くたばれビーレビュー その弐 - B-REVIEW
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くたばれビーレビュー その弐    

 寺山修司は短歌について、無私であれと説く。私は写生に徹しようと短歌を最近、はじめた。 無私が事物をどう言語によって表現するのか。その無私の成立は「私」の情緒が対象の事物と合致に至り無私は言語に宿る。  詩に愛着なく、未だに古典に精通もせず、時に読めない漢字をそのままに、ネット詩だけをただひたすらに好んできた無学な私が、ネット詩生活のなか、到達したのではなかろうか?という思索の結果をここにまとめて報告したい。   ネット詩に際立つ存在として武田地球氏がいる。武田氏と私は、同時期に詩を書き始めたこともあり、氏の新作を毎回精読しながらその作品にある言語を研究した。時に、「肉うどん」であるとか「国名」などの固有名詞を遣い、名詞が武田地球氏の分身のように、作品には置かれている。それこそがまさに、先に述べた「無私」でありながらも名詞に「私」の情緒が宿る写生だと私は示したい。ポエジーという「偽りとは思えない言葉」が生まれる。    ここまでは、拙いなりにも、私なりの合理によって書いたつもりであるけれども、合理で語れば抜け落ちてしまうものが一方である。それは人間であり、人間は合理化の果てに、合理と印象操作によるコマーシャルに朽ちた言語で、自動筆記にも似た自動装置のごとく、偽りの「抒情」を書いてしまう。それは資本主義において、損得の洗脳による白痴にも似た冗漫な「私」を語る「詩のような」言語。社会とは、資本主義の世とは、損得の方程に従属された人々の偽りに堕した言語の共有化にある。損得、つまり他人を過剰に意識する言葉は無私であろうとする写生の邪魔をする。偽りに堕してしまった共有の言語に、抒情は宿らない。社会から離れてしまう、或いは離れてしまいそうな狂人でなければポエジーへ到達することはないだろう。   狂人という表しは過剰かもしれない。一つの例を挙げたい。私が愛好するネット詩カルチャーとは、詩作品だけに止まらない詩をもとにした人間の交流までを定義としている。具体的にはビーレビューにおけるコメント欄のことである。ネット詩6年の活動とは詩の創作活動が主眼ではなかった。未だに下手な詩ではあるけれども、少なからず詩書きが上達出来たかと思え、その変化に最も効果があると悟ったのが他人の作品を読み、それをコメント欄に書いて表明することだった。コメント書きの行為は自身と他者の間にある、先に述べた「堕した共有言語の見直し作業」に他ならない。おそらくは、多くの人がこの作業を嫌う。まず、己れの扱う言語が堕したものだとも判らないだろう。「人格権」という社会の法よりも「詩作品」を上位とする覚悟にも至らないだろう。人と人の間にある言語ではなく、無私の言語であろうとする時、狂人になりかねない。元来、私は他人への配慮が欠落した人間である。だからだろうか、コメント書きは他人様と親しむよりも、詩そのものへの迫りの感得の表しをする言語化を実感できた。結果として、詩書きのノウハウなどは用を足すことはなく、他人との間にある言語の見直し行為こそが最も効果的面であった。詩書きの上達とは、他者との言語による関係性の見直しに鍵が隠されている。   もしも、あなたがポエジーを己れの作品に宿したいと求めるのならば、己れにとって、他者よりも詩を上位に置こうと、試みるといい。孤立してしまうかもしれないが。


くたばれビーレビュー その弐 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 6
P V 数 : 1720.3
お気に入り数: 1
投票数   : 0
ポイント数 : 2

作成日時 2022-02-21
コメント日時 2022-02-25
項目全期間(2025/04/06現在)投稿後10日間
叙情性11
前衛性00
可読性00
エンタメ11
技巧00
音韻00
構成00
総合ポイント22
 平均値  中央値 
叙情性11
前衛性00
可読性00
 エンタメ11
技巧00
音韻00
構成00
総合22
閲覧指数:1720.3
2025/04/06 13時40分43秒現在
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    作品に書かれた推薦文

くたばれビーレビュー その弐 コメントセクション

コメント数(6)
三浦果実
さんへ
(2022-02-23)

