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詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日
二〇一七年二月一日 「ゼンデキ」 徹夜で、イーガンの『ゼンデギ』を読み終わった。うまいなあと思いつつ、もう少し短くしてよね、と思った。まだ眠れず。デューンの『砂漠の神皇帝』でも読もうかな。このあいだカヴァーの状態のよいのがブックオフにあったので、全3巻を買い直したのだ。表紙と挿絵に描かれた神皇帝がかっこいいのだ。 二〇一七年二月二日 「月の部屋で会いましょう」 レイ・ヴクサヴィチの『月の部屋で会いましょう』(創元海外SF叢書)が届いた。ケリー・リンク並の作家だと、1作品しか読んでいないけれど、思っている。きょうから読もう。解説を読むと、まるで詩人が書きそうな短篇ばかりのようだ。奇想の部類だね。 二〇一七年二月三日 「得も損もしてないんだけどね。」 きょう、吉野家で「すき焼き」なんとかを食べたのだが、「大」を注文したのだが、しばらく食べていなかったので、これが「大」かと思って食べ終わって、レシート見たら「並」だった。金額が100円違うだけだけど、なんか得したような損したような複雑な気持ちになった。得も損もしてないんだけどね。 二〇一七年二月四日 「ふだんクスリは9錠」 日知庵から帰ってきて、ゲロったからいいかと思って、いつもは9錠だけど、いまクスリを10錠のんだ。痛みどめを1錠多くしたのだ。あした、何時に起きるかわかんないけど、あしたは仕事ないし、いい。あしたは音楽聴きまくって一日すごす予定。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月五日 「最終果実」 いま日知庵から帰った。レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』のつづきを読んで寝よう。これから読むの、「最終果実」だって、へんなタイトル。やっぱり詩人みたいな感性だな。 二〇一七年二月六日 「夢を見て、はっきりと目を覚ますとき」 きのう見た夢のなかで、おもしろいのがあった。イギリスのことわざに、樹から落ちる虫は丈夫に育つというのがあってっていうので、そんなことわざがほんとにあるのかどうかは知らないけど、目のまえで、虫が木から何度も落ちるのを見てた。夢のなかで、散文詩が書かれてあって、その一部分なんだけどね。目を覚ましてすぐにメモをしたらはっきりと目が覚めてしまった。 二〇一七年二月七日 「いろんなものが神さまなのだ」 サンリオ文庫・ラテンアメリカ文学アンソロジー『エバは猫の中』を読みました。 傑作短篇がいくつもあった。 サンリオ文庫のなかでは、ヤフオクでも安く手に入るもの。 あ コルターサルの『追い求める男』のなかに 「ハミガキのチューブを神様と呼ぶ」という言葉があって、驚いた。 ぼくがこのあいだ出した●詩集に 「神さまはハミガキ・チューブである」ってフレーズがあるんだけど こんな偶然もあるんだなと思った。 まあ、いろんなものが神さまなんだろうけれど。 二〇一七年二月八日 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」 ふと思いついた言葉でした。 利き腕が左手のひとは「右の手が触れたもの」を思い出してみましょう。 二〇一七年二月九日 「鯉もまた死んでいく」 鯉もまた死んでいく 鯉もまた死んでいく 東山三条に 「はやし食堂」という大衆食堂があって そこには セルの黒縁眼鏡をかけた大柄なおじさんと とても大柄なその奥さんがいて 定食類がおいしかったから パパと弟たちといっしょに よく行ったのだけれど その夫婦は お客の前でも 口喧嘩することがあって いやな感じがするときもあったけれど だいたいは穏やかな人たちだった 「○○院に出前を届けたら そこの坊さんの部屋には 日本酒の一升瓶がころがっていて云々」 といった話なんかもしてくれて へえそうなんやって子供のときに思った 大学院のときに 女装バーでちょっとアルバイトしたことがあって そこで その○○院の若いお坊さんに 手をぎゅっと握られたことが思い出される まだ20代の半ばくらいの コロコロと太った童顔のかわいらしいお坊さんだった あ で その「はやし食堂」の夫婦には息子が二人いて 長男がぼくと中学がいっしょで 同級生だったこともあるのだけれど 彼は洛南高校の特進で ぼくは堀川高校の普通科で 彼は現役で神戸大学の医学部に受かって ぼくは一浪で同志社に行ったんだけど 彼のお母さんには ぼくが大学院に進学するときに 「大学院には行かないで働いたら」なんてことを言われた記憶がある 