理髪店の前は雨が降っていたことがない
亡き王女のパバーヌが聞こえてくる二階の窓は
いつも閉じられていて
少年だった僕の耳は
海辺の貝のように
知りもしない
未婚の叔母の過去の波打ち際に取り残されていた
ああそうだ そういえば
忘れていたことが大切であると
叔母はよく言っていた
叔母は時折スフインクスのように
決して解けないなぞなぞを出し
僕はいつもインチキの答えをでっち上げた
叔母はその度に淋しげに微笑んで
僕のいたいけな耳にハサミを入れたのだ
その切り取られた僕の耳は
いまも彼女の
ふくよかな胸の谷間にいくつも眠っている
忘れたことが大切なの
よく覚えておいて
僕は叔母のかなしみを検査する聴診器のように
彼女の胸に耳をあてた
ああそうだ そういえば
叔母の理髪店は
山から海辺に向かう
なだらかな坂道の途中にあった
だから僕はお天気の日にしかそこを通らなかったのだ
忘れたことはたったの一つ
なぜだか分かる
鏡には海を借景にした叔母がハサミを構えて
微笑んでいた そして
二階にゲバラをかくまっていると
僕にこっそり打ち明けた
ああそうだ そういえば
あのモナリザの含み笑い
そして無意味に開いたり閉じたりしていたハサミ あれは
秘密を知った耳は切るという威嚇だったかもしれない
叔母はまた
ゴッホの気持ちも分からなくなはないと言っていた
耳鳴りが果てしなく続いているということだった
僕がイヤリングの穴に気づき
それは右耳だろうというと
叔母は満足げに頷いて
父親殺しは遺伝ね
と僕の耳のそばで囁いた
ほら
おわかり
忘れたことは何か
言ってごらん
叔母はそう言っておきながら
無慈悲にも僕を置いてきぼりにして
南米に密航した
忘れたことに遇いにいくのと
言い遺して
ああ そうだった
あれからか
僕の耳が
貝になり
潮騒に悩まされるようになったのは
作品データ
コメント数 : 11
P V 数 : 1814.0
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 53
作成日時 2022-08-13
コメント日時 2022-09-10
#現代詩
#縦書き
#受賞作
#受賞作
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 12 | 12 |
前衛性 | 4 | 4 |
可読性 | 10 | 10 |
エンタメ | 3 | 3 |
技巧 | 9 | 9 |
音韻 | 5 | 5 |
構成 | 10 | 10 |
総合ポイント | 53 | 53 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 6 | 6 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 1.5 | 1.5 |
技巧 | 4.5 | 4.5 |
音韻 | 2.5 | 2.5 |
構成 | 5 | 5 |
総合 | 26.5 | 26.5 |
閲覧指数:1814.0
2024/11/21 19時40分18秒現在
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初めての投稿でした。誉めていただいてありがとうございます。励みになります。
0ああ、素晴らしい出来栄えだと思います。物語性も辻褄もふくよかで空想的でそれでいて内容も感じがいいです。単純に読み物としてかっつっり成立しています。叔母の胸のふくらみに耳がうずまる、そのセクシュアルさの距離感の微妙が下品でもなく素敵です。鋏を持っている叔母の心の、人物としての棘が、それでいて魅力的な人物像が作品に起伏を与えています。
0自分の詩がこんなに誉めてもらえるなんて、とても幸せです。ありがとうございました。
0ゲバラとゴッホが印象的だったのですが、主人公の理髪店を営んでいる叔母さんのインパクトのある嘘や、心情、心の襞が重要なのでしょうね。叔母さんのゴッホに寄せる共感は危険な香りがするのかもしれませんが、極めて共感を呼び寄せるのではないでしょうか。
0コメント、ありがとうございます。ゲバラもゴッホもぼくの大好きな人です。どちらも自分の信じることに一途に没頭し、散っていった人。ふたりはぼくの「忘れていること」のなかでつながっているんですけど、どうも思い出せないんですね。たぶん、おばさんが知っているんですけど、これがまた底意地が悪くて教えてくれないんです。とここまでくれば、フロイトだと分かっちゃいますね。ぼくは、フロイトを勝手に詩学と思い込んでます(_ _)。ちなみに「亡き王女のためのパヴァーヌ」を作曲したラヴェルは亡くなる10年くらいまえから、軽度の記憶障害と失語症になったようです。
0ありがとうございます。なんとなくフィニッシュできた詩です。偶然の三乗くらいです。(_ _)
0潮騒に悩まされると言うのは、なんだかいいですね。
0ありがとうございます。入院中に急に耳鳴りがはじまり、しばらくつづきました。ちょっと潮騒みたいだなあ、と思ってたのしみました。 いまでもときどきは、鳴ります。これも一興、というところでしょうか。
0短絡的には、ゴッホを思い浮かべ、実際、詩を読み進めて行くとゴッホの名前は出て来るのですが、そしてコクトー。ゲバラの名前はそのまま出て来る、幻想的な内容ですが、コクトーの名前は最後まで出て来ない。実際、コクトーのあの短詩、発想としては昔からいろいろな人が同じ発想で詩作して来たのかもしれませんが、未婚の叔母さんが主人公格で出てくるこの詩の中で、スフィンクスも結構な存在感。それこそインチキな答えこそ、少年期、青年期の真心の発露だったのかもしれません。
0私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ この詩ですね。記憶が間違いでなければ、たぶん中学か高校の国語の教科書に載っていたと思います。耳鳴りのときにふと思い出しました。 貝殻と耳と潮騒と追憶、これが自然につながりました。追憶の部分は叔母さんですが、彼女の原型は近所にあった理髪店のお姉さんです。ちょっと肉感的なひとで、子どものぼくは自分の気持ちをもてあましました。これにかさなってきたのが、フランス映画の「髪結いの亭主」。ぼくの最初のエロス体験と結びつくので、しみります。あとは、フロイトにお任せで、無意識の波間に漂うだけです。 ばれたので、白状しました。
0私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ この詩ですね。記憶が間違いでなければ、たぶん中学か高校の国語の教科書に載っていたと思います。耳鳴りのときにふと思い出しました。 貝殻と耳と潮騒と追憶、これが自然につながりました。追憶の部分は叔母さんですが、彼女の原型は近所にあった理髪店のお姉さんです。ちょっと肉感的なひとで、子どものぼくは自分の気持ちをもてあましました。これにかさなってきたのが、フランス映画の「髪結いの亭主」。ぼくの最初のエロス体験と結びつくので、しみります。あとは、フロイトにお任せで、無意識の波間に漂うだけです。 ばれたので、白状しました。
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