人に話をする。どうした動機でそれをするのか。心を自分以外の人に解き放つ。話をしたい。話を聞いてくれる。これは面白い感情だと感じる。心のやりとりの無い所に「話す」は無いということだろう。
ロバート・バーンズ。詩人。私は昔、「蛍の光」の訳を作ったことがある。馴染みのリズムで歌えるものを作りたいと思った。
輝ける日々
過ぎ去りし日々よ わが思い出
例えかの日々は 消え去るとも
古き思い出に 去りし日に
友よ いざ乾さん この杯
共に駆け抜けし あの坂道
共に手折りたる あの雛菊
かの日味わいし 心地よき
疲れを思い 乾す杯
共に駆け抜けし あの広野
日がな 過ごしたる あの日々を
今を隔つは 猛き海
思うは古き 良きあの日々
いざ手を取らん 友の手を
かつてを思い これからも
今も変わらざる友情に
共にいざ乾さん この良き酒
互いに飲もうぞ 次の酒を
我ら手にするは 契の酒
互いに乾すは 優しき杯
飲みては称えよ かの日々を
この話はとある田舎のバーで始まる。通い始めて間もない春の夜、バーテンダーは語った。
「田舎できちんとしようとすることは、とりもなおさず変な人と呼ばれることを許容することになります。」
確かにその店はそのまちにも近くのまちにもない「きちんとした店」だった。まるで「バー」を絵に書いたような店。大きな一枚板で作られたカウンター。間接照明と客の前に出されるロウソク。店にある黒板にはいくつかのカクテルの名前が書いてある。名前を書かれたカクテルにはオリジナルな味付けを施したものが多かったがそれはバーテンダーがカクテルをあまり勧めていないことを無言の内に語るためであったと思う。バーテンダーは言った。
「男性は黙ってウィスキーを飲んで欲しい。女性はカクテルでもいいけれど。」
誰かを連れて行くと彼は黙って酒を出した。連れが私の冗長な話に飽きると絶妙な間で合いの手を入れた。一人で赴けば彼は決まって静かな声で愉快な話をした。案の定、彼の作る料理は美味かった。そのことに気が付くまで少し時間を要してしまったことと、客が多い夜にはどんなに口さみしくなっても依頼しづらいことだけが少し残念なことだった。
私は少し長かった大学生活と怒涛のような仕事を経て、父の住む田舎に帰ってきた。同じ年に祖父と母が相次いで亡くなったからだ。5年付き合った彼女は「あなたのことが男性として最高に好きだけれど人間としては信用できない。」というこれ以上ない決定的な理由で私から去って行った。私は田舎に帰ってすぐに別の女性と結婚した。我々が出会ってから結婚するのと同じくらいの速さで子供が生まれ。また同じような速さで家内から離婚を言い渡された。私は30代後半。いくつかのいささか寂しい思い出を経て、自分が十分に偏屈である自覚を持ち合わせてはいた。
その店に集まる人はひどく多彩だった。しかし、バーテンダーの語るところによれば「みんな何かから逃げてきている人。」なのだそうだ。私はその店で飲む葡萄の蒸留酒とウィスキーを愛した。そしてそこで過ごす時間を愛した。家内が出て行ってからもすぐには棲家を変えなかったのは、当時住んでいた家がその店に通いやすい場所にあったからだ。
私には友人が一人だけいた。彼にも友人と呼べる人はあまりいなかったと思う。彼も私もひどく広く、そして限りなく浅い知識を持ち、誰とでも話をすることのできる社交的な人間を装っていた。しかし、自分以外の全てを見下しており、自分自身が他の誰かからその様に見下されることをひどく恐れてもいた。私たちは時々とりとめのないやりとりをした。夜を徹して飲み、時に誕生日の贈り物と称して、自分自身が欲しいけれども買っても別に使いはしないものを送り合ったりした。
当時の私は家内との離婚へ向けた協議が終わろうとしていた所。寂しさを紛らわせることに懸命だった。最初に襲って来たのは子どもや家内と会えなくなることに対する純粋な寂しさだった。しかし、そうした寂しさは家内が子供を連れて出て行って2ヶ月が経った頃から別のものに変質して行った。その寂しさは「自分が生涯、誰からも必要とされないのではないか。」という寂しさで、これは全く手におえない種類のものだった。
