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花久留子
いわゆる難解でない言葉でしか語れない哲学がないように、話したい物語がなにもなかった。おもむろに、ニビンコの商店で発生した遊具のない野っ原のはじまりについてとか、ホマスのくた:くち どちらが鬼とも決めずに同じ場所をめぐっていた月曜午後三時、一分、四秒。二進法、あるいは、気圧のない領域を冷光で充たして液状硝子に虹の蚯、なかんずく裏山、あたかも、神の国を迷子になるまで走りまわっていた朝靄の山頂付近では、半分、息の白い人たちを内周させる祭囃子で進化の仮説は溢れていた。もしもし、赤の女王。いま粛清してた?俺たちみんなあんたのこと大好きだったよ。 黒曜石の森からアブクォムの水眠る谷へ。喇叭を吹き鳴らしドクマ・ドルナの行進が友人を棄てた仲間を見捨てて去った。行方不明のスーダンのホマスへ告げる充電は、自分の足で帰れるようになるまでずっと電池切れ、赤赤、白白、おもしろい、塗り立てだった滑り台、赤白赤白、宍色のLipstick, 見覚えのなかったひとつの象徴を、穴あきの衣袋みたいな後ろ手で、窃に、くすねていった。 スリーク、スマト、ブコイェジ、ノミスは食べ物を敢えて口にする。レイルーは重心を寄預して顛読を促していた。冠水瓶にはなみなみと南の名の花。はじめからあった山頂に、油を注ぐ十二の花を裏切る代償に裏切られることを継ぎ足して、おおきな筏を十二荷一葉、船とした。赦されなければならなかった義認を契約の重さと知るということ。食べることはあざむくこととすこし似ているから、存在を反射する、餓えはわたしたちのおしゃべりを引用にすぎないと、禁じてしまった。わたしをたべて、と震えたくちびるがしめやかに思い出している、みんなにとってのたいせつな沈黙を、ふたたびやさしく拭いさり、いただきます、と切歯を濡らそう。 花緑青と掏り変えられていたことにも気のつかないのは太陽が白群に揺れていたからだ。はじめてのまちがいだからこそ、正しいを二の前で止める疋の上の蓮、まだ唯我を他我えて八苦している釈迦かもね。愛ってやつを画像検索してみた。権利者の申し立てにより検索結果より排除されました。とさ。とさか頭のサルネーカ。白い息を根元から結紮してやっと人は清潔になれるんだ。かつて、清潔だった冬は群れからはぐれた唇を、おかえりなさい、と山頂をめざして故郷の水源に薄い影を曳く。ながい影とみじかい影が、逃げまわりながら珠に重なる。一際おおきな八手の裏がわを親ゆびの先から人さしゆびの先までの距離で測ること、咫のシが私の輪だちを引き足ししながら駆け足で立ちあがることもなく、渡っていきましたとさ。ときに、綿の詰まった天使に必要だったもの、風のない夜。軽い骨。そのぜんぶが何処にもなかった。いちばん寒い季節に素足をあしらって、あかぎれ、皹、皸、どれもおんなじ、穴あきだらけの貧しさを拾いあつめる立花の、前歯を一本ずつへし折って、音まみれの顔にくちづけをする。おまえたちの本質は、象牙質の喉の奥にあるのだと、太い指でやおら掻きまわされているルメナエの、他界の純粋な苦しみに、言葉はあっけなく乱されたのだ。先刻嚥下された楊梅の実と鼻血と胃液とが混じりあい化学反応に嗚咽している、うぶ毛は乱れて濁るからね、父や母、その息子たちを中和して、ていねいに渫ってくれないか。蝕みはじめた無自覚を個の弧の代謝の外に置き、長さの単位でふたたび深く息を交わす。国とするから。 綿は海へ、弧は月へ。从の素肌を焦がす真魚の潜(かづ)きし浪にて晴れて、壁画のいろくづ凹凸模造紙の、尾、あらゆる角折れに三椏の香を満たす晴天を、耐え支えるためにと忘れ去られた、羽衣だったのか。Femweh, より時刻表を、つまびく仮留に花妻の口吻から生花を間引くハハッ、夕鐘は冷たっ。叔父さんそこは淕地じゃなくて後頭部だって。 地雷原に自生する水生性の鉱虫火草があしたの雨化に日緋色の朝露をつむぐ。いいことを言おうとすると舌の先から戦争がはじまっていぬ。死んでいくReal Live, を俺たちはどこのお花畑で眺めていたんだ。そして俺たちは自らの根によって契られた草にさえ成れやしない。七色の草を摘む薔薇状の歯が生えて四月のヌーイは遅れてきた主の青い血液をロクニュの工廠へ送る装置だろう。逃げぬれた染みの悲しみにぬれる国家は憎しみの「ぬ」へと追放される鵺にまぬかれたことてのにぬに、七色のぬを摘む薔薇状のぬが生えてぬ月のヌーイは遅れてきた主のぬ色の血液をロクヌュの工廠へ送ぬ装置だろう。 入れ換えてみたその括弧では」ぬ「を受け止めきれず、はじめての火傷に咲く紙花の転めきがやわらかさを浸潤している。草の余りに冠の輪を編む、ををりは無意味を反す十の貝がら。語源へ孵る前の郭公の卵が自らの空を閉じ込めようとしていても、定形というものがない行為であったから、与えられたものだけではどうにもできぬ距離だったらしい。繰ぬ上ぬっぬ人類のぬばたまぬはなにぬねのが生えていぬ?訪ぬてはならぬ場所を安置し続ける文明が 「」ぬの生え始める禁足地としての非対称戦ってわけか。二進法が人を繰り上げて独りとしていく不作為と、繰り上がってはまた次の一が居抜かれる位置の、下部構造に付随する喜びを戦争は十前の死体に分割しては逆さまに ぬ 」」らしていく。