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Sept Papillons
Αντιόχεια、 Αρκαδίαへの旅路、埋もれてゆく わたしたちの肉体を捜す、灰いろに翳った 叢雲のしたに葡萄の樹を植える 鼬のやわらかな毛皮を抱いて河をわたり そののち、崩れた墓標をみつけ ひと房の髪のたばをそなえ 静寂を装う蝶、ではなく……/おもえばいつから冬の睡りに憧れつづけてきたのだろうか、たとえば沸騰する水の、鍋や薬罐のそこからたちのぼる気泡のなかで、つかのまの、偽りの生を購おうと捥がいていた遠い日々、とすると、いかにも安易な夢想だろうか、舞いあがる硝子屑が気管を傷めつけ、水蛇の首が生えだす、水菜のそよぎ、それでは単調にすぎる、と、湿った襞に舌をはわせ、とも書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景の、夕陽に照らされた山なみが一瞬ののちに黯く沈んでいき、時計の針が震えるたびに霙や雪が降ってくる、舟唄が聴こえてきそうだ、荒れはてた田野にたち籠める水銀燈の、あるいは誘蛾燈の、さめざめとした蒼い靄にまぎれて、冬眠する虫たちの、氷結した池の底で眼球を濁らせる鯉や鮒の、声にならない声が顫動している、遙か昔に湧きだしたのらしい熔岩が、冷えてかたまってできたのだという奇巖が、あちらこちらにたっている地形を、声はさまよう、いや、聴こえるはずもない通信衛星からの遭難信号に、鯨たちはいっせいに頭を擡げる 蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、で……/雪のうえにおかれた右耳に、硝子細工のように精緻で、やわらかな膚ざわりの音が訪ねてくる、まるで花器へと墜ちていった雨燕の、あわい白墨のような匂いに惑わされたかのように、さながら、口吻をのばしきった星蜂雀や蝦殻天蛾の肥った胴が、斬り棄てられた拇のようにさわさわとなりつづけているからか、泡をふき、竹箒に誘われて、苦い茎にうちつけられた海流の霊魂は、植物学のヴォカリーズを聴いている、聴いていない、逆さまにかけられた肖像画には夜の成層圏に響きわたるトロンボーンの表皮が、薄いいちまいの大きな痣のような布地になってただよっているのが描かれている、ヴィシュヌの横貌が透けて見えてくるが、裸子植物らの扇のようにひらいた葉に幾重にも隠されてしまっているので、ここからは蒼じろい光の翳となって角膜にはりついているのみである、とはいえここには空白を満たすだけの絹織もなく、縹渺と樹氷が延びひろがっていくだけなので、湿り気をおびた繊細な榠樝のはなびらの端から漏れてくる一滴の溲に溶けていく ものおもう壁に塗りこめられた蝶……/トラペジウム、方角を探りあてようとする指がきらめく鈴鏡をいじくっている、なにか、鶲乞いでもするような、抽象的な教会へと鰓の名残りの紫陽花をひらかせるものの禮拝する姿が、半透明な鶏冠のある鳴囊に鎖されている、夢の腹腔に鳥たちの残骸をつめ、アコーディオンの繊くながい頸の森に惑う伝書鳩の群れをひきずって歩く、フェルドマンの眼鏡と識って、盲の修道女などが駈けよってくる鎮痛剤はひそめいて、ときどきあなたがたが去勢するのを忘れてしまう羽蟻の城に迷いこみ、地平線に擬態した二匹のカメレオンの粘ついた舌にからめとられてしまっている、粉砂糖味の海の斜めうえをユング風の飛行船が揺蕩うのにまかせて若鷺のまぼろしの翼を捥ぐのも愉しい、飽和する獣の蛹もぶらさがり、埋められた蓮池に波紋がひろがるとしたら、漂着した空壜に白孔雀の片脚が刺さっているからだろうか、煮え湯に観念的な村落の風景が浮かびあがり、さびれた気象台に寝相の悪い観賞魚の瘦せた猩紅熱から枯れかかった瞽女が生え揃って、それを虁牛と白す 痛みに翅を顫わせる蝶、または……/裏木戸にははや糸瓜の蔓が巻きついて、黄いろい花をいくつもしがみつかせている、糸がほどけて崩れた古い本に挿まれてあった栞がわりの柊の葉に卵を産みつけたのは電話がなりつづけていたので、流星痕がほのじろい象牙質の霧笛を響かせながら、エナメル質の冷たい半月を薄衣で覆い隠すものもあれば、傍目にも陶磁器の花瓶などには季節のうつりかわりを縫いつけてあるのが見えもする、鯖雲だとか、羊雲だとか、刷毛でやわらかくおかれていったような芍薬の花の重たげなそぶりもどこか睡そうに映り、だれも裸足では沼地にはいかないし、食虫植物の鉢植が籐を編んだ麒麟か羚羊のおきものわきにひっそりとある、それらのくちびるが赤かったのか、それとも黒かったのか、薄緑いろに淡く発光していたのかどうかといったことはことのほか重要ではなかったが、ようするにアルビノ個体のまっしろな鴉の濃い桃いろに赫くふうにも見える眼をふちどる蠍のきらめきに、夜ごと失明しつつパラフィンの湖に寝転がっていたことをもいまさらかき消そうと躍起になる 