 コメントありがとうございます。詩論が書けぬ詩人など信用できないと、以前に耳にしたことありますが、ネット詩においては、文書すら書けない人間が詩を書いていたりする。一方で詩に精通した博学さのある人間は文書が書けて、漢字が読めても、人間そのものがつまらないから、書かれた文書はつまらい。もちろん、それはそれで存在されてよいですし、面白味の無い人間の方が問題も起こさず、よいのかもしれません。    私は、サバサバしているようで、けっこう根に持つタイプで、冗談ではなく三浦の詩を下手くそ呼ばわりした人間を一生忘れないし、いつか鉄槌を下します。  あ、室町さんにまったく関係ない話をしてしまいました。これからも室町さん、お付き合いくださると嬉しく思います。

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ふかお
三浦果実さんへ
(2022-02-23)

>私は、サバサバしているようで、けっこう根に持つタイプで、冗談ではなく三浦の詩を下手くそ呼ばわりした人間を一生忘れないし、いつか鉄槌を下します。 恐ろしや。

0
高代 あさ
作品へ
(2022-02-24)

かつて自暴自棄に狂人となることを求め、孤立し人生を破壊しながら訳の分からない詩を書いていた自分としては、まずはとても面白い文章でした(自分の読解力が低いせいで、理解が外れている部分もある気がしますが)。今もお酒が少しだけ入っているので理性が一匙分薄く、なのでなぜか気が向いてこの作品にコメントを書かせていただいています。 いわゆる強い人に詩情は宿りにくい気がしています。強ければそのまま世界のスタンダードな価値観を真っ直ぐ進んでいけばいい。弱さやナイーブなところがある人にはどうにもならず宿命的に詩情が宿りやすい。手段が詩になるかは別として。 「孤立」が大きなキーワードの本作ですが、ある種の詩情を抱えながらも大変な孤立に耐えうる人も稀にいて、そんな人に憧れはします。そして本質的な、ファインアート的な詩情はそのような人にこそ宿るのかもしれない。自分も読み手としてはそういうものが見たい思いは当然ある。ちなみに三浦さんも実はナイーブだが、同時にユーモアとタフさ(図太さ)がオリジナルなブレンドで内在しているので謎の安定(同時に不安定でもある)を感じる不思議人として存在しているように思える。 ただ、孤立が付きまとう詩を通過して孤立を脱する、あるいは孤立と戦ってぶち殺す(今までよりは社会的になる)ことが世界に対する復讐になる人生もあるかと思います。自分は時期によるけど今のところ後者だと思います。死にてぇけどやっぱり成熟してぇみたいな。自我が強い人って二律背反に苦しんでこそみたいな気もするんですけど、みんなどうなんでしょうね? 「詩は人格形成の手段となり得るか」あるいは「徹底的に孤立して、ただただあるべき詩情を書くことができるか」ということをたまに考えます。 でも、なんかそのタフさを満たしていない人がネットの濁流なりの勢いで後者の道を突き進んで、自分が死んだり、他人が死んだり滅びたりするのってなんか正しくはない気もするんですよね。ある程度死にかけるとわかるけど人生にとても悪いし。 逆にそれでも修羅の道を長年突き進める人は、もうただただ眺めることしかできないと思う。詩以外の創作の知人でもそれに少し近い友人がいなくもないです。それを見ると少し愛おしい気持ちになるかもしれない。やっぱり二律背反的なんですね。 そんなことを思いました。

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三浦果実
ふかおさんへ
(2022-02-24)

本当の悪意だけが人を感動させられる。 「先生を流産させる会」 http://www.tokkyo-net.jp/macroanalyst714613.html

0
三浦果実
高代 あささんへ
(2022-02-24)

センチメンタルを強い人は持たなくていいですよね。現実世界で意のままに、全能感あふれる人はこの世の憂いもあまり持たないし、失ってしまっう恋暇などあるわけ、ないのかも。感傷的になる人は弱いのだよ、と父性的なことや社会のプリンシプルなことを示すような、そんなお父さんにはなりたくなかった。けれども、泣いてはいけないんだトーマスソーヤってマインドが、僕にはあってね。センチメンタルを捻じ伏せて冒険に旅立たなかったら、馬鹿にするハックルベリーフィンがいるんじゃないかなって、そう思ってしまう。真の悪意がこみあげてきたら、お前は死ねばいいと吐きだしたとしても言葉は嘘になって、感傷だけが残る。

0
ふかお
三浦果実さんへ
(2022-02-25)

>本当の悪意だけが人を感動させられる。 >「先生を流産させる会」 >お前は死ねばいい まじで怖いし。

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