私が彼と出会ったのはそんな思いを抱えた秋の日だった。私は職場からの帰り道、寄る辺なく映画館に足を運び、観た映画のあまりのひどさに舌打ちをしながら歩いていた。出演者にいい女優、男優を取り揃えた群像劇で「食べることを大切にする映画」だという触れ込みだった。食事の描写や人物、台詞そのどれもが中途半端に感じた。映画館から少し離れた自宅に帰り、気分をほぐすために店に出向く。一杯目の飲み物を注文した時、そこに彼はいた。あまり上等ではないがきちんと手入れされた上着を着てアメリカの郵便配達員が履くゴム底の黒い靴を履いていた。服は質素だが身に付けているものは全て悪いものではない。そして使い込み手入れされている。先程観た映画の話を皮切りにひとしきり話が弾んだ後、彼は自分の名前を名乗った。しかし、私はその苗字をどうしても思い出すことができない。覚えやすい名前ではないが取り立てて特徴のない、そんな名前だったと記憶している。
彼は気になる女性が9人いると言った。そしてその娘たちに「外見」、「性格」、「味覚」、「服装」という項目を設けて、それぞれ5点満点で点数を付けているのだそうだ。
「いささかひどい習慣ですね。」
私は笑いながら彼に伝えた。
「しょうがないじゃないですか。みんな好きなんだから。色々な人がいるように色々な好きがあってもいいように思いませんか。」
彼も笑いながら答えた。それから彼は幾人かの女性との思い出と呼ぶにはあまりにも短く、意味をなさない話をしたが、私にはそれが皆同じ「好き」の話をしているように思えた。おそらく彼が好きなのは彼自身でしかないのだろうと思った。一人で飲みに来る彼はとても陽気な男だった。沈み込んでいるような様子を見せる時でさえ、口から出る話は愉快な雰囲気を帯びていた。誰かを連れて来る時、それはたいてい女性であったが、彼は酷く居心地が悪そうだった。複数の女性が入れ替わり立ち代わり彼の横に座ったがどの女性もお世辞にも魅力的とは言えなかった。彼は女性と一緒にいる時には常に彼女たちに敬意を払って接していたし、ひどく優しかった。しかし、彼が一人で店にいる時の上機嫌を知っている私の目からは彼は心から安心のできる女性が傍らにいないという状況に酷く苛ついているように見えた。
彼はまるで百科事典で「趣味」と引いたら出てくる項目を全部詰め込んだような数の趣味を持っていた。その一つに車がある。古いイタリア車を彼は「持っている」と言って笑った。欲しかった車をやっと買ったが生活費がかさみ走らせられる状態では維持できていないのだそうだ。写真を見せて貰ったがそれは美しい芥子色のクーペだった。現代の車とは違いコンピューターではなく人間の手で書かれ立体化された美しい曲線。そこに当たる自然光の反射。コンピューターではなくワイヤーで、歯車で、人の手が動かす車。彼はそうしたものを愛していた。
「デジタルというのは基本原理としてスイッチですよね。パチン、オフ。パチン、オン。オフが0でオンが1。物事をそうやって数字に置き換えるということでしょう。」
彼は灰皿にある吸い殻を二本指さしながら言葉を続けた。
「たとえばここにある二本の吸い殻。厳密に言えばこの二本は同じものではないはずです。でもそれを数字で表すとなると同じ一になる。足すと二。現実の煙草一本と数字の一との差はどこまで行っても埋まらない。私は本当の美しさというものはアナログに宿るものだと思います。」
確かにそうだ。電子機器はとても便利なのだ。一つの装置で色々なことができる。しかし、「0」と「1」の間はどこまで行っても埋まることはない。ある種「0」と「1」の間にある「幅」を捨てているとも言えるだろう。しかしアナログ機器は違う。例えばタイプライター。文字が書ける。それだけの機械だ。インクリボンも必要だしそれで字を書くのは今となっては少し面倒だと言える。しかし、タイプライターで紙に書かれた文字は情報である前に「物質」として確かにそこに在る。銀塩カメラも同様だろう。フィルムカメラではレンズを通った光がフィルムを変化させる。そしてそのフィルムに光を当て、印画紙に写真を焼き付ける。