自分の息子が医者になるから 自分の息子のほうが偉いという感じで そんな顔つきをいつもしてたおばさんだったから ぼくが大学院に進んだら いばることがあまりできなくなるからだったのかもしれない そのときには ぼくも博士の後期まで行くつもりだったから あ こんな話をするつもりはなかって ええと そうそう 三条白川に 古川町商店街ってのがあって そこに林くんの実家があって お店は東山三条でそのすぐそばだったんだけど 中学3年のときかなあ 何かがパシャって水をはねる音がして 見ると 白川にでっかい鯉が泳いでいて なんで白川みたいに浅い川に そんな大きさの鯉がいるのかな って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど ぼくが 「あっ、鯉だ」って叫ぶと 林くんが 学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて その鯉の上から学生服をかぶせて 鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど 学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの これまたお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった 今でもはっきり覚えている 上気した誇らしげな顔 林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに 鯉の出現よりもずっと驚かされた ふだん見えないことが 何かがあったときに見えるってことなのかな これはいま考えたことで 当時はただもうびっくりしただけだけど ああ でももう ぼくは中学生ではないし 彼ももう中学生ではないけれど もしかしたら あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね 二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで さっと自分のなかに飛び込んできたことを あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで 鯉を抱えた少年の後姿を見つめていたことを 二〇一七年二月十日 「地球人に化けた宇宙人のリスト」 地球人に化けた宇宙人のリスト 正岡子規 火星人 もっと努力して人間に似せるべき 夏目漱石 アンドロイド これは宇宙人じゃないかも、笑 大岡 信 少なくとも地球人ではなさげ 水のなかで呼吸していると見た 梅図かずお あの干からび度は、地球の生物のものではない 志茂田景樹 宇宙的ファッションセンス そのままスタートレック 二〇一七年二月十一日 「パンドラの『芸術/無料・お試しセット』」 パンドラのところには じつは、もうひとつ箱が届けられていて その箱には『芸術/無料・お試しセット』と書いてあった あらゆるつまらない詩や小説や戯曲や 音楽や舞台や映画なんかが詰まってる箱であった この箱が開けられるまで 世界には素晴らしい詩や小説や戯曲や 音楽や舞台や映画しかなかったのだけれど パンドラがこの箱を開けてしまったのだった は~あ 歴史に「もしも」ってないのだけれど もしも…… 二〇一七年二月十二日 「花緒さんのおかげで」 いま、学校から帰ってきた。これから友だちの見舞いに。ぼくの新しい詩集の表紙をかざってくれた青年だ。あした手術なのだ。きのう新しい詩集が届いたので、きょう持って行くことにしたのだ。 友だちの病院見舞いの帰りにユニクロでズボンを2本買って帰りに西院の牛丼の吉野家で生姜焼き定食を食べて、部屋に戻ってカルメン・マキ&OZのサードを聴いていたら突然エリオットが読みたくなって岩波文庫の『荒地』を読み出したらゲラゲラ笑っちゃって、詩ってやっぱり知的な遊戯じゃんって思った そしたら急に作品がつくりたくなってカルメン・マキの声を聞きながらワードに向かっていた。過去に自分が書いた言葉をコラージュしているだけなのだけど、ときにぎゃははと笑いながらコラージュしている。ぼくが詩を放棄したいと思っても、詩のほうがぼくのことを放棄しないってことなのかもしれない。というか、花緒さんのお励ましのツイートを拝見したことがずっと頭にあって、エリオットの詩句を見て、脳内で化学結合を起こしたのだと思う。花緒さん、ありがとうございます。きょうじゅうに、3月に文学極道に投稿する2作品ができそうです。BGMをムーミンに切り替えた。ぼくの大好きな「RIDE ON」風を感じて~フフンフフンと、ぼくもつぶやきながら、ワードにコピペしてる。