黝い蝶のかたちをした痣、それから……/冷ました湯のなかでゆっくりと葉をひろげていく、ほとんど黒にちかい緑いろの瞼はアルフォンソのもの、霜にふちどられた裸の肺にひとつずつカドミウムの結晶をつめていく、大量の蘯けた海雀がおさめられた海豹の脹れた幼獣に鋸をいれ、アンモナイトの殻を掘りかえそうとしている、それは空井戸だろうか、いずれ乾燥するだろう湿地帯に朱い嘴をつきたてた浄瑠璃を歩かせている寡婦と、握りしめられたひとつの書物と叫び、または偽名を剝がし終えることもなく、書かれそうでも書かれなさそうでもない、ある曜日と曜日のあいだに沈みこんだ臓器の輪郭にだけ、踏み潰されて凍える果肉から漏れでた、日録に疵をあたえる注射針のような痰を、貯水池の畔に建つ惑星にはだれも、黄金の、そうでなければ紫いろの仮面をかぶった女が、ひとりでに鳴りはじめ、響きわたり、そしてやんでしまうらしい鼓動の、薄い皮の表面を流れおちようとする幻燈機から抛げやられた、破れた肉声、倒れる欅、崖のしたからひきあげられた頭のない強盗犯、鉄塔はあとじさり 桃の果汁に濡れる蝶、最後に……/溺れる午に異教徒が唱えるものの名を写しとったくちからは、電報にも記されてはいない亡命者たちの頭髪と虹彩のいろとがカタログからきりとられ、そのひとたちにとっての事件や楽園はバターナイフによって攪拌されてしまっている、泡だっていく脂の艶やかな瞬間にそって黒酸塊を養い、矮小な瞑想を、つまりはゆるやかな階段に付随する機関についてのやわらかで未発達な海綿体に、空虚で粗暴な知識のみによって醱酵させた骨組織を移植する不毛な手つきを難詰し、草原を駈ける謎にも視線をかぶせようとしている、たとえば瘤牛や驢馬の朽ちて砂に埋もれかかった屍骸をまたぎ、枯れ草の繁みに棄ておかれた乳呑み児にスクリーンをかけ、くりかえし放たれつづける映像のむこうからポンパドゥールの毛髪が彼らの襞の隙間から防波堤だけが延びていて、刺青を施された夢に乗りこんで、砂嘴の先端からインキを垂らしたように浮かぶいくつもの島まで、分裂していく文字を頼ってふたたびの冬眠に備える、そのどれもが裏がえされるたびにひき攣るのに堪えながら さらに涙滴のなかに隠された蝶……/消去されれば稗をまき、銀蜻蜓の光合成をうながすひとびと、たてかけられた葭簀の蔭に沈んだ北極星の肉筆にも咬みついて、硼砂の隠滅をこころみる、湿ったままの木綿の襁褓のうえでふやかされていく解剖学者の唾液のなかを泳ぐサラバンドであれば、軒さきに吊るされた脳下垂体を模写する余暇も滲ませられるだろう、どれも海鞘の殻のそとへと流れていくオパールをまねてひき離されていく、炭素繊維の樹に咲く誰のものかもわからない花、乳房でできたチェロを弾くひとの影をつまんではカンパノロジーとも讃えられ、水琴窟へと鯱の仔を探しにいく旅をへて、レポン、もしくはレゴンは幾許かの渇きにも耐え、魚卵の簇がりはポインセチアの根元から蘇り、埴破と筏葛のうわすべりに爆ぜ、半地下からのぞいて見える巨頭の窓には梵字らしき翳りもあって、無花果に曇り、波羅蜜にはしゃいで遽からしくふるまう、雛罌粟を茹で、和薄荷をあまやかし、水黽臭のする空中庭園に鵟や薑をおろし、やがて雩や旱に竽をふくひとの鼓に紐を通せば柿渋いろの夜景めぐり
Sept Papillons ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1335.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 36
作成日時 2017-09-27
コメント日時 2017-10-13
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 5 | 5 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 12 | 12 |
音韻 | 9 | 9 |
構成 | 5 | 5 |
総合ポイント | 36 | 36 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 5 | 5 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 12 | 12 |
