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ソラレイを聴いて
※この詩は、井塔由梨さんの「ソラレイ」という曲のライブ映像にインスパイアされて書いたものです https://youtu.be/e_aXQiuAk3g 彼女が鳴らす鐘の音が 小さな光となり 私の瞳に映る前に消える 降り注ぐ愛のかたちを探す 見えないまま足元はぬかるむ 誰かが火を燃やす前に 泥水をすする 宇宙が広がって 生きていた神様が死んだ 神様を信じていたけど 死んでしまったのなら 仕方がない 星になった神様を探すが まだ光は届かない テレパシーの星に 住んでいなくてよかった 土星の輪っかに座り 耳をすませば lulululu… 難しいシナリオの中に ふと飛び込んできた挿話 私にも読めたし 涙がこぼれた そんなわけないのに うまれる ごちゃごちゃとした感情 彼女のお願い通りに ソラレイを唄う ソラレイソラレイ… 何かお願いするときに 唱えなければならない言葉 北風も南風も吹かない 小さな小屋で ひっそりと待つ 話し出しそうな感情が 消えていくまで 愛は降り注ぎ地を濡らす 私は木を切り火を燃やす ソラレイを唄う ソラレイソラレイ… 何かを葬るときに 唱えなければならない言葉
ソラレイを聴いて ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1000.5
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2022-03-22
コメント日時 2022-03-22
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
井塔由梨さんの楽曲、その曲へ寄せたコメント。そして詩ともすべて拝見しました。「私は木を切り火を燃やす」。歌詞の一節にも重なる部分ですね。楽曲に寄せたコメント「火を燃やすと濡れた地は乾いて愛は枯れてしまうのだろうか」と併せて読むと、筆者様が意思によってある種の愛を断ち切ろうとしている様子が窺えます。最終連「何かを葬る時に 唱えなければならない言葉」にも強い、しかし強引なまでの意思を感じます。だが同時に二連目には「誰かが火を燃やす前に 泥水をすする」とも書かれています。僕はむしろそこに筆者様の正直な心情があると捉えました。誰かが火を燃やす=愛が枯れる、前に自分が泥水をすすってでも、あるいは泥水をすすることになっても大切にしたいもの、感情がある、という暗に秘められた想い。それが表現されていると。あくまで個人的な感想ですがそう思いました。楽曲へのコメントでは木星のパワーにも言及して「私は高熱を発する土星でも木を切り火を燃やしてみたい」と仰られていますが、そこにも強く甘美なヒロイズムを感じます。もし筆者様が望むように「愛が枯れてしまって自分自身も蒸発する」ことが出来たならばどんなに美しいでしょう。愛はカルマであり鎖でもある。地面に、地上に、地球にまたはこの世に、人を縛りつけるものがあるとしたらそれは紛れもなく愛でしょう。それが枯れて尽きてしまったら世界のどんな煩いも悲しみも消え去るかもしれません。しかし同時に人を生きながらえさせ、呼吸を一呼吸一呼吸を紡ぐのもまた愛だと思います。僕はそう信じています。そして愛が枯れても跡形もなく消え去っても、かつて繋がっていた魂同士は決して別たれることはないと。 神様。僕は最近、とみに何か偉大な力が物事を収束させたり、丸く事を終結させる感覚を覚え、そういった出来事を体験しています。恐らく僕にも筆者様にもそしてあまねく読者様にも困難や悲しみまたは喜びが訪れることでしょう。その背後にある偉大な力を「神」と呼ぶのなら、僕もまた神を信じる者となるのかもしれません。僕は草原の峡谷の片隅に腰を下ろしながらそんなことを考えるのです。 以上長文失礼しました。
0コメントありがとうございます。 >井塔由梨さんの楽曲、その曲へ寄せたコメント。そして詩ともすべて拝見しました。 そこまで読んでくださりありがとうございます。昨夜聴いてそのまま出た言葉を推敲せず載せたので、井塔由梨さんに失礼だったかと思いながらも、彼女は喜んでくださいました。 >「私は木を切り火を燃やす」。歌詞の一節にも重なる部分ですね。楽曲に寄せたコメント「火を燃やすと濡れた地は乾いて愛は枯れてしまうのだろうか」と併せて読むと、筆者様が意思によってある種の愛を断ち切ろうとしている様子が窺えます。 正直昨日のコメントのことは頭に無い中で、今回の詩を書いたので、併せて読むとそういうことになりますね。 >最終連「何かを葬る時に 唱えなければならない言葉」にも強い、しかし強引なまでの意思を感じます。だが同時に二連目には「誰かが火を燃やす前に 泥水をすする」とも書かれています。僕はむしろそこに筆者様の正直な心情があると捉えました。 ~ならない、と何で書いてしまったのか、今は正直「?」となっています。唱える言葉でよかったのではと。でも無意識に~ならないと書いたということは、ある種の強引な気持ちがあるのかもしれませんね。 泥水については、簡単に書いていますが、実際には躊躇っていると思います。汚いから近づかなかったかもしれないし、思わずすすったかもしれない、ただあまりだらだら書きたくなかったのでこうなりました。そう思いたかったのかもしれませんね。 >もし筆者様が望むように「愛が枯れてしまって自分自身も蒸発する」ことが出来たならばどんなに美しいでしょう。 今改めて思うと、愛が枯れるとはどういうことなのかよくわかりません。愛が枯れないから、枯れるまで自分で火を燃やしているうちに、自分自身が燃えてしまったという方が自然かもしれません。 >愛はカルマであり鎖でもある。地面に、地上に、地球にまたはこの世に、人を縛りつけるものがあるとしたらそれは紛れもなく愛でしょう。 それは確かにそうです。ここでいう愛とは、広義の意味での愛ですかね。死にたいと思ったとき、浮かぶ人の愛ですかね。家族とか友達とかも全員。 >そして愛が枯れても跡形もなく消え去っても、かつて繋がっていた魂同士は決して別たれることはないと。 そこまでまだ達観できないです。そんなに簡単には考えられないです。ちょっとまだよくわからないです。 >恐らく僕にも筆者様にもそしてあまねく読者様にも困難や悲しみまたは喜びが訪れることでしょう。その背後にある偉大な力を「神」と呼ぶのなら、僕もまた神を信じる者となるのかもしれません。 「神は死ぬ」ということについて。 私はこの歌詞に衝撃を覚えました。神がその人の心にいるかいないか、ということだとして、例えば私の心の中の神が死んだら、私は泥水になる前の降り注ぐ愛を全身に浴びて、北風も南風も受けて、限りある情緒のこと話し出したと思います。「神は死ぬ」というのは私の密かな希望なのです。 でも、神が死んでも星になっていつか私の目にその光が届いたら、また神は私に宿ります。そうしたら私はまた小屋に籠り、ソラレイを唄うのです。燃やしても燃やしても、ぬかるんでいる地面の僅かな泥水をすすろうか、やめようか、躊躇する日々は続くのです。
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