流れるリズム感じながら自由でいようってムーミンが歌うから、ぼくも自由に詩を書くのだ。現実に振り回されて生きてるけど、それでいいのだと思うぼくもいる。フフン。3月に文学極道に投稿する作品を1つつくった。あともう1つ、きょうじゅうにつくろう。こういうものは、勢いでつくらなくちゃね。ムーミンあきたし、なにかべつのものかけよう。そだ。ユーミンなんか、どうだろう。 3月に文学極道に投稿する作品のうち、2つ目をいまつくり終えた。1つ目はA4版で44ページ。2つ目はわずか14ページ。2つ目のは、これまでつくった『詩の日めくり』のなかで、もっとも短い。でも、できはぜんぜん悪くない。44ページある1つ目はめちゃくちゃって感じで笑けるし。2つ目はひじょうにコンパクト。ありゃま。まだ8時20分だ。時間があまった。3月に文学極道に投稿するのは、2つとも『詩の日めくり』だけど、4月のも、そうなりそう。 花緒さんのおかげで、短時間で2つの『詩の日めくり』ができあがりました。お励ましのお言葉で、こんなに簡単に回復してしまうなんて、ほんとに単純な人間です。お励ましのお言葉をくださり、ほんとうにありがとうございました。拙詩集、おこころにかないますように。 サバトの『英雄たちと墓』は、ぼくのお気に入りの小説だけど、ぼくのルーズリーフのページの相当分を占めちゃってて、ルーズリーフを開くたびに、ラテンアメリカ文学に集中していた30代後半のぼくの青春がよみがえる。自分の詩だけではなくて、文学そのものが、いわゆる記憶装置なのだろうね。 森園勝敏の『JUST NOW & THEN』をかけながら、部屋のなかでちょこっと踊っている。元気になった。けさまでは死んだ人間のように無気力だったのに。言葉って、すごい力を持っているのだなと、あらためて感じさせられた。 二〇一七年二月十三日 「源氏物語のなかの言葉で」 源氏物語のなかで、源氏がいうセリフにこんなのがありました。「わたしたち貴族というものは、簡単にひととの縁を切らないのですよ」と。ぼくにとっては、印象的な言葉で、記憶に残っています。 二〇一七年二月十四日 「売る戦略のために」 授業の空き時間に、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』を3分の1くらい読んだ。もしかしたら、きょうじゅうに読み終えられるかもしれない。とてもおもしろい短篇集だけれど、詩人の散文詩みたいな気がする。なぜ、こんなに短いのに、小説として扱われるのだろう。売る戦略かな。 忘備録:キムラのすき焼きについて、あした書こうと思う。思い出といま。大学時代のサークルの話をさいしょにもってきて、子どものころの思い出と、このあいだ森澤くんと行ったときのプチ衝撃の話。きょうは、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集のつづきを読みながら床に就きます。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月十五日 「キムラのすき焼き」 大学の1年生のときに、イベントを主催するサークルに入ってて、1980年のことだけどさ、サークルのコンパが八坂神社のとこにあるすき焼きをする宴会場に決まって、そこって、ぼくんちが祇園だったから、すぐのところだったんだけど、そんなとこに宴会場があったんだってこと思ったこと思い出した。20人くらいいたかなあ。で、ぼくと同席した先輩が関東出身で、すき焼きをしきり出したんだけど、なんと、タレから鍋に入れだしたんだよね、というか、そのまえに、そのすき焼き、もやしが入っていて、びっくりしてたんだけど、でね、その先輩、タレのつぎには、野菜を入れて、さいごに肉を入れたの。もう最低って感じで食べた記憶がある。こどものころ、家が裕福だったので、週に一度、高いところで外食してたんだけど、すき焼きって言えば、キムラだった。キムラでは、牛脂を熱した鍋に入れて鍋底前面に塗り倒してから、肉を焼いて、砂糖にまぶしてから、タレを入れて、それから野菜なんかを入れていったから、その順番が正しいとずっと思っていて、3、40年ぶりに森澤くんとキムラに行って、すき焼きを食べたんだけど、二人でキムラに行くまえに日知庵で、すき焼きのつくり方の話をしていて、やっぱり肉を焼いて砂糖をまぶしてからタレを入れて野菜なんかをさいごに入れますよねって話をしていたんだけど、二人でキムラで、牛脂を鍋底に塗り塗りしていたら、仲居のおばさんが急に出てきて、「わたしがしましょうか?」って言ってくれたので、お願いしたら、大学時代の先輩のように、野菜を入れてタレを入れて砂糖を入れて、さいごに肉を入れたのだった。