音韻 | 9 | 9 |
構成 | 5 | 5 |
総合 | 36 | 36 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
風景として文体を見た時にとてもどれもが煌びやかで美しいと思いました。熟読したいです。
0二面性、ペルソナ的なものを読んで思った。一言感想をコメントとするのは本作のボリュームからすれば、失敬ではあるけれども、巨大な映像を前に言葉が出ない感じだ。
0批評ではなく感想で申し訳ないのですが、思い出したのは、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』の刊行記念イベントに訪れた時のことでした。出版社がエッセイ集、と帯文を付けようとしたのに対して、伊藤さんが、これは絶対に「詩」なのだ、と。そして、朗読するのを聞いた時、たしかにこれは詩なのだ、と実感したのでした。なぜ、ということが、未だにうまく説明できないのですが、内的な律動に添った、うねりのようなものが、詩文に現れていた、それが声にのって、こちらにまで届いた、そういうことだったのだろうと思います。 そのとき、伊藤さんが熟読していたのが「お経」でした。法華経、般若心経、その他・・・。 イヌって、一度死んだら、生き返りませんよね、と聴衆を笑わせつつ・・・木や草は違う。死んだ、と思っても、また生き返る、その不思議に惹かれている、そんなところから、命の巡りについての話に展開していったことを、鮮やかに覚えています。 なぜ、蝶ではなく、バタフライでもなく、パピヨンなのか・・・語感の持つ質感に加えて、その言葉が背後に負うイメージ、歴史性といったものからも選択されているようにも思います。続いて響く、ギリシア語の語感。その背後(借景)のようなものが捉え難い、そんなもどかしさと、明るい霧の中に迷い込むような心地よさを感じます。魂と結びつけるのはあまりにも短絡かもしれませんが、クリシェであるということを越えて、ひらひらと「中有」をさまようもののイメージ、音感、そして冒頭の立ち上がりが(いささか強引に立ち上げる)魂の遍歴、いのちのオデュッセイア、のような予感。 一連目、〈冬の睡り〉、永遠の眠り、あるいは平安を欲する魂と、〈水蛇の首〉〈水菜のそよぎ〉〈湿った襞に舌をはわせ〉・・・と言葉が連なって生みだしていく官能の予感が、〈書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景〉と否定される。あるいは記憶を辺巡る旅であるのかもしれない。言葉によって呼び出される、自身の、そして他者を経由して、体内に蓄積されていく記憶、そこから立ち上がる、曖昧な光景を、ひらひらと訪ねていく。次々に映像を結びかけては消えていく(消されていく)言葉(が立ち上げる、幻影としての存在)の間をさまよう、声。 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に現れる、ウユララの声、を、いつも心の隅に思っています。いま、二連目以降を読み進める(ともにさまよう)時間がないので、また後で読みに来ますが、そんな声そのものが像を結びかけては消えていく(消していく)詩的空間の広がりを感じています。
0意味は全然分かりませんでしたが、どこか音楽のようだと思いました。文体に酔わされて、良く分からないのに最後まで読んでしまいました。文章が作り出すうねりがとても気持ちよかったです。
0survofさんのコメントを拝読して、いろいろ思う所がありました。 おそらく、この作品は、意味を語るものでもなく、物語を紡ごうとするものでもない。 その過程や経過を報告するものでもない。言葉が、存在を立ち上げていく、それは、いったい、どのようなことなのだろう、その問いを問わざるを得ない、魂の彷徨、その最中で出会った無数の想念を、丁寧にとらえようとしている、そんな作品であるように感じています。 初読して、オルフェウスの竪琴は、なにを呼び覚ましたのか、何を立ち上げるのか、と作者に問いたいと思いました。思いながら、何度か拝読しています。 他の方のコメントを、ぜひ読んでみたいです。
