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夏至の日
公共放送の静かなニュースを見ていた。 もう、これ以上は無理! 隣室からそのような叫びが聞こえてきて、ああ、またかと思った。夜の7時前、空はまだ暗くなり切ってはいない。夏至までまだ一月あるのに、日はこれからどこまで伸びるのだろうか。 となりから、女の叫び声が聞こえることは、よくあることだった。今更それを気にすることも、苛立つこともない。またか。そう思うばかりで、隣人のあやうい精神状態に思いを馳せることも、かと言って自分の生活の邪魔になると管理会社に通報することもなかった。ただ、またか、と思っていた。 隣人は、かねてから度々男を連れ込み、いつも大きな声で喘いでいた。だからといって僕も、最初からこんなに無感動だったわけではない。最初はたしかにドギマギした。例えば、ゴミ捨ての際に隣の部屋のドアが偶然開き、そこから出てきた女に挨拶をしようとして、思わず相手の薄いTシャツの下に透けるヒラヒラの下着をしっかりと見てからやっと彼女の顔に目をやるくらいだった。ある時は帰り道、洗濯物を取り込む彼女をアパートの下から見て、ショートパンツから見える無防備な太ももやその先にあるものを想像してみたりもしたし、昂る気持ちもあった。しかししばらくして気づいたが、連れ込まれた男は違っても、肝心の女の喘ぎごえはいつも台本があるかのように同じだった。じわりと僕の胸のうちに何かが落ちた。たしかに何かがそこへ落ちたはずなのに、反響音は聞こえてこない。限りない虚しさだけがある。彼女にとって、性行為とはなんなのだろう。 僕は、病院の長椅子に座り、順番を待っていた。完全予約制ではないため、時には一時間待つこともある。携帯の画面には、友人からのメッセージを知らせる表示があったが、僕はそれを開かなかった。それから5分ほどで、診察室に呼ばれた。 隣人の女に、決まった男が出来たのは、どれくらい前のことだったか。それは去年の冬の終わり、春の始まりくらいだったように思う。もう一年も経つのだ。 その男は、痩せて背が高く、爽やかに見えた。清潔感のある服を着て、女の部屋に通い、彼女で遊んでいた。サディストの気があるようで、彼女の尻を叩いたりする音がした。その頃から、よくちりちりと音がするようになった。ちりちりん、その音は耳についた。喘ぎごえに比べれば、聞き落とすような音なのに、僕の耳はそれをよく拾った。それが彼女の首元からなる音だと知ったのは、彼らが連れ立って出かけ、朝になって帰ってきた時。僕は偶然を装ってドアを開けた。女は、黒い皮の首輪をつけていた。気まずそうに僕から目を逸らす男、対して、女は堂々としていた。挨拶をしたのは、彼女が先だった。いつも通りに僕は挨拶を返したが、よく考えれば、僕は手ぶらだった。どうみたって変なやつだろうな。しかたなく、そのまま、アパートの階段を降り、しばらく辺りをプラプラして、また部屋に戻った。部屋に置きざりにした携帯を持ち上げると、まだ七時だと分かった。 眠れていますか? そう聞かれても、僕には答えようがなかった。ああ、はい。僕がそう返して、会話は打ち切られた。近頃、女はひどく不安定になっていた。男は変わらず二週に一度くらいで来ているが、男が来ない日に、ちいさく叫ぶ日が出てきた。しかし男がくれば、きゃいきゃいと楽しそうに笑っている声がたまに聞こえてくるのだった。僕には理解ができないことだ。その理解のできないことや、女の泣き声やらで僕の睡眠は浅く、断続的だったし、奇妙な夢ばかり見た。顔も知らぬ女の腹から、虫が生まれる夢や、踊り狂う複数の女の夢。どこへ行っても私は女を見ていた。 男がひと月ほど来ていない。それにともなって、女の情緒はより不安定になっていくように思われた。しかし彼女は、以前のように他の男を連れ込むわけでもなく、しおらしくしていた。喘ぎごえはなくなり、たまに小さな叫び声がする程度。しかし僕の眠りは、すこしも深くならなかった。爆弾が頭上で破裂し、看護師の女に囲まれる夢や、女性に体をまさぐられる夢をみた。あまりに毎日のことなので、一度、下着を汚した朝もあった。いつも夢のなかに、あらゆる女がいた。 それから、女は夏至の日に狂った。ぎゃーっと叫んで。何度も、物を割る音がした。他にも何かを壊す音がした。一際大きな音で割れたのは、何だったのだろう。 …… 「神田さぁん、眠れました?」 僕は、目の前の女に、目線だけで返事をした。「寝れたのかな? じゃあよかったね」 僕は、気が付かぬうちに病室にいた。まるで生まれた時からここにいたように、僕はここに馴染んだ。ここで生まれ、育ち、ここで病んだかのように。 僕はそれから、一月で退院した。 ドアを開け、アパートの階段を降り、ゴミを出す。ゴミ捨て場には、知らない人間がしゃがんでいた。