねの奥にある無辺の世界をいち読み手として見たいということ。 >ですが、公開後の作品については、それを受け取った他者からの評価は無視できないものがあります。 >他者からの評価を含めたさまざまな揺らぎのなかで選択・決定をし、自分の作品の価値を決めていくほうが 作品に頂いたコメントに関しましては、僕は指摘も称賛も同じ客観性として捉えています。そして自分を保つため(イメージですが)、指摘も称賛もおしなべて(質の良い)タッパー(に入れ頭の中)に保管することにしています。頂いたコメントから得られる「気付き」は多分にありますね。そこからの選択、決定について、仰る通りだと思います。前コメントの後半で書かせて頂いたことは、認識済みのことで、ほとんどお伝えする必要のなかったことなのだと気付かされました。すみません。 僕の詩を読んで下さってありがとうございます。選評も拝見させて頂きました。僕は選評というのは、冷たい水に手を差し込んで、濡れた手の温かさを見せてくれる行為だと思っています。そしてその鮮やかな手の色に時間を忘れ、つくづくと見入ってしまう、そのように魅力的な選評を今回も拝見させて頂きました。いち投稿者として御礼申し上げます。それから選評に添えられた初文、誰が書かれているのか気になりますが、そこに運営の方々の姿勢が表れていると感じます。このサイトを利用する、全ての方の襟を正してくれるような素敵な文章だと思いました。
2矢張り最後のさぱーんやざぱんのオノマトペの繰り返しが印象的で、海やカモメやあなたとわたし。融合の極致ではなくて、混ざり合いながらも、個別性が担保されているような、そんな印象もあります。やはりタイトルに靴が出て来ますから、最後から二番目の連も印象的で、足が主人公の様な連。次の海への接続も滑らかで。コクトーの詩には貝殻の中にも海があるような詩があったのかもしれませんが 「海には貝殻がありますが、貝殻には海がありません。しかし海のない国を生きるわたしたちの内に、においさざめく海がある、という身勝手な答えを導きだすことはできませんか? 」 こう言う言い方で、わたしたちの内に海があると言う展開は意外でいいと思いました。
0>だから、今日のダイアリーは「ポエムから始まるわたし計画」というふうに書きはじめ「ひとつの青が>空と海を生成し、喝采の中、飛び立っていく鴎たち」というふうにしめくくるべき。 冒頭から引き込まれて読み入ってしまいました。 この詩人日記に書いたことを実践したのか、ラストは海に吸い込まれていくようなシーン。 でも波に「脳内」という言葉が小さく見え隠れする。 創作するものには、どこかペテンの要素があるように思います。 波に一抹の脳内を浮かべたのは優しさなのかなと思います。
0前後半にくっきり別れてる作品。これ逆走すると、タイトルで既に説明してあるから素直に入っていける気がするし、一連目をより強調させ読み手の脳裏に残せるのではないだろうか。まあでもそれすると作者の意図から外れてしまうのかな。わからないけど。うまいなーと思ったので余計に気になった。
0コメントに窮するようなコメントをしてしまったような気がするので再度失礼いたします。 巧みな表現力で、最後の海に続くところなど身体性を帯びた立体感のようなものすら感じましたが、そのまま情景というか言葉が流されていく手前に「脳内、あなたの、」という一字が波間に浮かぶように設てあって、くいと引き戻されるようなその塩梅が絶妙だなと思った感想を書きたかったのですが、最初のものは何だかまとまらないものになってしまいました。 それで再度書き直させていただきました。
0自分はペテン師だとふざけて言った私に、彼はそれでいいの?とマジの顔で返した。彼はペテン師ではなかった。そんな曖昧がすべてだと教えてくれた人。 客観的に見ている残酷な詩であるのに柔らかくて美しいので怖いです。