0二連目、〈蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、〉白の連想からつながる雪原のイメージ、蝶と耳の形の相似、声を聞くということ、魂の飛翔のイメージ・・・そこに、雨燕、星蜂雀や蝦殻天蛾といった、文字のインパクトを持った「飛翔するもの」のイメージが幾重にも重ねられて・・・『邪宗門』を読んだ時の後味と、どこか同質のものを感じたりもしたのですが・・・〈苦い茎にうちつけられた海流の霊魂〉この飛躍には、置いてきぼりを喰うような感覚もありました。全体を流れる海のようなイメージが、伏線として置かれていれば、違和感なく入って行けたのかもしれませんが。さざめく声、から〈植物学のヴォカリーズ〉へと連なる部分は、違和感なく乗っていけました。博物館のように多様な蝶や蛾のイメージがあり、続いて、多彩な植物の標本のイメージに移っていく、そんな感覚。トロンボーン、いささか唐突ですが、音質と、途切れ目なく音程が変化していく滑らかさのイメージ、布、テクスチャーのイメージ・・・薄く覆うもの、のイメージ。その向こうに透ける〈ヴィシュヌの横貌〉には驚かされましたが、ギリシアから(同じ東洋の)インドにまで想念が至った、ということでしょうか。ひとつひとつの連が、無数の絵画で壁を埋め尽くした部屋を巡っているような濃度で描き出されているように思い、その豊かさや多様性に感嘆しつつ・・・盛り込み過ぎではないか、という印象も覚えます。 毎日一連ずつ読んで、一週間かけて読むことにしましょう。
0何度か拝読しているのですが連が進んで行けば行くほど、イメージの森に迷い込んでいくような酩酊感、ある種の麻痺のような感覚にとらわれますね・・・18世紀グランドツアー時代の貴族の館、床から天井まで、びっしりと絵や剥製などが飾ってある、ひんやりと空気が溜まって、薄暗い空間に日が細く帯状に差している・・・そんないくつもの部屋を彷徨っているような感覚、と言えば伝わるでしょうか。 死骸となった蝶、壁に塗りこめられ、あるいは痣として肌に痕跡を残して浮かび上がり、桃のエロス、涙の中に現れては消える蝶・・・一連一連に盛り込まれたイメージの重量を思いながら、少し全体として、盛り込み過ぎなのかもしれない、そんな印象も覚えました。 一連、一連を独立させて、ある種の物語とか、詩の空間(七つの連作)として展開する、という、そんな試みがなされたら、どんなことになるだろう、読んでみたい、と思いました。
0何とも上質、緻密なタペストリーのような言葉の洪水! 味わうに足る散文詩とはこういうものではないかと感動しております。 私は面倒臭がり屋なので、通常判読不明や意味不明の単語は検索しませんが、 この詩においては一語も洩らすまいと、検索数は20を超えたでしょうか。 それは「意味」を取りたいというより、言葉の輪郭をはっきりさせ、この詩を味わってみたかったからです。 冒頭「Αντιόχεια」(アンティオキア)、「Αρκαδία」(アルカディア)でいきなり聖書的な神話世界を髣髴とさせられます。 アルカディア(理想郷)と言えば、何故か郷原宏のH氏賞受賞作「カナンまで」(約束の地)を連想してしまって「我もまたアルカディアにありき」の詩篇か詩句がこの詩集にあったと紐解いて見れば、全くの思い違い。ただ、手帖あたりに郷原のそんな受賞後の一文があったのかも知れず、 折角、本の山から郷原の詩集(現代詩文庫)を取り出したのだから、詩句を引く。 蝶 そのあくまでも蒼い飛翔の伝説 きみは鯛とも鰡ともつかぬ 怪魚のまなざしで世界を視る 郷原宏詩集『カナンまで』より「蝶のゆくえ」 偶然とは言え、まさにこの散文詩は「怪魚のまなざし」であって、 冒頭七変化する「蝶」の舞は、一つひとつがタイトルのように緻密に構成された章とも読める。プロローグを除いて7連という「7」の数字も意図的ではないか。 しかも全体の表題が「Sept Papillons」。「Sept」は「September」(9月)であり、「氏族」でもあるので、制作月(投稿月)と同時に、蝶の氏族の意も込められているのだろう。 怪魚のまなざしは、オリオンの散開星団を描き、ヒンドゥー教の神、アルビノ個体、そしてバリ島の女性舞踏、黛敏郎《涅槃交響曲》を自在に描いていく。ここまでくれば、その詩の筆致、音楽的なマニアックまでの造詣の深さから、詩集を愛読してる者としては、ああ、あの方かと思わざるを得ない。 この著者の詩篇は、無意識の領分で開花していく歌の花である。 意味を追っても仕方がなく、ただただ、瞑目して己の無意識にじわじわ広がっていく詩情を感じとればよい。言語が感覚的に眩めくような発光を遂げているので、それをただ感じ取るのみである。欲を言えば「蝶」の4連「電話がなりつづけていたので」だけはあまりに現実臭があり過ぎ、やや夢から覚めてしまうような違和があったが、それも著者の計算のうちなのかも知れない。 新しい現代詩の可能性、それは無意識の領分に食い込んでくる詩句の連なりの発露であり、 ワディ(涸れ谷)に再び自由な水を蘇えさせる作業に違いない。
