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詩の日めくり 二〇一五年十月二日─三十一日
二〇一五年十月二日 「沈黙」 沈黙は物質の特権ではない。 二〇一五年十月三日 「微積分」 時間を場所で微分すると出来事になる。場所を出来事で微分すると時間になる。出来事を時間で微分すると場所になる。とうぜん、出来事を場所で積分すると時間になる。時間を出来事で積分すると場所になる。場所を時間で積分すると出来事になる。 二〇一五年十月四日 「13の過去(仮題)」 忘れてばかりいる。思い出してばかりいる。思い出すためには、忘れていなければならない。ふつうは故意に忘れることはできないし、ふつうは故意に思い出すこともできない。個人的なことがらを詩のなかに紛らせておくと、あとで読み返したときに個人的な記憶がよみがえることがある。それがぼくの詩だ。作品化していない思い出もあるけれど、それも順次、書いていくことになるだろう。『13の過去(仮題)』は、過去の記憶をできるかぎり忠実に再現していって、書き込んでいくことにしているので、そこでまだ詩にしていない思い出を書いていくだろう。楽しみにしてる。東大路通りから清水寺にのぼるとき、細い狭い道を通るのだが、いまのぼくには細い狭い道だが、清水寺のすぐそばに住んでいた、ぼくが子どものときには、狭い道ではなかった。大きさというのは相対的なものなのだろう。寺の名前は忘れたが、清水寺に行く途中に寺があって、よくそこの境内で遊んでいた。 二〇一五年十月五日 「再生力」 ふと、傷ややけどのことを思い出した。子どものときにけがをした痕ややけどをした痕が残っていることもあるけれど、時間がたつと薄れていくことが多く、また痕が残らない場合もあったのだが、齢をいくと、再生力が弱まっていくのだろうか、子どものときよりも傷の痕が残りやすくなっているような気がする。 二〇一五年十月六日 「ファウスト」 ゲーテが『ファウスト』で、ヘラクレイトスではなく、タレスの水よりきたりて水に帰すのほうをとったことに着目。暮鳥の詩句(魚が意識をもつ、といった感じのものだったか)とからめて書こう。こんどの全行引用詩・五部作・下巻とも関連している。ぼくにはぼくができることをやるしかない。あたりまえか。 きのう、暮鳥の詩を読み直していて、ふと、数日まえに読み直したゲーテの『ファウスト』のある部分と結びついて、こんど出す全行引用詩で展開しなかったことがらの一つに思いを馳せたのだが、これでよかったのだとも思った。このこと自体を別立てで書くことができまるのだからと。むかしは、タイミングを逃したなとしょっちゅう思ったものだが、齢をとると、そのタイミングを逃したことで得ることもあるのだなと思うこともあり、さいきん、伝道の書の「すべてのことに時がある。」という言葉は、こういうときのことも言ってるのかなと思ったりもしてる。きっと、ひととも、本とも、出合うべきときに出合っているんやろう。 ゲーテの『ファウスト』には、古代ギリシア哲学者の言葉がわんさか入っていて、コンパクトな哲学史としても参照できる。これも持って行こう。もう何度も読み返している『ファウスト』である。流し読みでいいか。きょうじゅうに読み返そう。ブレッズ・プラスで、BLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、新しい『詩の日めくり』の手直しをしていた。ゲーテの引用がどこからなのか書いてなくて、これから探す。たぶん、『ファウスト』だと思うけれど。帰ってきたら、ペソア詩集が到着してた。さらっぴんのようにきれいで、ほっとした。『ファウスト』じゃなかった。自分の詩論を読んで調べた。自分の詩論を、ほとんど辞書のようにしてる、笑。『花崗岩について』小栗 浩訳だった。こんなの、「私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」(『花崗岩について』小栗 浩訳)ずれちゃうけど、「人間は概念に意味を与えるが、その概念がこんどは人間に意味を与える。」って、ふと思っちゃった。スクリッティ・ポリティ聴いて、バカになっちゃったかな。BGMはスクポリで、キッチンで、タバコ吸いながらお茶飲んで踊ってる。新しい『詩の日めくり』が完成してゴキゲンなのだ。 二〇一五年十月七日 「自信大国・日本」 日本は自信大国だという。京都にいると、ときどきしか自信のあるひとには出合わないから実感がないけど、東京にいくと、たしかに、自信のあるひとと出くわすことが多い。しょっちゅう自信のあるひとと出くわしていると言えるかもしれない。住んでる場所によって、自信が出たり出なかったりするのかな。 二〇一五年十月八日 「沈黙」 きみの沈黙ほどかしましいものはない。 二〇一五年十月九日 「スピンオフ」 『詩の日めくり』のスピンオフを2つ考えた。1つは、同じ年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。もう1つは、異なる年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。