二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」
田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる
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二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」
『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。
場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。
頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。
玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。
目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。
偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。
2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。
書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。
文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。
二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」
2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。
きょうは塾の忘年会。楽しみ。
いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!
あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」
Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。
FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。
ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。
その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!
どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。
二〇一五年十二月二十日 「違う人生」
これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。
コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。
二〇一五年十二月二十一日 「月長石」
きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。
コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。
きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。
なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?
子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。
けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。
一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。
これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?
自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。
ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。
二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」
繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。
あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。
セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。
夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。
むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。
溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。
自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。
聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。
つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。
私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。
二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。
以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。
じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。
ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。
二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」
ひぃえ~、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?
作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。
リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。
別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。
二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」
ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。
あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。
きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。
ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。
クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。
二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」
これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。
詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を Amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。
二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」
台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (灬ºωº灬)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。
二〇一五年十二月二十七日 「15分」
起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。
ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。
辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。
キングオブコメディ、残念。
やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。
二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」
夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。
雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。
人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。
それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』Ⅰ、Ⅱの続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?
10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。
虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。
病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。
精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。
ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。
何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。
イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。
ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。
二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」
きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。
再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。
寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。
二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」
きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。
四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』Ⅰ、Ⅱと、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。
本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。
とりあえず、タバコ吸って考えよう。
きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。
ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。
めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→
ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。
二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」
これは、ぼくとスーとの約束だった
彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった
彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ
1、2、3は会えないね
それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで
缶コーヒー
きみは、ぼくに出合った休暇だった
ベイビー
メイ・メイ・スー
もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。
弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。
作品データ
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作成日時 2021-06-01
コメント日時 2021-06-01
#現代詩
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2024/11/21 23時17分05秒現在
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