家にて灰、小さく髄液の稲妻、ゴミのたたなめて我をい責めし庵、風雅なり
世の錆びて文字ばかりに、臓腑より転々と語られし星々の、しゃべれば騙り詩言葉破棄
天、点々、結びて線、遥か高みにて歌い、夜に徘徊、敗壊歌唱野郎、花椒香る中華飯店の、厨房より流れたるたれ点々
中心点より人体、丸く描いてウィトルウィウス、の如きそう建築の如き、円の接点より花
九重に匂うは八重桜、ひとつひとつ、モスクワの小さな教会にて大願を、お前の
憐憫だ、これは
転がる球体の中心には心臓より水銀の流々、四肢スポーク、回転、中央快速アキレウス間に合わない、鉄の身体、燃える腱
煙、そう排気口より漏漏と夏、気体に望郷、草萌えても部屋、さして黴
歌がお前の勝負パンツか
ならそれだけ履いて色
クルス・ヌクス、ルクス――光源より反射して色の夜を虹虹オーロラだ、星の被服オートクチュールコレクション
浜辺で聴いた池袋のような音、ぼうぼうと、不注意の白玉、出られない地下迷宮、歩いているのが、中国人か日本人かもわからない、それは関係ない、ぼうぼうと風俗店を見学、あの花椒香る店の場所は忘れて、漂流した
起きて灰、寝て火種、高天原でべそなり、寝ては起き、起きては立ちぬ、蛹の夢、渓谷跳んで北千住、荒川に裸夫、走走魂魄大洪水治水、影は明るし
茶、甘く飲して上、首里より石組みの壁伝いて那覇、太陽、汗より牛、幸福の樹は高く高く、貝殻売ってます
クルス・ヌクス・ルクス――食材なりし胡桃餅、神性破殻して蟹の如く漏漏、さは鍋なり
詩がお前の勝負パンツか
ならそれだけ履いて色
脳は譜、代入して商品、レジにて撃ち死、蟲、レンジにて蒸し死、一点二点と花弁も散、死に蟲生き猿デザートケースの黴
山だった
深、樹より土、聴き記、禁忌、土より川、谷にて流々、生、怯えて殻、臭気頽廃して森、歩いて林
庵なり
止めても裸、絃の切れた、ハリーパーチよろしく楽器の、彫刻流れて去来の、ブランコが眩暈、さはリュトモス
語りは灰、終われば糸も水、ぬばたまの尽きし言の葉の種、終止音
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 1187.4
お気に入り数: 0
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作成日時 2021-07-13
コメント日時 2021-07-29
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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可読性 | 0 | 0 |
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音韻 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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音韻 | 0 | 0 |
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閲覧指数:1187.4
2024/11/21 22時49分44秒現在
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漢語の多い硬派な雰囲気の中に、西洋美術的イメージが混ざったかと思えば関東圏に行ったり沖縄に行ったり、次々と切り替わる文章の効果を楽しく試せる作だと感じました。参考になります。 ただ詳しく読んでみると、それぞれの漢語が意外と日常的で(あるいは私にとって情報過多だっただけなのか)、イメージの広がりの面でやや物足りなさを感じたように思います。 また、場面切り替えの効果も限定的だったような気がしました。隣り合う連が「取り合わせ」になりきれてないというか、相乗効果がもう少し欲しいというか。 一つの連のなかでもう少しイメージの飛躍や広がりが増えたら、その余波で隣の連との響き合いも増してくれたりしないかな、なんて想像をしました。
1この詩を読んでの私の感想です。 ふざけていながら上品で良いと思いました。 ふざけている、というのは何らかの仕掛けが施されている(ように見える)文章で、読む者がその仕掛けを見破れぬとふざけているように見えるのではないかと思います。興味深かった(読んでいて楽しかった)のでコメントいたしました。
1コメントありがとうございます。 用いている漢語が日常的、というよりはむしろ日常的なありふれたことと非日常的なある種の聖性との重なりというか、ありふれたことが漢語によってよくわからん気味の悪いものにならんかな、と思って書いたものでした。 連と連の繋がりは、以前は意識していたのですが、やりすぎて物語っぽくなりがちだったので最近は意識的にやめてます。霧の中を歩いていて、不意に何かに突き当たるような詩を狙っているところです。
1コメントありがとうございます。 「ふざける」と言ってもいいのかもしれませんが、筆者の意識としては「遊んでいる」という方が近い印象です。 ホイジンガが指摘するように「遊び」の中には謎掛け、すなわち「首をかけた問い」が含まれます。これは詩的な営みと言えるでしょう。 あるいはジャック・アンリオを参照してもいいかもしれません。現と夢との空隙と言いますか、ある種の「間」を往来することを「遊び」だとするならば、これは筆者と読者の間を往来しつつ、どちらにもとどまらない――浮遊する幽霊のような詩なのかもしれません。 いずれにせよ、言葉がメディア(媒介=幽霊)である以上、筆者と読者の間には相互に不可知の空隙があり、そこを浮遊するような運動を「巫山戯(ふざけ)ている」と呼ぶか「遊んでいる」と呼ぶかの違いなのでしょう。
0返信ありがとうございます 首をかけた問いと言いますとスフィンクスのなぞなぞみたいなあれでしょうか。解けないと異界に連れていかれたりして死んでしまうのですね。あと夏目漱石の夢十夜にもそういう話があった気がします。 遊んでいるの方が適切かと思いました。ふざけるのにはゴールがなく、遊びにはゴールがあるということかとも思いましたが、何れにせよ私はふざけるという言葉を極めてポジティブな意味で使いました。ありがとうございました。
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