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風紋の彩なす処
風紋の彩なす処 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1626.4
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 2
作成日時 2022-02-13
コメント日時 2022-03-01
項目 | 全期間(2025/04/06現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 2 | 2 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 2 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
作品が投稿された直後に読んだ。その時は印象を語るには、水脈に辿り着けた感がなく、閉じた。人の生々しい「何か」が少なからず垣間見れたら、その詩は神聖になる。安易に語らせず、読まれたらそれでいいということ。 水鳥は色彩あるものから黒いものまであるという。それぞれの水鳥にとって色は無論、意識などされていない。けれども、人からその様をみれば、水鳥の在る風や湖畔や都市に自ら諍うことなくいるように思えてしまう。私たち人間も、また、そう仕方がないものなのかもしれない。
0硬質な熟語が詩国を成していると思いました。詩ワールドとでも言う様な。幼年期の夢に魘されるのは詩そのものなのかもしれません。
0嬉しく存じます。 何より、本作の抱える重要な問題を指摘して下さりました事を。 当拙作が今一つ精彩に欠けおりますのは、表現の振れ幅――想像と肉体、そして能動と受動、主観と客観が、或る幻想性‐美意識の達成の為に省略されている、事であると存じます。 謂わば、落差の所産である、生々しい肉声が、記述の欄外に押し遣られている事に起因する、問題とも呼び得ましょう。 それでは、何故、肉声的記述が放逐されているのか。此れは、単純に申しますならば、話者である私の、余に脆弱な意識を曝け出すことを躊躇しているからでもございましょう。 そして、現実は想像を厭い、想像は現実を厭う、と言う、両者の性質も一因となっております様に。思われます。 可もなく不可も無く、無難な表現に終始して居ります内は、成長‐発展は望めない、と肝に銘じつつ、その欠点を幾許かでも克服致したく、存じ上げます次第でございます。 ありがとうございました。
0レスポンスを賜り、嬉しく存じます。 実は、エイクピア様の、博識とウィットに富んだ作風を、何時も愉しみにしております。 無精なものですから、つい批評を後回しに致しました侭で。不義理を、働いて仕舞いまして。申訳なく、思っております。 ありがとうございました。
0緻密に張られた蜘蛛の巣も膜のようで、特に雨上がりなんかはきれいですよね。 蝶にとっては貪婪と暴食、視覚的に捉えにくい死の象徴みたいなものでもある。 祈りって言うのは生きている人の、祈っている本人の心の平穏のためにある、という人もいる。卵膜に編まれていくものが緑がかった闇だったとしてもやはり、破れたときには何か力強いものが生まれると信じたいな。
0ご閲覧を頂きまして、ありがとうございます。 色々と、骨身を削る様な現状の只中におりまして(それは皆様も同じではございましょうが)。酷い手傷を蒙りながらも、皆様の、抒情を諦めない姿勢に甚く感銘を受けております。 脆いものの内部からしか産まれ得ぬ、逞しい意志を矜持とし、作品と成す。然様な心向きをご教授いただきましたかの様な、晴がましい心境を覚えております。 未だ未だ稚拙な、作品ではございますが。某かの詩的心象、イマージュを感受なされて下さりましたならば。僥倖と存じます。 蛇足。 何が起ころうとも、ロシア近現代芸術への敬愛を自己検閲したりなどは、致しません。 われわれには必ず和解への道があり、そこへ続く標識こそを探すべきである、と考えておりますから。
0ロシア近現代芸術もロシアのスポーツ選手にも、そして普通に生活しているロシア国民にも罪はないですからね。二番目の被害者はロシアの一般人です。 悩みもなく生きられたならそれが理想でしょうが、みな藻掻きながら生きるしかないですよね。病気を同居人とするならばなおのこと。 人間は弱い、大人も子供も権力者も。詩人は最たるものですが。藻掻きながら、今日だけ、明日だけ、と共に生きていきましょう。
0再びのレスポンスを賜りまして、ありがたく存じます。 以下。纏りの無い、話しですが。些か御目を通して下さりましたなら、幸いでございます。 確とは憶えておりませんが。 「ロシア的なるものの精神は、ロシア人にしか分からない」と言う文言を聞き覚えております。 ロシア美術のモティーフには、屡々悪魔と謂う主題が登場致しますが、それは彼等が自分自身を、謂わば聖霊的な、浄化、美化されたものではなく、 堕落した、醜いものとして投影し已まない、精神構造を有している、証明とも呼び得るものでしょう。 此れは人間存在の深刻な、残酷性、知性では統御の叶わぬ「善=悪」とも成り得る様な矛盾、衝動性を抱え乍ら、暴力的である程に本質的である、存在の実相を、暴く行為であり。 鬱屈たる、精神の深刻性を髣髴とさせる、傾向を象徴している、存在の、如何ともし難い現実を、表現していると、私には感ぜられました。 そして、私は。悪魔的なるもの、デュオニュシオス的な精神に甚だしく惹かれる、性質の、人間なのでございます。 人間が平和であるためには、此の、精神の。内的葛藤と常に直面し、対話や、時には対峙をしながらも。個々、集団の内面に於いて、妥協をして行く様な。苦い道程を進まねばならないのでしょう。 恐らくは、その苦々しい葛藤こそが、人間の尊厳を尊厳足らしめる、唯一の過程なのでございましょう。
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