何も言わずにゴミ袋をポイと投げて、ネットを被せる。ゴミ捨て場の近くに猫が出て、ゴミを荒らすからだ。ゴミ捨て場を後にしようとして、後ろから、ねえ、と声をかけられる。 「猫は人間と違って、口を聞いたりしないから良いよね」 僕は振り向いた。そこにいたのは、痩せて背の高い、爽やかに見える男だった。そして、尻尾を立てた猫が近くからこちらを見ている。僕を見る彼、彼を見る僕、その両方を見る猫。あたまがぼんやりしてきた。 「さあ、僕にはわかりません」 僕はそう答えて、その場を去ろうとした。しかし、もう一度、呼びかけられて、足を止める。 「あの子もさ、よく言ってたよ。隣の男の人はかわいそうだって。まあ、あの子のほうがずっと、別の意味でかわいそうだったけど。同族嫌悪かな」 ざり、と地面を踏み締めた。熱気がじわりと伝わる。僕は、履いていたサンダルの片方をおもむろに脱ぎ、男の方へ投げた。それは、彼に当たり、ぱたりと音を立てて、暑い地面に落ちた。彼はサンダルを一瞥し、まるでサンダルに話しかけるように言った。 「でもさ、何もわざわざ死ぬことはないのに」
夏至の日 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1192.0
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-06-09
コメント日時 2023-06-17
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ごちそうさまでした。丁寧な描写をしているので僕や隣の女の様子・心情を想像することができます。 ただ、改行・空行を多用する効果はないように感じます。散文詩かいっそ小説にしたほうが読みやすいし、のめり込めるように思います。
0うーん 神田さぁんの処からで良いのかなと思ったな。 前半と言うか入院からで良いのではないかと思った。 その方が女の子の彼氏のセリフが生きる気がするなぁ つまり前半書いてあることよりもエグい事を読者は考えるのではないかと言う事です。 正直言うと前半はありきたりすぎてつまらなかったな。 それとラストの一言は気に入らないな 「タバコの吸い殻みたいな女だったな」 みたいな感じでも死を連想させる気がするんだが 「でもさ、何もわざわざ死ぬことはないのに」 だとちょっと説明しすぎだと思うし、星新一さんみたいなショートショート気味に聞こえて ブラックジョークみたいな感じになるんだよね、まあコレは俺の感覚かもしれないけど。 もっと突き放した方が結果、主人公が際立つと思いました。 もっと書ける人だと思うので 頑張って欲しいな 王下七武海
0そうですよね。とりあえず書き殴った感じなので、これから編集する際に、ご意見参考に致します。ありがとうございました。
0いつもありがとうございます。書き殴った状態なので、ここから編集するときに並べ替えやらしてみます。もっと書けるようになります!ありがとうございました。
0たしかに最初の方読んでても引も何もなくてしんどかったです。やはり読み直しが大事ですね。
0コメントありがとうございます。 >ただ一方で、全ては猫の発情期中の声じゃないかと、そう思いたいような気持ちにもなりました。 私の書いたものに彩りを加えてくださるようなコメントですね。素敵なコメントで朝から喜びました。今日も一日頑張っていきます!
1あーなんか素晴らしいな 筆致が落ち着いていてよいですね 第三の新人らへんのスタイルに似ているけどどこか現代的でもあります 梅崎春生 ってご存知ですか? 青空文庫でたしか読めるのでオススメです この作品みたいな作品をメッチャ書いてます ちょっぴり厳しいことを言うと最後の科白は蛇足のように思われました 無くして雰囲気をもっと謎にしてしまうほうが構造的にスッキリするのでは たしかにゼンメッツが言ってた通り 小説的な感じがします どんどん書いて世の中に発表してほしい もっとこういうの読みたいです ライク!!!
0コメントありがとうございます。昨日はありがとうございました! >ちょっぴり厳しいことを言うと最後の科白は蛇足のように思われました 無くして雰囲気をもっと謎にしてしまうほうが構造的にスッキリするのでは たしかにゼンメッツが言ってた通り 小説的な感じがします どんどん書いて世の中に発表してほしい もっとこういうの読みたいです ライク!! なるほど〜。最後の台詞を入れるならもっとちゃんと序盤中盤書き込む必要ありますね。頭からの一発書きが敗因ですね。いつも終わりには力尽きてます。 第三の新人だと吉行淳之介が好きですね。梅崎春生は知らなかったので、読んでみます。ライクありがとうございました!バシバシ書きます!
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