ぼくと森澤くんは、仲居のおばさんが野菜を手にした瞬間に目を見合わせたのだけれど、抗議する暇もなく、つぎつぎと関東風のつくり方を繰り出す仲居のおばさんのすき焼きのつくり方に目をうばわれた、つうか、あきれて、ふたりとも、口をぽかんと開けて、すき焼きが出来上がるのを待ったのだった。キムラは靴脱で靴を脱いで座敷に上がるスタイルの店で、メニューの横に、「関西風」のすき焼きのつくり方が写真付きのものが置いてあったのにもかかわらずだ。あとで、仲居のおばさんがぼくらの席から離れた瞬間に、ぼくは森澤くんの目を見ながら、「ええっ。」と言って、「こんなことってある?」って言葉をついだ。まあ、でも、関東風でもべつにまずくはなかったのだけれど、関西風だともっとおいしかったはずで、みたいな話を森澤くんとしてて、後日、日知庵でも、このプチ衝撃事件の顛末をえいちゃんに語っていたのであった。あーあ、こんどキムラに行ったら、ぜったい関西風のすき焼きのつくり方でつくろうっと。むかし、ぼくがまだ20代のころに、親切そうな顔をして近づいてくる人物にいちばん注意しなさいと、仕事場で、ぼくに言ってくれたひとがいて、その通りに、ひどい目に遭ったことのあるぼくは、こんどキムラに行ったら、いくら仲居のおばさんが親切そうに近づいてきて、すき焼きをつくってくれようとしても断ろうと決意したのであった。二十歳すぎまで祇園に住んでて、親が貸しビルをしていたから裕福だったんだけど、で、子どものころは贅沢だったんだけど、ぼくが大学院に入ったころから親が賭博に手を出して財産をすっかり使い果たしてから、ぼくも貧乏人になってしまって、自分のお金でキムラに行ったのは、冒頭に書いた通り、親と行ったとき以来、3、40年後。子どものときに行ったことのあるところを、めぐって行こうと思うのだけれど、なくなった店もある。25歳で大学院を出たあと、北大路通りに一人住まいをしていたんだけど、北大路橋のたもとに、グリル・ハセガワってあって、こんど、そこ行こうかって、このあいだ日知庵で、森澤くんと話してたんだけど、ぼくは北大路通りに15年、北山に5年住んでいて、グリル・ハセガワには、しょっちゅう行ってて、思い出もいっぱい。エビフライがとくにおいしかった。 二〇一七年二月十六日 「言語都市」 きのうから、たびたび中断していたチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読んでいるんだけど、まだ38ページ目なんだけど、ちっともおもしろくないのね。このひとのも、途中からおもしろくなるタイプの書き手だから読んでいるけれど、ミエヴィルを読むのは、これでさいごにすると思う。 チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 48ページ下段3、4行目「時間を要するもある。」→これは「時間を要するものもある。」ではないだろうか。 二〇一七年二月十七日 「言語都市」 ミエヴィルの『言語都市』、132ページ目に入るところで、脳がいっぱいいっぱいになってしまった。それにしても、1950年代や60年代のSFは読みやすかったなあ。シマックの『都市』が未読なのだが、本棚にあるので、これ読んで寝よう。少なくとも解説だけでも。きょうは、ミエヴィルに疲れた。むかしのSFの表紙はすばらしいものがたくさんあった。さいきんは、買いたいなあと思う表紙が少ない。ヴクサヴィッチの短篇集も表紙はクズだった。内容がいいので買ったけど、書店で見かけただけなら、ぜったい買わなかっただろうなあ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ! チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 120ページ下段10行目「すばやく質問ぶつけたら」→これって、「すばやく質問をぶつけたら」だと思うけど、どだろう。 二〇一七年二月十八日 「言語都市」 いま日知庵から帰った。『言語都市』いま226ページ目に突入って感じだけど、あした、どれだけ読めるのか。きょうは、もうクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月十九日 「吐けるだけ吐いた。」 いま日知庵から帰った。きょう眠れるだろうか。あしたは一日中、数学をしていていると思うけれど、お昼に目が覚めてたら(さいきん、日曜日のお昼は寝ているのだ)友だちのお見舞いに行きたい。行きたい。おやすみ、グッジョブ! きょうも、酒浸りの一日だった。えいちゃん、森ちゃん、ありがとうね。 いまトイレでゲロを吐いた。やっぱり焼酎は3杯が限度みたい。指を喉に突っ込んで吐けるまで吐いた。血痰が出た。