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僕らがまだ冷たい壁に耳を当てているとき 透明にまみれた罪は背骨を渡って名残の秋を惜しんでいた 僕らがまだやわらかな素足を浮かせているとき 知らない僕らはまた誰かの耳をかじっていた 黄昏というエリクテュールが喉元を通過して ほのかに色づいた血液の落葉が音を立てる時 僕らは僕らの髄液から僕らを解き放つ それは眩しかった目の先をゆく蝶のようで それは結んだ手のひらから零れる砂のようで 僕らが僕らと銘打たれた僕らを計測するゆらぎのようで 神話の日常に満たされる水 乾いたくちびるを潤す作用によって ReとReのやりとりの隙間を埋めていく 僕らが僕らと呼ばれた時代の歌声が聞こえてきて 消費されるべきクリシェ 午睡をまたぎ越す福音のようで 高速に過ぎゆくそれらは偽りではないかと 歯型をつけながら彷徨する 観測して初めて存在するという僕らの存在を 感触なしに確かめるように 言葉は僕らを傷つけ 僕らは言葉を傷つけ 無音というのに絶えずつき纏う理と利とその差分を そんな御大層なものと笑い飛ばした僕らは再び耳をつける 僕らの祝祭は僕ら自身のうたごえによってもたらされる 簡単に消費されていく快楽の俎上 失われる前に あるいは舞い落ちるように 重力に骨を委ねる 僕らは常にあるという動詞によってささえられ いやおうなしに訪れる冴えていく時間 どうしても伝えておきたかったことがあるんだ そうして僕はゆっくりと濁りはじめる
be ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 856.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-10-17
コメント日時 2017-11-02
項目 | 全期間(2024/10/31現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
yさんへ
0不思議な作品ですね。僕ら、と連呼しているのに、なぜか気配が漂っている感覚で、一人の人間の身体の各部がせめぎ合っているようなテクスチャーでした。 意図的に用いているのだと思いますが、あまりにも美しすぎるフレーズや(黄昏というエリクテュールが喉元を通過して、など・・・エクリテュール?)綺麗に決まっているフレーズ(僕らが僕らと呼ばれた時代の歌声が聞こえてきて/消費されるべきクリシェ)情景描写や、詩の空間が生み出す抒情ということよりも、文体そのものが生み出す抒情性に傾いてしまわないか、そんな危惧を持ちました。 〈背骨を渡って名残の秋を惜しんでいた〉ところから、〈黄昏〉を経て〈血液の落葉〉のざわめきへと体感が移り、〈僕らは僕らの髄液から僕らを解き放つ〉ここまで、観念的ともいえる世界を、粘り強く秋のイメージの中で捉え直し、なおかつ背骨、神経、髄液といった精神の集中する場所へと意識を集めて、ひといきに開放する。この流れがとても美しいと思いました。 神とか世界、といった言葉は、扱いがとても難しいと言われますが、〈神話の日常に満たされる水〉このフレーズの「神話」も、神話という言葉が醸し出すイメージというのかニュアンスのようなものに、寄り過ぎているかもしれない、そんな甘さを作品に加えてしまうかもしれない、という気がします。 〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行が、とても繊細だと思いました。ネット空間でのやりとり、その「現実感」がありながら、非現実の手ごたえの曖昧さも同時に持っている。そんな浮遊感を、丁寧に埋めていこうとする意識、願いのようなものを感じます。 この一行を経ているせいか、〈高速に過ぎゆくそれらは偽りではないかと/歯型をつけながら彷徨する〉このあたり、詩の空間を彷徨うイメージと共に、いわゆるサイバー空間で、確かなものを求めながら彷徨い歩くイメージが伝わってくるような気がしました。 〈観測して初めて存在するという僕らの存在を 感触なしに確かめるように 言葉は僕らを傷つけ 僕らは言葉を傷つけ〉 このあたりも、とても面白いですね。観測不能性を持った存在、ではない。気づくことで、そこにある、ことを知る、気配、音、響き、詩情といった曖昧なもの・・・が、言葉になっていく、あるいは言葉を纏おうとするときのズレのようなもの。 〈僕らの祝祭は僕ら自身のうたごえによってもたらされる〉 体の深部で沸き起こり、身体的な悦楽のように背筋を抜けて、血を沸き立たせるもの。そうして、消えていくもの・・・。そうした、一人の人間の内部で沸き起こる、詩情の出現と消滅のドラマのようなもの、それが音や響きを経て、言葉へと形を成しては消えていく経過・・・が、〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行によって、一人の身体感覚を越えて、サイバー空間にまで感覚が拡張される。 感覚領域が拡大されていく、拡散していく、と言えばいいのか・・・うまく言葉に出来ないのですが。そんな、ひとり、の枠組みを超えて行き交う「僕ら」とはなにものなのか。そんなことを、体感的に感じさせ、考えさせる作品だと思いました。