十進法がお前たちの「「ぬ」」であっても逆巻く大いなる独りのLicht, に過ぎないってことを、目まぐるしく公転する暗号会話の制約で編纂しきれなかった奇書を、家庭料理の本に偽装させていた。 長い長い滑り台の順番が待ちきれなくて泣いてるのは恥ずかしいことじゃないんだ。手を揚げて、何羽ものノイタシルパの交歓が、耳をふる。うざったかったなら、ほかにはなにも聞こえない方角があっただろう。そこが梢だよ。まだ誰もいなくなる前の昨日の出来事を書き加えた明日を、今日のことみたいな顔した一昨日の古文の横顔にしたためてさ、教室のすみっこで、雑貨屋の更衣室で、公園の長椅子で、お手付きみたいな罰と跋。居眠りのできた歴史の授業中に、修正された教科書の「ぬ を並列させて推量するぬ」 を打ち消しながら、存在をかけた戦争を 」ぬ「 は始めぬ。それが希望であっても否定であっても、トネリスとトンレイサっぽく横たわる行間の高度な「ぬ」の情報戦の意味なんかを、 」と綯い交ぜにして、「ぬ「の、とめはねはらい、死を恨むこともなく、もう字だとさえ判別できない不貞で以って、生をうら病むこともなく、眠りの行方をさかのぼる静かな歌だとうらなう口元に、裸の子らを横曳くわたしたちを、そっと花挿しておくれ。
花久留子 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 906.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 5
作成日時 2022-07-08
コメント日時 2022-07-09
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 5 | 5 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 5 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
すいません、烏滸がましいのですが一方的に恋をしました。酔い気分に浸れましたありがとうございます。
0タイトルは花クルスって読むんだろなー、何の事かなーと思って調べてみましたら。 キリシタン大名の家紋に使われてたりした紋様ですか。 そしたらあの地域かな、隠れキリシタンに水俣病、己の意志に関係なく時の権力者たちと闘わなくてはいけなくなった、あの地域。 昭和の時代ですが、島原から天草の地を、公共交通機関だけを使って移動したのは、印象深い経験でした。 口之津から船に乗って、路線バスで天草を縦断。 バスを待つ2時間で食べたうどんは、何故か血のにおいと味がしました。 草いきれの森の中を、ガードレールもない細い山道に沿って、延々とバスは進みます。脱輪したら間違いなく真っ逆さまの危険な道を、毎日運行していくバス。 それは精霊の棲むただ中を突っ切っていくような、不思議な感覚でした。 九州の西に浮かぶそこは、日本のアイルランドであったかも知れません。 何故か九州本土に渡った後の記憶がごっそり抜け落ちているんですが、眼前にはしら「ぬ」いの海が広がっていたでしょう。 石牟礼道子さんは、熊本のことば、そこに暮らす人々の肉声を、巧みに操る作家さんでした。 ぼくは口寄せのような、巫女のような存在を感じていたのですが、論ずる人に依ればあれは石牟礼さんのことばそのもの、人々の肉声をすべて呑み込んで、生かしたまま石牟礼さんのことばに再生させ、そして叫ぶ。そういうものなんだそうです。 石牟礼さんは大好きなんですが、そこまで著作を読み込んでないので、ぼくはそれに意見する言葉を持ってなくて、現時点ではその論を信じることにしています。 さて、作者さまがいったい、どこのことばを呑み込みそして叫んでいるのかは、ぼくの知識ではとんと見当もつきません。 しかしながら、のっぴきならない、しかし誰も知らない戦いが、生きているというだけで発生してしまうのは、この世に生息する限り仕方がないのかも知れません。 この作品を、生命活動に伴う戦い、殉教者への鎮魂歌、と、ひとことで片付けてしまうのは、かなり危険な感想だとは思っています。 でもそう感じて読むのは、ぼくは好きだった。 あの時の草いきれと、不思議な感覚を、また味わうことが出来たから。 それは幸福で、濃密なひとときでした。
0そんな風に言ってもらえてとても嬉しく思っています。こちらこそ、ありがとうございます。
0隠れキリシタンの境遇は悲惨であったと書いてしまうと軽い印象になってしまうほどに、悲惨なものだったようですね。ここに書くことも憚られるような拷問も行われた、と何かで知りました。 島原から天草を移動したという箇所の文章、丁寧に描写されていて胸に来るものがあります。私は鳥取や四国、福岡くらいまでしか旅行をしたことがないので、土地を踏む、空気を吸う、人と話をする、ということの大切さを再確認させてもらいました。 アイルランドも宗教的な分断と終わらない紛争、戦争の様相が天草の地と似ている部分も確かにあるなと驚きました。石牟礼さんの言葉の魅力の本質はなんでしょうね、素朴なのに力強く、繊細。死を身近なものとして生きる、現代人は死を遠ざけようとし過ぎなのかもしれないですね。 幸福で、濃密なひとときとまで言ってもらえて嬉しく思います。ありがとうございました。
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