0白島さんの鑑賞に、また新たな発見を得つつ。・・・Septは、フランス語の7、と思っていたのですが、9月と掛けているのかもしれないですね!? ・・・とにかく、分厚いというのか、層の厚い作品ですよね。一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう、わけですが。
0まりもさんへ Septだけど、これはまりもさんのおっしゃるように、フランス語の「7」つのだね。 私の間違いでしたので、訂正させていただきます。 蝶の氏族!カッコよかったんだけどなー(笑 英語の「sept」なら、私の言った通りなんだけど、これはフランス語だから 深読みに過ぎました。
0補足: 無意識の領分ということについて、考えていたことをもう少し補足してみます。 例えば音楽を聴き、それに感応することは無意識の領分である。 余程の専門家でない限り、難しい理論書や解説書を読んで、「この形式がソナタ形式で、A、B、Д`、Aのリピート構成で、主題が云々)と言葉で感応するわけではない。 つまり、この散文詩は多分に音楽的であるということなのだが、 それは、朗読的に韻やリズムが心地良いという意味合いとは少し違う。 (勿論、心地良いのですが) 通常、音楽や詩の朗読は「耳」という器官を使い味わうわけだが、 この詩の味わいは耳を通さず、極端に言えば「言語」の持つ意味さえ通さない。 集中、「ユング風の飛行船」という言葉があるが、これが何を意味するかはよく分からない。しかし、偶然にせよこの散文詩を読んでいるとユングの唱えた集合的無意識の存在ということが妙に私自身の中でリアリティーをもってそそり立ってくるのである。 詩行の連なりが、私の無意識の中の原風景(言葉以前のイメージだろう)と一体化し、詩の中に私を没入させていく。そういう意味での音楽なのだ。 それは有能な指揮者が楽譜を読み取ることで、音楽をイメージする行為や 盲目な方々が点字を指という皮膚感覚を通して理解し、詩や文章を味あう行為に近いかも知れない。 言葉という意味性そのものを主要な媒介としないのだ。 勿論、これは言葉を用いて書かれた散文詩であるから、「あああ、いいいい」では このようなイメージの獲得はできないが、言葉で書かれながら、すぐさまその意味性を消滅させ、潜在意識に確たる音楽的なイメージを残す、これがこの著者の優れた散文詩的技法ではないか、そんなことを思わせてくれた。
0テクストについてはテクスト自体が語るだけの説得力を持たなければ意味がない、という立場なので、解題することは避けてきましたが、いくつか種明かしをしておきますと、タイトルはカイヤ・サーリアホというフィンランド出身の作曲家が書いたチェロ独奏のための組曲に基づきます。短い7つの楽章からなる作品です。蝶の、いっけん無思索とも至極自由だともおもわれる飛行曲線を辿るようなチェロの旋律(といって現代曲はみなそのようにおぼつかない歌えないメロディーばかりですが)が印象的な楽曲で、けれども蝶の飛び方はさまざまな条件に左右されてもいます。空気の流れや敵の有無、花のありかや他の個体がどこにいるか、であるとか。イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景、それを目指したといえばそうですし、そもそもわたしがなにかを書くときには、それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。 さらに、わたしが育った環境は、文学とも音楽ともまったく無縁でしたが、わたしはそれを深く愛しています。「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。というのは、現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能ですし、多数の読者にとって理解しやすいかどうか、に重点をおいてしまっては、表現に足枷を課すことになってしまいます。詩は読解するものではない、と書いておきながら矛盾するようですが、読解不可能、ということはありえない。たとえひとりだけであったとしても、その作品を味わい、または理解し、共鳴してくれるひとはいるはずです。それが「いつ」か、「どこ」かはたいせつではない。詩は、多くの読書家にとっても「難解だ」とおもわれてしまっているようですが、ほんとうにそうでしょうか。いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況も訪れるのではないでしょうか。おなじように、多くの詩の読者にとって「難解」なものでも、もしかしたらそうではないことも起こりうるかもしれません。その可能性を棄却してはいけない、そう考えます。