0もなかさん 初めに、僕のようなものに宛てて詩を掲載していただき、ありがとうございます。返信が遅くなってしまって申し訳ないのですが、その間に、この詩を幾度か反芻し、僕なり色々と思うものがあり(どのくらい妥当なことを言えているか自信がないですが)、そうしたものを書き込ませていただこうと思います。 何ぶん、個人的な書き方になってしまいそうですが失礼します。 実を言うと、初めに僕はこの詩をあまりわかることができませんでした。イメージや、感覚がとめどなく広がっていき、読者として置いていかれたように思ってしまいました。 けれど、この詩について、また憚りながら、この詩をもなかさんが掲載されるきっかけになった僕の詩について、様々に考え、考え、読み直すと、少しずつ、この詩が近くなったように感じられました。 「僕らは常にあるという動詞によってささえられ いやおうなしに訪れる冴えていく時間 どうしても伝えておきたかったことがあるんだ そうして僕はゆっくりと濁りはじめる」 僕はこの末尾の部分こそが、この詩の軸である、と考えました。 「常にある」、ということ、「いやおうなしに訪れる」時間、こういう、自分の意思とは関係なしに、そこに何かがあってしまう、という感覚。その中で、「どうしても伝えておきたかったことがあるんだ」という、「僕」の願い。ここから見返すと、この詩全体が、両義的に、「いやおうなし」に降ってくる感覚と、そのなかで、そうしたものに支えられながらも、自ら言葉を伝えようとする、という二つの要素を帯びているように思えます。すでにあってしまっている、という「透明な罪」、それらを確かに感じていようとして、「耳を当てる」こと。それは同時に、自らの感覚から自らを解放していくことでもあり、「観測して初めて存在する僕らの存在を/感触なしに確かめるよう」な、どこまでも不可能な、そうして、どこまでも自由で可能性を秘めた試みでもあります。 そのような、危うい葛藤を、「僕ら」はどこか優しげに身体に落とし込んでいく。「それは結んだ手のひらから零れる砂のようで」。「僕ら」はそうした身体性のうちで、互い、あるいは「僕ら」という一つの主体を確かめようとしているのでしょうか。けれど、最後に、「僕はゆっくりと濁りはじめる」。濁りはじめる時に、「僕」は、もう「僕ら」ではないのですね。この最後の行があるために、この詩全体が「僕ら」には気付きえなかったものを「僕」が「僕ら」(あるいはそれを構成するもう一人の存在)に伝えていく、というニュアンスを帯びるのだと思います。「僕ら」の時間が、「いやおうなく」過ぎていった中で。 もなかさんの詩を読んで、世界とか、すでにあってしまっているもの、自分自身、そうしたもののなかで、それを切り刻むことなく、けれどそれらを組み替えながら、詩を書けていけたらいいな、と僕は考えました。 長くなってしまいますが、ここで、僕の詩にもなかさんがくださったコメントへの返信も兼ねさせていただきたいと思います。(こちらも個人的な書きぶりになってしまいそうです) 僕はあの詩を書いた時、なるべく単純に、自らの周辺を見ようとしていたのですね。なんといいましょうか、理知的に、世界を切っていくような、あるいは、認識を疑ってかかるような姿勢、というものを、詩のなかで持ちようがない、あるいは、持たないことが一番自然に思えたのです。もちろん、どこかに戦略性のようなもの、突き詰める胆力のようなものがないと、詩はちゃんとした詩にならないのかもしれません。けれど、そういったものの根幹には、やはり、ある種切り取ることができない、核のような何かがあるのではないか、僕はそう思って、いや、むしろ、そうありたいと思って、あの詩を書きました。結果として僕自身も、この詩、このイメージや主題には、もっと手をかけてあげることができた、という風に思います。けれど、もなかさんがおっしゃったように、この詩にある種の純粋さ、幼さが見出せるのだとしたら、僕は本当に良かった、と思います、素直に。 もなかさんのこの「be」は、僕の目には、また違った形で、そうした核のようなものを見せているのではないか、と僕は思いました。勝手ながら、書き手の、なぜ書くのか、というものの根っこのようなものを感じました。(人と人との関わりや、言葉を言う事、という主題としても、確かに似ているところがあるように思います)僕のこうした幼い作を見て、自らの大切な詩を送ってくださり、感謝しかありません。 ありがとうございます。長文乱文失礼しました。
0もなかさん、ご返信ありがとうございます。 >「文体そのものが生み出す叙情性」に関してわたしは肯定的な観点を持っています。 (まりもさんが危惧されているのは、様式然とした陳腐化による内容の消滅なのではないかと思われますが、齟齬がありましたら申し訳ありません。) まさしく、その通りですね。語り口そのものが奏でる情動、色彩感や質感のようなもの、言葉にできない、その部分を楽しむのもまた、詩歌であろう、と思い・・・おそらく、翻訳で伝える時に、もっとも苦労するのが、その部分であろう、とも思い・・・またいずれ、ゆっくりお話しできたら嬉しいです。とりいそぎ、御礼まで。
0もなかさん 返信の返信になってしまいますが、一言だけ。 作品をお読みくださったようで、非常に嬉しいです。 こちらこそ、もなかさんの詩の読者として、楽しませていただければと思っています。 ありがとうございました。
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