文学極道に投稿するものが現在に追いついたら、書こうと思う。『詩の日めくり』もライフワークの1つになった。 二〇一五年十月十日 「買いたい新書」 フランスパンが食べたくなったので、イーオンに買いに行く。野菜サンドにしよう。きょうは、河原町のロフトでかわいらしい表紙のノートを買おう。大きいノートがいいや。ライフワークにするつもりの『13の過去(仮題)』と『全行引用詩による自伝の試み』のラフスケッチ(設計図)を書いておきたい。イーオンにはいいのがなかった。 買いたい新書。 チーズとレタスを買ったので、それをフランスパンにはさんで食べる。これだと自炊になるかな。どだろ。これが、ぼくの自炊の限界だ。低い。まあ、いいか。BGMがわりに、ギャオで、なんか見ながら食べよう。これから河原町のロフトにノートを買いに。その足で日知庵に行く。お風呂場では、フロストの詩を読みながら、にやついていた。これは、大人の詩だろうな、いまのぼくの齢でようやくわかる感じのものじゃないかなって思って。齢をとっても、ロクなこともあるのである。 いま日知庵から帰った。ロフトでは、ほしいなあと思ったノートがあったのだけれど、レジスターに3列も並んでるのを見て、買うのやめた。きょうは日曜日だったのだ。しかし、あれじゃあ、ネットで選ぶほうが品数が多いんじゃないかなと思って、これからネットサーフィンする。食べ物の表紙がいいのだ。 ほしいと思うようなノートがない。食べ物の写真が表紙のノートがほしかったのだ。ルーズリーフのホルダーで透明のものに、表紙を替えられるものを12冊もっているので、そのうちの1冊(いまSF小説のカヴァーをプリントアウトして表紙にしてる)を使おう。腹立つ。 いや、このままでいいや。あした罫線のない無地のルーズリーフを買ってこよう。それをラフスケッチに使おう。SFでいいや。いまダイエットしてるから食べ物の写真で自分をなぐさめようとしたけど、ホルダーに入れてるSF小説の文庫の表紙の絵で十分なぐさめられる。 二〇一五年十月十一日 「「ぼく」という言葉」 「私は滅びない」とホラティウスは書いた。「私は滅びる」と、ぼくなら書くだろう。「私という言葉は滅びない」としても。 「ぼく」という言葉を何回書いても、「ぼく」には到達できない。なぜだろう。「ぼく」はいつまでも、「ぼく」ではないのかもしれない。 「ぼく」という言葉を、「ぼく」自身に投げつけて、「ぼく」と書いていることがある。「ぼく」は、どこからどこまでも、「ぼく」でないものからできているような気がする。 「ぼく」の複数形が「ぼくぼく」なら、こどものときに、しょっちゅう口にしていたような気がする。連続して口にされる「ぼく」は複数形だったのだ。 つねにどこかに出かけて動き回っている「ぼく」と、ずっと動かないで静止している「ぼく」がいる。「ぼく」は運動しつつ静止している。「ぼく」は静止しつつ運動している。 「ぼく」を逆に綴ると、「くぼ」になる。「でこ」と「ぼこ」のようなものかもしれない。いや、「ぼこ」と「でこ」か。 二〇一五年十月十二日 「「ぼく」という言葉でできたレゴ。」 レゴ。「ぼく」という言葉でできたレゴ。いっしょうけんめい、たくさんの「ぼく」と「ぼく」を組み合わせてつくる。 「ぼく」の部屋。「ぼく」の本。「ぼく」の携帯。「ぼく」のカバン。「ぼく」のペン。「ぼく」の。「ぼく」の。「ぼく」の。まるで、「ぼく」のほうが、ものたちに所有されているかのようだ。いや、じっさい、そうなのだろう。 「ぼく」を伸ばして口にすると、「虚空」と聞こえる。 「ぼく」を極端に短く口にすると「虚無」となる。 二〇一五年十月十三日 「翻訳者魂」 いま、学校でも、塾でも、授業の空き時間に、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』の再校の見直しをしているのだが、ときには、引用した原文を確かめるために、本を開くこともめずらしくないのだが、ナボコフの『青白い炎』からの引用で、気になった箇所があったので、自分が引用したものではなくて、のちに岩波文庫から出たものを持っていたので、棚から出して見たら、訳文が違っていたので、びっくりして、じっさいに自分が過去に読んだ筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』を、きょう勤め先の学校で借りて調べたら、ぼくが引用した訳文に、ぼくの書き写し間違いはなかった。ぼくが引用した訳文のままにするけれど、翻訳なさった富士川義之さん、きっちりした方なんだろうなって思った。岩波文庫に入ってたほうの訳文は100%の完成度をもっていた訳文だったもの。 さいしょの訳文と、岩波文庫に入ったものの訳文を書き写してみるね。 ・ 「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』収録ヴァージョン335ページ) 「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子(ひじかけいす)をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕。「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異なった人びとは異なった類似や似かよった差異をよく見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、岩波文庫収録ヴァージョン、483ページ) 岩波文庫収録ヴァージョンで、肘掛椅子にルビを入れてるところが欠点であるが、送り仮名と、「よく」という副詞の導入は成功していると思った。ぼくも訳して発表したり出版したあとで、直したいと思っているものがある。機会があれば、ぼくだって直しちゃうだろうな。いい仕事をみたら、ぼくも頑張らなくっちゃって思わせられる。これから塾。がんばるぞ。いつも全力投入してるけど。 いや、やっぱり、新しいほうの訳のほうがいいかな。ルビが気に入らないけれど。ということは100%違うか。ふううむ。 二〇一五年十月十四日 「数学と詩」 きょう、塾で生徒に数学の問題の解き方を教えているときに、詩を思いついた。数分でメモして、そのあまりのうつくしさにびっくりしてしまった。まだ自分の書くものにおどろくことができて、うれしい。そのうち、どこか雑誌からでも依頼がきたら書こう。 あははは。数学はおもしろい。何十年学んでも、学びつづけることができる。自分のなかでだけど、新しい発見があった。とても単純なことだ。こんなにクソ忙しいときに限って、なにか新しいことが目のまえに訪れるのだ。詩も同じだ。とても単純なことに気がつくことができれば、かなりの前進があるのだ。 二〇一五年十月十五日 「皿洗いのバイトが終わって」 いま帰った。日知庵で皿洗いのバイトが終わって、えいちゃんに、焼きそばと、ポテトサラダをいただいて、おなかいっぱいになって、阪急電車に乗って帰ってきた。河原町駅で、ハーフパンツからはみ出した入れ墨を見せてる、かわいらしい男の子がいて、その子も阪急の西院駅で降りた。帰り道、歩きながら、頭のなかで、イエスの『危機』を奏でさせながら、きょうの一日の終わりのほうの会話を思い出していたら、ひらめいたのだった。奇跡はつづいて起こるのだった。昼に数学でひらめいたのだが、帰り道でひらめいたことは、ここに記述しておこうと思う。きょう、お客さんで来られた方と、カウンター越しに、ウルトラマンだとか、ウルトラセブンだとか、仮面ライダーとか、仮面の忍者・赤影とかの話を夢中でしていたら、えいちゃんに、「なんで、そんなに話をすることがあるの?」と訊かれて、すかさず、ぼくは、「言葉があるからやで。」と返事をしたのやけど、帰り道に、違う、違う、違う。違うんだ、と思ったのだった。そのお客さんとは、そこでは、「共通の文化背景がありますから、こんなに話がはずんだのでしょうね。」と、ぼくは言ったのだったが、違うのだ。言葉が言葉としゃべっていたのだ。ぼくたちが語り合っていたというよりも、共通の文化的な背景をなしているものが、ぼくたちの口舌を通じて、互いに語り合っていたのだった。人間の言葉というものを通して、言葉が言葉と語り合っていたのだ。共通の文化的な背景をなしているものが語り合っていたのだ。なんのために? そうだ。なんのために? 言葉がより深く言葉を理解するためである。言葉が言葉を抱きしめ、突き離し、抱擁し、蹴り飛ばすために。言葉はこうして、ときに言葉と語り合うのだった。いや、しじゅう、言葉は言葉と語り合っていたのであった。過去にも、現在にも。そして、未来においてもだ。そうだ。ぼくたちがウルトラQについて語り合っていたのではなかった。ぼくたちがガメラやゴジラについて語り合っていたのではなかった。ウルトラQやガメラやゴジラなんかが、ぼくたちを通じて、ウルトラQについて語り、ガメラやゴジラについて語り合っていたのだ。より深くウルトラQの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。より深くガメラやゴジラの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。これはきょう二つ目のひらめきであり、奇跡であり、天啓であった。 あるいは、ただ単に、言葉は言葉と語り合いたいがために、ただそれだけの目的で、人間を利用しているのかもしれない。だとしたら、語り合う言葉は、ぼくたち自身の意味を、ぼくたちの生の在り方そのものについてより深く知るために語り合っていたのではなく、ただ単に言葉それ自体をより深く知るために、互いに語り合っているのだろう。語りあっていたのであろう。人間が神さまについて語り合っているときに、じつは、神が人間の口舌を通して、人間の言葉を通して、神が神自身おのれと語り合っているのだろう。 フランスパンをあさ買いに行ったら、半分に切って切り分けたバケットがなかったので、半分には切ってくれたけれど、それを七つに切ってと言うと、焼き上がり立てで切れませんと言われて、半分に切ってくれたものを持ち帰り、スライスチーズをのっけて食べた。