烏が一匹旅をしている。西へ行ったり、東へ行ったり、北へ進むと思えばまた西へ。
列島を縦横無尽に羽ばたく――。
とある夏の日、烏はひとつのビルへ降り立った。
「都会というのは食うには困らんが、全くやかましいことだ」
眼下の人間世界を見下げて、ガァーとひとつ鳴いてみた。鳴き声はすぐ夏の蝉時雨にかき消された。
陽炎立つ屋上をキョロリと振り返ると、一人の女が座っていた。
「なんぞ食べ物でも持っとるかな」
ヒョコヒョコ女に寄ってみたがそれらしいものはない。
やれやれと覗いてみた女のその顔は、死相に満ちている。
「おやおや。お前は死にたくて仕方がないのか」
せっかく烏のような髪を持っているのに。
さっさと飛び立ちかけた瞬間、
「……わかるの?」
ボソッと女が呟いた。
おや?
「……今、この烏に話しかけたのかい?」
バサバサと翼を広げる烏を見据え、そうですよ。アナタに言ったんですと言う瞳は死相で濁っている。
「……なんで私が死のうとしてるってわかるの?」
珍しいこともあるもんだ。
「はてね、分かるものは分かるとしか言えんな」
「……」
「物のついでに聞くがね、なんぞ食べ物でも持っとるかな」
「……えぇ、ありますよ」
女はブリーフケースに入れていた菓子パンを取り出し、
「……どうぞ」
袋を裂いてからそっと足元に置いた。
「……アナタ達は本当になんでも食べますよね。……人間さえも」
「そうさね。お前たちは、不吉だとか、神の使いだと騒いでたことも、あったな」
パンをついばむ烏を見つめながら女は尋ねた。
「……烏さん、人間食べたこと……、ある?」
忙しなく貪りながら、烏は答える。
「あるぞ。今時死んだ人間は、ついぞ見かけんが、昔は、よく転がっておったから、な」
濁る瞳に驚きを宿して、女はまた尋ねた。
「……アナタは何歳なの?」
「知らんな。ただ食って寝ておったのが、いつからか、モノを、考えるようになったわい」
烏は飢饉が当たり前の時代に生まれ、動乱の時代に自我を得た。
女は、この烏は神に似た存在だと感じこう願い出る。
「烏さん、……私が死んだら、食べてくれる?」
顔を上げクイックイッと首を捻り、
「腹が減っておればな」
と答えた。そんな情の欠片もないさらっとした返事に、女はハハッと笑った。
「そういうの好き……」
乾いた笑いに、ため息が混じった。
「アナタ……、話し相手はいるの?」
動きっぱなしで、しっかり話を聞いているのか疑わしかった烏の体が止まった。
都会の騒音が響く。
「……」
「寂しくない?」
ヘリコプターが空を飛ぶ。
「……」
蝉時雨が屋上へ届く。
「人間はね……、寂しい気持ちが行き過ぎると、死にたくなっちゃうのよ。でもアナタは生きている」
身を屈めて足元の烏へ問う。
「……でも、寂しくないの?」
クイックイッ。
空を見上げたその仕草に、女は自分の問いかけが振り払われたように感じた。
「寂しいというのが分からんな。食って寝るだけよ」
「……そう」
ヒョコヒョコ屋上を歩き始める烏を、女は目で追っていたのだ。
夏の陽射しに照らされて、彼女の髪が輝いた。
――黒く艷やかな女の髪を、濡烏と昔の人は呼んだ。
巨大な入道雲を仰ぎ、烏は振り返った。
「お前は……」
女はいなかった。
屋上に立つのは陽炎ばかり。
遠くから悲鳴があがった。
しゅしゅっと身を震わせ、烏は羽ばたいていった。
とある明け方のこと。色づくイチョウ並木をジョギングする男は、ふと車道に目が向く。
「あら、烏が轢かれてる。へぇ〜、珍しいこともあるもんだ」
作品データ
コメント数 : 0
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作成日時 2021-07-22
コメント日時 2021-07-22
#縦書き
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可読性 | 0 | 0 |
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技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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2024/11/21 22時58分07秒現在
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