梅雨明け。七月の初め、空に仰ぎ見たのは、
マグリットの「無限の感謝」。
子供心に僕を釘づけにした絵画が、
喉の渇きとともに、蕩けていく。
砕けた画材が掌に落ちてきて、
指紋の上で描きだされるのは、
魔法がかかっていた幼い頃の記憶。
斜めに傾けた視線の先で、
羅針盤が水たまりに落ちる。
弾ける水しぶき。
子供たちは歌にならないメロディを口ずさんで、
キリコの形而上絵画が露わにした、
夏の向こうへと走り去った。
迷い込んだのは瞑想のシナプス。
決して伝達しないニューロンの錯誤。
本棚には「脳は奇跡を起こす」。
もう読みもしない科学読本。
帰り際買ったグレープフルーツジュースは、
酸味があって透き通っているのに、
心のもつれを解きほぐしはしない。
検索するのはバラエティショー。
過去を抉るように、炙るように、
骨身に迫っていくそいつは、
僕に虚無感を呼び起こして、なおかつ高らかに笑った。
2042年7月、ネット環境は大きく様変わりし、政府によって多くを規制された。言論も表現もネット上では展開することが出来ず、生身の体で、生身の言葉で表現することが求められた。人々は街頭に繰り出し、スピーチし、話し合い、そして何ごとかを表現するようになった。落ちてしまったサーバー、閉ざされてしまったサイトは過去の人間の遺物と、悲哀と喜びだけで満ち、静かに唇を締め、目を伏せた。それで人々はいいと思った。新しい時代の到来だ。身体性に溢れる、躍動の季節が来たと皆は思った。
自宅でタイピングしていると刹那、飛び込んできた未来のニュース。
僕は現実なのか妄想なのか、幻覚なのか分からなかったが、
確かなのは僕がまだネットを駆使しているということ。
まだ脳の中に住んでいるということ。
言語中枢をやられたのに喋れるようになった男。
味覚を感知する部位を壊されたのに、グレープの酸味に気づいた女。
そして聴覚野を失ったのに、音楽を聴けるようになった人々。
僕はコーヒー、頻繁には飲まないコーヒー、
しかもブラックに手を伸ばして、一呼吸を置いた。
空にはマグリットの描く二人の外套の男。
永遠に結ばれたのは、
分かたれていた「心」という名のフィクション。
作品データ
コメント数 : 4
P V 数 : 1066.5
お気に入り数: 1
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作成日時 2022-07-01
コメント日時 2022-07-02
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/21 22時53分25秒現在
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脳ばかり発展して足がなえている人物を思い、我が身を思い、後ろめたくなりました。運動はいいですけど、ナマケモノ心に克己するのは難しいです。困難を克服した時の充実感が懐かしい。言語が身体性を喪うのは二流な気がします。我が思い当たる節。ちょっとマッチョになれたらいいのにな、なんて。詩を書くひょろひょろぶよぶよではなくマッチョ。(´;ω;`) 絵と結ばれる心というフィクション、という記述は分かるけど少し寂しかったです。心を移り変わりするものとて仮構とするよりは、情熱の血の猛り、生きる意欲、確固とした意志、機能する名機でありたかったなぁ。言い切るということはそれでいいと諦められたのかしら。私は自分の心をフィクションだとは言いたくないです。人は弱いけど、確かなものをこけつまろビつ追いかけたくないですか。それに、本物の雲の方がいいです。本物の写し見でしょ、芸術は。考え感じるためにある二次的なものです。永遠に結ばれていいんですか、本物の雲と結ばれなきゃ気色悪いですよ。
0心という名のフィクション、ここまで踏み込んで書かれると、ちょっと感動的なものがあります。というのは、僕の心がボロボロだからです。もっとふかくフィクションについて考察する力があればという残念さもしきりですが、相変わらずイマジネーションあふれる詩作品を、堪能することができました。
0湖湖さん、コメントありがとうございます。心をなぜフィクションと書いたか。脳神経生理学他、脳の研究が進んだ現代「心」というものも存在するかどうかさえ分からないというのが、例えば僕のYouTube「夕ぐれステーション」の相方、夕狩さんとは共通認識になっているのですが、僕は心と言うものは脳や脳内物質の分泌の加減などを無視して存在していると思っているし、信じたいんですね。しかしこの詩においては「フィクションとされている心でさえ繋ぎ止める」というニュアンスで書いています。それほどに誠実に物事に向き合う、懸命になるというのは奇跡を起こすという確信が秘められているのです。だから僕も最初はノンフィクションにしようか、フィクションにしようか一瞬迷いましたが上記の理由で、フィクションを選びました。殺伐とした印象があるかもしれませんがこの一節には、とてもホットでヒューマンな要素が含まれているのです。良い印象を持ったにせよ、悲しくもどかしい気持ちを抱いたにせよ、湖湖さんが、ここまで僕の詩に感情を深く入れ込み読んでくれたので嬉しい限りです。ありがとうございました。
1黒髪さん、コメントありがとうございます。先の湖湖さんへの返信にも書いた通り、初めはノンフィクションにしようかフィクションにしようか迷いました。しかし黒髪さんのコメントを見る限りフィクションにした理由が伝わっている、もしくはフィクションにしたことで大きな効果を読み手に与えることが出来ている、と嬉しく思います。もし仮に例え心がフィクションだったとしても、それを覆す魔法とパワーが現実にはあるという意味合い、メッセがこの詩には込められています。それが少しでも仄めかされて、読み手に伝わればなと思います。
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