咽喉をちょこっと破いちゃったみたい。あ~あ、酒が弱いのに飲むのだな。文章がおかしかった。「吐けるまで吐いた。」じゃなくて、「吐けるだけ吐いた。」だ。もう一度、電気を消して横になって気がついた。 二〇一七年二月二十日 「言語都市」 ミエヴィルの『言語都市』268ページ目だけど、おもしろくない。よくこんな作品でローカス賞をとったなと思う。もってるミエヴィルはすべて売ろうと思う。1冊として残す価値のあるものはない。あと200ページほどある。読むけれど、できたら飛ばし読みがしたいけれど、飛ばし読みしたら、わからない作品だから精読してるけれど、苦痛だ。でも、もしかすると、読書で苦痛なのは、しじゅうかもしれない。好きな詩人の詩でも読んで、頭をやすめようかな。いや、きょうは、寝るまで、ミエヴィルの『言語都市』のつづきを読もう。かつて、ぼくのお気に入りの作家だったのだけれど、『クラーケン』がよかったからだけど、あれがピークかもしれないな。どだろ。 これがすてきでかったら、なにがすてきなのか、わからないじゃない? Maxwell - This Woman's Work https://youtu.be/gkeCNeHcmXY @YouTubeさんから 二〇一七年二月二十一日 「ウェルギリウスの死」 きょう、職場で、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を再読していたら、「現実とは愛のことなのだ」(だったかな)という言葉があって、あれ、これ、引用に使ったかなと心配になったのだけれど、怖くて確認できない。『全行引用詩・五部作』には使わないといけない引用だったと思われたのだった。怖い。正確な言葉を知りたいし、紐栞を挟んでおいたから、あした職場の図書館で、もう一度、確認しよう。部屋にもブロッホの『ウェルギリウスの死』があるんだけど、ページがわからないし、きょうは、もう遅いし、探すのは時間がかかりそうなので、あした職場で確認しよう。そういえば、きょうは詩人のオーデンの誕生日だったらしいんだけど、授業の空き時間には、イエイツの詩と、エリオットの詩と論考を読んでいた。オーデンは苦手なぼくやけど、部屋にもあるけど、一回、読んだだけだ。イエイツとエリオットの詩は、なんべん読んでもおもしろい。岩波文庫は、はやくパウンドの『詩章』を新倉俊一さんの訳で入れなさいよと思う。『ピサ詩篇』すばらしかったし、エリオットを入れたんだから、岩波文庫はパウンドの『詩章』を出す義務があると思う。 二〇一七年二月二十二日 「ウェルギリウスの死」 (…)おそらく窮極の現実を現わすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう……わたしは詩を作った、軽率なことばを……わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、じつはそれは美だった……詩は薄明から生じる……われわれが営み作りだす一切は薄明から生まれる……だが現実の告知の声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように……さらに深く、さらに高く、そう、さらに暗く、しかもさらに明るいのが真実なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、川村二郎訳、211ページ) ルキウスがいった。「真実ばかりが問題だとはいえまい。狂人でさえ真実を語る、あらわな真実を告げることができる……真実が力をもつためには、それは制御されねばならない、まさしく制御されてこそ、真実の均斉が生ずるのだ。詩人の狂気のことがよく語られる」━━ここで彼は、わが意を得たりといわんばかりにうなずいているプロティウスを見やった━━、「しかし詩人とは、みずからの狂気を制御し管理する力をそなえた人間のいいにほかならないのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、川村二郎訳、211ページ) 愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ。若い詩人たちはそのことを知っている、それだのにここにいるふたりは、死がすでにこの室内の、彼らのすぐわきにたたずんでいることさえ気づかない━━、彼らを呼びさましてそのような現実認識へみちびくことがまだ可能だろうか?