別枠表示
潮音
そうしてクジラが一頭 浜辺に打ち上げられる そのたびに 陸地は、 身を震わせ 大つぶのなみだを流した わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで 頭からスッポリとくるまれていた。 錆びついたチョーク線を 黒くどろどろとした黒板から 拾い上げては、 言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。 言葉はとてもうれしそうで、 (恥ずかしそうで) わたしは 小さな紙切れにくるんで、 手から手へと 席から席へと 連れ出して 言葉をあやした。 (遠くで泣いてるのは誰?) 流れる小さな紙切れとなって わたしたちの手の中で 言葉は ほんの少しだけ心を許して、 はじめて歯を見せて笑って、 そうして 気ままな波乗りを楽しんでいた。 流れる溶接面は それから わたしたちのカラダを固くして 窓辺に立つ、 わたしの不様なスガタを嘲笑っていた。 雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り そうしてクジラがまた一頭 浜辺に打ち上げられる そのたびに 陸地は、 身を震わせ 大つぶのなみだを流した
潮音 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 977.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-09-30
コメント日時 2017-10-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
くじらが打ち上げられる。壮大な風景と共に、どこか神話的な世界が引き寄せられるような気がします。陸地が身を震わせる、という比喩が、すぐ続いて語られるから、であり・・・最終連で、またその「語り」がくりかえされるから、でもありましょう。 二連目で、〈わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで〉といきなり転換するわけですが・・・なぜかここで、授業中の子供の姿がイメージに浮びました。 国語の授業で、「くじらぐも」、という不思議な作品がありました。7歳から8歳くらいの子供達が学ぶ教材であった、と思いますが・・・ 〈言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。〉独特の感性。文字と文字が接続する。そこに、意味が立ち上がる。その質感に違和感を覚えたり、通常の意味ではない意味で捉えてしまったり(私は、たとえば咽喉から手が出る、と聞くと、実際にぬめぬめと濡れた白い腕が、喉から伸びて来る姿を思い描いてしまいます・・・こどもの頃は、それで息が苦しくなったりしました)そんな、異常なほどに「言葉」の喚起する「意味」に敏感な子供の心理を、大人になった「今」の時点で振り返っているような、そんな感覚の作品だと思いました。 〈言葉はとてもうれしそうで、〉この連から先、覚えたばかりの言葉が嬉しくて仕方がない、そんな気持ちで「手紙」を回しているような、そんな感覚もありますね。 〈雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り〉このあたりは、授業中の「くじらぐも」の夢想と、現実の風景が重なっているような感覚もありました。 意味の飛躍を意図的に大きく取っている感もあり、解釈が難しい作品でもあるような気がしますが、意欲的な作品だと思います。
0おはようございます。 金子みすずの郷里には、鯨を供養する墓や行事がのこっていることを思い出しました。 わたしたち日本人は、というか クジラで有名な場所で生まれた私は、鯨を食べてきました。 わたしは 実は くじらのお肉が好きです。 しかし、こんな私でも くじらのなみだに 思いを馳せる人を、わたしは うつくしいと思います。 他国のほかの食文化の方は「くじらにも知恵があるのに なぜ食うのだ?」お怒りのケースもあるのですが、食べるときにも 人には 心がある。浜で うちあげられた くじらを思う人の情感を思うことができる。 くじらのなみだを思う うつくしい人が ほかにもきっと大勢いらっしゃる気がして、うれしくなりました。 思い遣る能力 心の うつくしさを 感じました。
0また、【言葉の溶接面】という発想から、わたしと同郷の方のような気がします。 わたしは海辺の造船業と鯨文化の発達した場所で 生まれました。 言葉の溶接面という言葉が好きです。鉄は あついうちでないと 溶接できないし、 この詩も 作者の情熱のようなものがあるうちに 書かれた詩であると感じたからです。
0