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違う方法の彼方
「興味が失せる」と言葉にすることの裏には、それだけではないなにかが含まれている。なぜなら、本当にただただ興味が失せていくものについて、言葉にしたりはしない。それは本来なら「助手席が空白であること」や「前を走る車の後部座席に誰も乗っていない事」のような雨と同じに、記憶に残らず消えていくものだからである。ではなぜ、それは言葉になり得たのか。それを思うときに、語り手(筆者、に限りなく近い気もするが)がそれらに向けるほとんど愛と言ってもいいほどの執着に気付く。そして、この執着は決して奇特なものでもなんでもなく、普遍的な力を持って胸にせまる。 永遠に変成してしまうことへの困惑と苛立ち、失われてしまったものへの思慕。それを真っ向から見つめて哀しむことは、しかし誰にでもできることではない。この詩の力はそこからきていると思う。 著しかたは数あれど抒情を好む一読者・作者として、この詩は希望であると思った。情(こころ)を抒(の)べると書いて抒情だ。抒情が本当には失われてしまっている、と率直に述べるとき、そこには新しい抒情がすでにある。 「ありきたりな物語」、「変わらないテーマ」、「同じような作品」に辟易する独白も同じく、単なる絶望には終わらないと思える。何故ならその絶望こそおそらく幾度となく繰り返されてきたものであるにも関わらず、なまなましく胸を打つからだ。 逆説的にこの連から私が思わされるのは、どうせ誰かも誰かと似たようなことしかしない、というのは未完成の巨視的視点であり、完全なそれは人には持ち得ないということ。そして、人は目の前に現れたものの一回性に体を震わせてしまうのだということ。動物として。私がこの詩から様々なことを想起したように。 そして「魔法」は溶け出しても、「違う方法で書き始めるしかなくなる」。それが詩でなくとも、ページを捲る誰かには、あらゆる可能性がある。突然何かが立ち現れる。あるいは何かが変質していく。それが今まで魔法と名付けていた何かではなくとも。そして、辞書が書き換わる可能性も。 前向きな要素ばかりを読みこんでしまった気がしないでもない。しかしこの詩に通底するトーンそれ自体が、抒情は形を変えて生き続け終わらないことを示しているのは明白だ。 当作品が他の少なくない筆者/読者にとっても慰めとなることを信じて、この、いつか誰かが誰かの作品につけた解釈と同じかもしれない解釈を終える。
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作品データ
P V 数 : 1093.5
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作成日時 2021-12-26
コメント日時 2021-12-26