0作品の構造としては前半に結論、後半に過程。あやめさん、こんにちは。ゼッケンです。前半の父親と後半のあなたはどちらも一方的に自分の言葉だけを述べ、「わたし」の言葉には耳を貸さない。しかし、すでに話者の「わたし」は自分の言葉で「考える」ことができる。 >こころを知ることだけが生きがい 一方で、結論の「父親」と過程の「あなた」の両方を「わたし」は排除しない。左半球しかない男性性の頑なさに「むむむ」と呆れ戸惑いながらも、反発して決裂を宣言することなく、すべてを波でさらってもみくちゃにする海の中へ非対称な関係性ごと自ら飛び込む。人工的な観念の世界から一歩踏み出して、身体を生まれ故郷の土に接続する。足の裏の感触を確かめ、そこに自分の身体があることを確信したゆえに全身で原初の海へ飛び込む決意をする。波にもみくちゃにされ、上も下もぐるぐると回転して「わたし」の身体も「鴎」の飛ぶ空も「あなた」の観念のある脳内も境をなくし、全が一である世界に臨む。 とすると、タイトルの「靴を履き、物語をポケットに、ポエムを歩く」は物語を指針にポエムという観念空間を歩くわけですが、その歩くという行為に先立って靴を履くという身体を守る行為の存在を強調しています。自分の身体を守るという現実世界では当然の備えをテキスト中にも持ち込むことで簡単に上滑りするポエムにも当事者としての身体性を担保するという作者の意図の表明です。「むむむ」という自身の態度表明の保留、「そうですね」という妥協の余地の提供、これらの冗長性がテキストに「靴」を履かせている。この靴を履いていなかったら、間違えると最後の波は結論の「父」へ至る過程にある「あなた」への情念の荒波となって「ざばーん」が殺気立ってしまう。鴎が飛んでいるのは喝采の中であって、海も空も喝采にふさわしい明るい青。あらゆるものを飲み込む深さと大きさでありながら、あくまでも健やかな身体としての海です。
0心をこじらせているんですね。優しさよりも醜さに安らぎを正しさを感じる時は不幸な時が多いのではないかしら。実際の海に行って心を洗うと気が晴れるかも。自分を労わってこそ人にも優しくなれると思います。
0最初に出て来る父が重要人物に思えました。その後全く出てこないので見当はずれな指摘なのかもしれないのですが、父の登場の後に「わたし」と言う主体が初めてあらわれたようなそんな気がするからです。客観的には元々居たものなのでしょうが、そうやって考えるとその後の詩の展開が読みやすいと思いました。
01.5Aさん丁寧なお返事をありがとうございます。 >的を得たコメントと称賛のコメントは別であり、称賛のコメントに心を傾け過ぎることなく、同時に自分の内面にも耳を当てながら、詩の世界を精進することが大切だと考えています。 1.5Aさんの言うような自分の内面へ耳を当てながら、詩の世界を歩き続ける、というのはわたしが目指しているところでもあり、時々見失うことでもあります。また見失いそうになったら1.5Aさんにいただいたコメントを思い出して、勇気をもらおう… >詩の核となるもの、それはおそらく自分自身であると思いますが、それを詩に発するということを、更にされてもいいのではという印象を持ちました。 良い詩を書きたいという思いが、あまり良くない方向へ自分を導いていると感じていたので、初心に帰ろう!と思えるようなアドバイスとてもありがたいです。 わたしの場合、良い詩を書こうとすると、書きたいものと書けるものの溝を埋めることに没頭してしまって、書いているものがどんどん詩から遠ざかっていくのですが、そもそも良い詩を書こうと思うこと自体が間違っているのかもしれない、なんて思うこのごろです。でも、誰かの良い詩に触れてしまうと、良い詩を書きたいという気持ちがむくむく沸き上がってきてしまう。 まだまだ机上で粘土遊びをするような詩を書いてしまうと思いますが、自分が映る詩というのも少しずつ書いていきたいです。 自分を保つため、指摘も称賛もタッパーに保管する、というのは1.5Aさんらしい言い回しでとても素敵だし、他者からの言葉をそっくりそのまま熱いうちに吸収しないで、タッパーへ入れて熱が冷めるのを待ってから、少しずつ触っていくことができてとてもよいことに思います。 選評の初文についてのコメント、なんだか救われる思いです涙。感謝しかないです。
1すみません作品を掲示板トップに移動させないにチェックを入れるの忘れてしまいました… エイクピアさん >融合の極致ではなくて、混ざり合いながらも、個別性が担保されているような、そんな印象もあります。 「融合の極致」ってものすごいかっこいい! 「わたし」には「あなた」が反映されていて、「あなた」には「わたし」が反映されている、純粋な個というのはあり得ない、というこころで最終連の海を書いたのですが、エイクピアさんの視点をいただくと、また違った捉え方ができてうれしい。 足の所有者については、少しこだわるというか含んだところがあるので、汲んでいただけたこと嬉しく思います。 ありがとうございました!
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