0貴重なコメント、ありがとうございました。〈イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景〉イメージが呼び出されては消えていくような作品全体の情景が、すうっと腑に落ちるような気がしました。survofさんなどの鑑賞にも、音楽が響いていますね。 〈それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。〉この部分も、詩論、詩観と申し上げてもよいでしょうか。 私は、絵画でいえば具象画(あるいは心象風景画)を目指したいと思う側であり、詩とは喩を用いて、その折々の(自身の、あるいは、語り手として設定した主人公の)感情を吐露したり、思索を展開させたりするもの、というスタンスなので、非常に新鮮な思いで拝読しました。(もちろん、それは私個人のものであって、様々なスタンスがあること、その多様性を大切にしたいと思っています) 〈「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。〉おっしゃる通りです。架空の集団を意識して、忖度して、自身に制限をかけて、果たして、自由な創作が可能か?ということは、常に考えます。その時代の多数の「一般読者」には「難解」であるとか、「実験性が強い」として受け入れられなかった美が、実は次世代の美を予見したり、予兆となっていたりする。その予兆こそが、先んじて次代の美を牽引したりする。(もちろん、その美を生み出そうとする人、は、牽引しようなどという意識は微塵も持っていなかった、としても。) 〈現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能〉そこに、恐らく「批評」の介在する意味がある、と思うのですが、果たして、私が行おうとしていることが、その介在になっているかどうか。目指していたとしても。その問いは、常に自身に投げかけています。 抽象絵画が置かれていて、大多数の鑑賞者が、「なんだかわけわからない」と素通りしたとして・・・その中に、絵画の色彩やマチエール、蠢いているイメージのようなもの、に激しく心を揺さぶられる人、がいた、ならば。そして、その人が、自身の感動を、その場にいる人たちに「わかる言葉」で、うまく伝えることができた、ならば。 今まで、それを「美」として認識できていなかった、そのような扉を開けていなかった人たち、そのようなアンテナのスイッチを入れていなかった人たちに、扉を開けたり、スイッチを入れたりする、きっかけを提供する、ことになるのではないか。〈いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況〉が、自然に訪れるのを待つ、ばかりではなく、批評や感想によって、その状況が訪れやすくする、そんなきっかけを、用意することになる、のではないか。 私がコメント欄に書いた、〈一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう〉という言葉は、そうした意味合いも含んでいます。自戒を込めて、ということですね。言葉の連鎖の中から、人はどうしても「意味」を見出そうとしてしまう。ならば、いっそ、独自の物語を、それぞれが紡ぎ出していってもいい。抽象絵画の中から、様々な物語をひろいあげ、作者も気づかなかったような、多様な「具体的な」物語を、創り上げていってもいい・・・そんなことも、考えます。 陶酔感がある、イメージのゆらぎの中に導き入れられるような気がする・・・こんな印象批評で、どれだけ「伝わる」んだ、と思ったり唸ったり、するわけですが・・・白島さん始め、複数の方が独自の「読解」を提供してくださっていますね。こうして、様々な人の心に、様々な形で響いたものを、それぞれが言葉にしていく試みの場である・・・そんな掲示板を目指したいと思っています。
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