(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、211頁) 「現実とは愛なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、川村二郎訳、204ページ) ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は………)』澁澤孝輔訳) 学校の授業の合間に読んだブロッホの『ウェルギリウスの死』はやはり絶品だった。どのページを開いても、脳裡に届く知性のきらめきが感じられる。プレネの入っている『現代詩集』もよかった。読んで楽しくて、知的になれる読書がいちばん、ぼくには最適なような気がする。だからSF小説を読むのかな。 ミエヴィルの『言語都市』あと100ページほど。苦痛だ。会話が極端に少ないのも、その理由のひとつだろう。 いま、Amazon で、1977年版のブロッホの『ウェルギリウスの死』を買った。もってるのは1966年度版で、漢字のルビが違っているので買い直した。 きょう、ツイートしたのは、1977年度版の訳で、学校の図書館にあるほうのものの訳。ぼくのもってる1966年度版だと、「制御」にルビが入っているのだ。翻訳者の川村二郎さんが、版をかえるときに、手を入れられたのだろうね、と思って、1977年度版を買った次第。無駄な出費かなあ。どだろ。 そいえば、この集英社の全集シリーズ、『現代詩集』って、1966年度版と1977年度版ではまったく別のものって感じで、文字の大きさから選ばれた詩までも違うからね。1977年度版のほうがはるかに優れているからね。買うなら、1977年度版のほうがいいよ。 歯をみがいて、クスリをのんで寝よう。今週中に、ミエヴィル読み終わって、来週には、これまた読んでる途中でほっぽりだしたイーガンの『白熱光』を読もうかなって思っている。めっちゃ読みにくい小説だった。 二〇一七年二月二十三日 「言語都市」 チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読み終わった。読む意義のある作品だと思うけれど、とにかく読むのが苦痛だった。イーガンの『白熱光』をきょうから読むけど(ちょこっとだけ、以前に読んだ)これも相当ひどい読書になりそうだ。スコルジーのように、わかりやすい作家もいるけどつまらないしね。 原曲より好きなんだよね。 D'angelo - Feel Like Makin' Love https://youtu.be/mcQ83tOZ4Wk @YouTubeさんから いま日知庵から帰ってきた。やっぱり、イーガンの『白熱光』さっぱり、わからない。そのうち、おもしろくなるのかな。その気配が希薄なんだけど、せっかく買った本だから読むつもりだ。ハーラン・エリスンの短篇集は読んでる途中で破り捨てたけれど。ひさびさに本を破いて捨てた経験だったけれど。もったいないという気持ちより、読んでて愚作であることに気がついて破いて捨てて正解だったという気持ちのほうが強い。本棚の未読本のうち、また破いて捨てるものがありませんようにと祈っておこう。きょうは、『白熱光』のつづきを読みながら寝る。おやすみ。 二〇一七年二月二十四日 「白熱光」 数学の仕事が順調に終わったので、神経科医院に行くことにする。担当医に、1月と2月は自殺願望が強烈だったので、その報告をしなければならない。記憶障害も起こしていた。極めて危険な状態であったが、今回もなんとか乗り切った。しかし、いま現在も精神状態は不安定なので、わからないけれど。 いま医院から帰ってきた。24人待ちで、こんな時間までかかったのだけれど、待ち時間が長いのを知っていたので、そのあいだ日知庵に行って、ジンジャーエールを2杯と焼き飯とイカの姿焼きを飲み食いしてた。イーガンの『白熱光』も読んでいたが、100ページを超えても、話の内容さっぱりわからず。 寝るまえの読書は、わかりやすいのがいいと思うので、ディックの短篇集にしようと思う。単行本で、『人間狩り』を持っているのだけれど、まだページを開けたこともなかった。文庫の短篇集で、まあ、たぶん、ほとんど収録されているものはすでに読んでると思うので手にしなかっただけだけど。しかし、チャイナ・ミエヴィルといい、グレッグ・イーガンといい、なんで、こんなに読みにくいものを書くんだろうか。ゲーテの『ファウスト』や、ブロッホの『ウェルギリウスの死』や、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、エリオットの『荒地』なんかのほうが、ぜえったい、百万倍、読むのがやさしい。まあ、そういう表現でしか見られないものがあると、感じられないものがあるということなんだろうけれど。そういえば、はじめてニュー・ウェーブやサイバー・パンクやスチーム・パンクを読んだときにも、読みにくいなって感じたな。そうか。そのうち、もっと読みにくい作家が出てくるかもしれないな。 