別枠表示
逃げたい
小さな目が開く。命の最後の灯、振り絞ることもなく、ふっと現れる。 排水溝の泥が逆流する。沈もうと試みる水と這い上がろうとする土とが混ざり混濁したそれは、道端に痰を吐く嫌悪感があった。片目だけを細めて嫌な表情をする。見ているだけで不愉快を全身に行き渡らせるには十分であった。 結局の所、私はいじめを見てしまったのである。 これはしまったと思った。いじめっ子にばれてしまった訳ではない。決して。しかしこれほどまでに嫌な気持にさせられてしまったのは彼の善意を受けてしまったからである。自分の酷さに目を当てなければいけなかったからである。 彼と目が合ったのだ。みんなと追いかけっこをして遊んでいたとき、たまたま角を右に曲がろうとすると目が合った。そのままもう一歩足が出ていたならば変わった結末を迎えることが出来ただろうが、咄嗟に引っ込んだ腰はそれを拒否したのである。いじめと知りながら、それを止めることはせず、息を潜め、静かに踵を返した。必死になって。 見なかった事にするしかなかった。存在しているのにそれを無視し、存在を抹消するしかなかったのだ。そうでもしなければ自分が酷い目に遭うと分かっているのだから、そうするのは当然のことである。楽しい学校が悲惨な学校に変わってしまうのは、それを無視する言い訳として完全にその要件を満たしている。可哀想であるが彼にはその役割を担い続けてもらうことにした。私は強い人間ではない。そう思うと気が楽になった。上には上がいるように下には下が確実に存在しているのだ。それは江戸時代からあるのだ。この間の歴史で学んだことであり、その風習が今もまだ風化せずに残っているだけなのだと思うことにする。歴史を変えるような行動はもっと凄い人がすれば良いことだと。胸の中心がざわざわするのを押さえ込むように頭がよく回った。 家に帰ってももやもやは続いた。行為としての無視をすることは容易ではないにせよ出来ない事ではなかった。けれど思考としての無視は未だ出来ずにいた。鮮明にあの目を思い出し続けている。何度も何度も。痛いほどに。本当に痛い思いを、刺激を受けているのは彼だけれど。勝手に私は感じていた。その痛みを感じていられたことを良いことだと、浮かれている部分があることに、ひどい恐怖を抱かずにはいられなかったけれど。あのいじめっ子よりは私は痛みが分かる、だから良い子なのだと自己を認めた。自分で作った鎮痛剤を自分で打っていた。その行為の危険性に気が付いていないでいるのが、最もこの時点で恐れるべきことではあるのだけれど。それを理解するにはおよそ必要な感情が欠けていた。あくまでも動物的に逃げることばかりを考えていた。同情する振りをして。卑劣な行為であった。目を当てるべき行為であった。それでも、あの目から逃げるためにはそのようにするしかなかった。 次の日、教室の空気はいつもと変わらないでいる。変わったのは自分の色眼鏡だけだろう。 その日の私と言えば、いつも通りに授業を受け、いつも通りにみんなと追いかけっこをした。そしていつも通りに家に帰ったのだった。それに後悔は一切なかった。
逃げたい ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 662.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2021-12-01
コメント日時 2021-12-01
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文