それは情報ではない物質として確かにそこに在るものだと感じる。デジタルカメラと比べて不便ではある。しかしデジタルカメラはどこまで進化しても「0」と「1」の間を埋めてくれることはない。アナログな装置の持つ不便さの中には「0」と「1」の隙間を埋めるための要素、いや、「0」や「1」では表現できないものが詰まっていると感じる。デジタルな機器を使用しているとある種の焦燥感に駆られる。常に「これは『本当に欲しいも』のではない」という焦燥。私たちが欲しいのは「情報」ではなく確かな手触り。私たちが欲しいのは情報の隙間を埋める確かな物質なのだ。
ここに一枚の看板がある。良質な木材と硬質な真鍮でできた看板。貝と灯台を模った真鍮のレリーフ。その下には旅人を導き、その人が進んできた道とこれから歩もうとする道を祝福する店の名前が同じく真鍮の綺麗な文字で飾られている。私が良く通ったあの店の看板だ。
考えてみて欲しい。仕事を終え、あるいは用事を済ませ、いささかの疲れと葛藤を抱えて帰路に就く。その道すがらふとあの店に寄りたくなる。あるいは家に帰り、シャワーを浴びリラックスし身支度を整えて再び家を出る。一日の終わり、頭の中は絡み合った針金のように固まっている。店の看板が見える。角を曲がって最初に目に入るそれは青と白の蛍光灯で照らされた無機質なものだが、それは先ほど話した看板ではない。それは酔った客の目にも入るように設置された優しさ。そして店の扉を開けようとした時、あなたの目には本当の看板が目に入る。小さな板だ。だが昔ながらの電球で照らされたそれは酷く美しい。そして優しい。店のドアには大きなガラスがはめられており、中からは柔らかな明かりが漏れている。カウンターの様子をそこから窺うことはできない。どうせドアを開ければ誰がそこにいるかはわかる。だがあなたはほんの少しの間、それは時間にして1秒にも満たない時間だが中の気配を伺う。どんな顔で店に入るかを少し考える。そして右手で真鍮のノブに手を掛け、勢い良くだがあくまで優しくドアを開ける。再びそのドアを閉める際にはきっとあなたの頭の中にあった針金のような塊は見事にほぐれ霧散している。
この話はどこにも向かわない。ただボトルに詰められたウィスキーをグラスに注ぎ蓋をする。ただグラスに注がれたウィスキーをその蓋を取り、蓋に残ったウィスキーの匂いを嗅ぎ、水と共にゆっくりと接種する。それだけの話だ。所詮、ウィスキーという物体が店の中で少し移動したに過ぎない。だが、それは客が店を出る時に確かに失われる。飲み手の体内で分解され、排出され、そしてまた世界に還って行く。同じ世界からまた新たなウィスキーが生み出されその店に運び込まれる。それだけのことだ。それだけのことを私は書き続けている。それは何も変わらないが素晴らしいことだと感じる。書く必要はないが書き続けなければならないとも感じる。何のために。ただ過ぎた日を懐かしむために。昔を思い出すために。今を思い出に変えるために。混乱した頭を整理するために。悲しみを悲しみとして分類するために。優しさを優しさとして思い返すために。
作品データ
コメント数 : 2
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作成日時 2022-02-15
コメント日時 2022-02-19
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2024/11/21 22時57分05秒現在
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ロバート・バーンズを知りませんでした。良いお店が近所にあるとはうらやましい。 読みごたえのある、面白い文章でした。
1駄文にお付き合いいただき感謝申し上げます。 少し遠くに越してしまいましたがモデルにした店とバーテンダーは健在です。 今も懐かしく思い出します。
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