二〇一七年二月二十五日 「福ちゃん」 いま日知庵から帰った。帰りに、Fくんの男っぽい姿をみて、あらためて好きになった。まあ、まえからずっと好きだったのだけれど。もしも、ぼくが若くてかわいい女だったらなあ。ぜったい放さない。 二〇一七年二月二十六日 「すぐに目が覚めた。」 1977年度版のブロッホの『ウェルギリウスの死』が郵便受けに届いてた。とてもいい状態だったのでうれしい。1966年度版は捨てます。おやすみ、グッジョブ。 いまトイレで、指を喉に突っ込んでゲロを吐いた。お酒好きなんだけど、弱いんだ。ああ、でも、ゲロも慣れてきたから、いいか。ぼくみたいにお酒に弱い詩人って、いままでいたのかなあ。指を喉に突っ込んではゲロを吐く詩人。ありゃ、またゲロしたくなった。トイレに入って、指を突っ込んできます。 クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! クスリのんだあと、吐くかなあ。どだろ。微妙。基本、ぼくののんでるクスリ、お酒だめなんだけどね。まあ、いいか。吐いても、あした、日曜日だし、休みだし。もう一回、指突っ込んで吐いてからクスリのもうかな。どうしよう。おやすみ、グッジョブ! すぐに目が覚めた。一時間くらいしか寝ていない。まだ目がしばしばしてるけど。 イーガンの『白熱光』読みにくさでは、ミエヴィルを上回る。150ページ読んでも、さっぱりわからない。ミエヴィルもイーガンも二度と買うことはないと思う。タバコ吸ったら、なんか短篇集でも本棚から物色して読もう。 体験とその体験がこころにもたらせたものが、最初に、ぼくに詩を書かせたのだと思っていた。じっさい、そうだったのだ。しかし、人間というものよりも、言葉のほうをより愛している自分がいることに気がついたとき、言葉こそが真の動機であったことに思い当たったのであった。言葉というものの存在が。 二〇一七年二月二十七日 「詩とはなにか。」 詩とはなにか。言葉だ。言葉以外のなにものでもない。 二〇一七年二月二十八日 「詩は」 詩はもっともよく真実に近づいたとき、もっともよく騙しているのだ。 二〇一七年二月二十九日 「生きるというのは」 他者に欺かれていたことを知るのは単なる屈辱でしかない。 生きるというのは、自分自身を欺きつづけることにほかならない。 二〇一七年二月三十日 「白熱光」 携帯に知らないひとからメールがきてるんだけど、ぼくの名前を間違えてるので返信しなかった。音楽仲間というか、バンド関係者と間違えてるふうを装っているところが巧妙だなと思うのだが、56歳のおっさんがそんな詐欺にひっかかるわけがないだろうと思うのだが。ガチでバカなやつらがおるんやな。 寝るまえの読書は、フランク・ハーバートの『神皇帝』第2巻のつづき。イーガンの『白熱光』は、152ページでとまった。 二〇一七年二月三十一日 「現代詩集」 集英社の世界文学全集の『現代詩集』を、きょうも読んでいたのだが、レベルが高い詩が多くて、なぜ、日本の詩にはよいものが少ないのか、情けない気持ちがする。たくさんよいものを書きつづけていたのは西脇順三郎か、吉増剛造くらいしかいない。吉岡 実も『薬玉』くらいしかよいものを書いていない。「僧侶」も、さいしょはおもしろいと思ったが、構造が単純すぎることに気がついてから、読み直したことがない。繰り返し読めるのは、『薬玉』くらいである。吉増剛造さんも、身ぶりにわざとらしさが出てくるようになってからは、まったくつまらなくなってしまったし。しかし、ところで、そうして、だから、日本の詩がおもしろくなければ、自分がおもしろいものを書けばいいのである。ということで、ぼくは書きつづけているのだなと思う。『全行引用詩・五部作・上下巻』など、ぼく以外のだれにも書けなかった作品集であったなと思う。 これから王将に行く。遅い時間には、日知庵に行く。きょうは、ゲロを吐かないように、お酒の量を調節したい。数日前は記憶が吹っ飛んでしまったからね。お酒の量がわからなくなるなんて、バカみたいだけど、バカだし、しようがない。ただいま現在、56歳、かしこくなる年齢はやってくるのでしょうか。
詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 565.1
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作成日時 2021-12-02
コメント日時 2021-12-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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