合間合間にカットレタスをつまみながら。えいちゃんに、その話をしたら、焼き上がりたてはやわらかいので切れへんのやで、と言われた。時間がたって冷めたら固くなるやろ、固くなかったら、きれいに切れへんのや。それでも、「どうして?」と訊くと、「やわらかくて、切ったら、もろもろになるやろ。」 「そんなことになるんや、知らんかった。びっくりやな。」と言うと、「その齢になっても、びっくりすることがいっぱいあるんやな。」「そうなんや。毎日、毎日、びっくりすることがあって、しょっしゅうジェットコースターに乗ってるような気がするわ。」と返事した。 二〇一五年十月十六日 「ゲラチェックって、地獄やわ。」 きのう、日知庵で皿洗いのバイトをさせてもらっていただいたお金で、ちょっと(ずいぶん)高い本を買おうと思う。ジュンク堂にあったと思う。はやめに本を手にとりたいから、お風呂に入って、河原町に出よう。詩集の再校のゲラチェックはつらすぎて、涙がにじんでできなくなっているので中断している。 いま日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂に寄って、本を買った。予定してたのは、ディレイニーの『ドリフトグラス』やったのだけど、表紙に手あかがついていて、本のページに線が入って汚れていたので買わなかった。早川書房の『プリズマティカ』と、サンリオSF文庫の『エンパイアスター』を持ってるし、もともと買う必要もなかったものだったし(本邦初訳の短篇が入ってたけど)。その代わりに、ミエヴィルの『都市と都市』『ジェイクをさがして』と『ペルディード・ストリート・ステーション』上下巻と、トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を買ってきた。そら、未読の本が増えるはずやね。きょうは、これから、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』の再校のゲラチェックをする。BGMは、ジャズのインスト。ゲラチェックって、地獄やわ。 二〇一五年十月十七日 「クソみたいな詩」 数年前に、久しぶりに、詩人のHさんとお会いしたときに、ヤリタミサコさんのリーディングポエトリーで、「まだクソみたいな詩を書いてるの?」と言われて、これは褒め言葉だなと思って、「書いてますよ。」と返事した。たしかに、ぼくの『詩の日めくり』なんて、まさに、うんこのようなものだものね。ぼくには、高貴な詩も書けない。上等な詩も書けない。愛を賛美するような詩も書けない。現実を直視するような詩も書けない。現実に役に立つような詩も書けない。ただうんこのような詩を書いてるだけだ。見下されてるような視線をしょっちゅう感じるけれど、見下されるような詩だもの、と自負している。 ブレッズ・プラスのランチメニューが変わってた。BLTサンドイッチがなくなっていた。ハムサンドとダージリンティーを頼んだ。600円ちょっと。これから詩集の再校の見直しをする。夕方、ひさしぶりに「きみや」さんに行こうかな。お酒は飲めないけれど、ちょこっと、なんか食べよう。 二〇一五年十月十八日 「みみっちいこと」 きょう、食堂で、400円分の食券で350円分しか食べていないことに帰りに気がついた。あした、言って、通るだろうか。と数時間のあいだに何度も振り返って考えている自分がいる。わずか50円のことなのに、いや、わずか50円のことだからか、とても自分がふがいない。情けない。ああ、いやだ~。あした1時間目からだから、もうクスリのんだ。未読の本がいっぱいあるのに、塾のバイト代が入ったら本を買おうと思っている。こんなに文学に貢献しているのだが、他人から見たら、ただの無駄遣い。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十月十九日 「嘔吐」 ぼくはサルトルの『嘔吐』が、認識の嘔吐だと思っているのだけれど、ものごとをより深く知ると吐き気がするのは、ぼくだけのことじゃないような気がする。ああ、でも、もっともっと深く認識できたら、それは生きているうちにはできないもののような気がするけれど、喜びになるとも思われる。どだろね。 思い出してる思い出が自分のものではないとわかったときの驚き。 海がずっとつづいているように見えるのは、ずっとつづいているものが海だからだ。 肯定して、すぐにそれを打ち消す。その繰り返しがぼくだと思うのだけれど、あまりに頻繁に繰り返しているために、繰り返していること自体が自覚できない。なんだろう。誤まったアルファベットのキーに指が触れて、瞬時にその文字を消去するようなことを、無意識のうちに行っているようなものだろうか。 呼ばれているから行くのか。行くから呼ばれるのだ。人生をいつくしむ才能だけはあるようだ。「なんか降ってきたで。」雨は平等に降らない。ひとよりよく降る人生もあるのだ。自分の内面を眺め渡すと、なんとせこい狭い庭か。それでも、どこになにがあるかよくわからないのだ。知らない草や虫がいる。 二〇一五年十月二十日 「幸福になる才能」 先日の「50円、損するのいやや事件」から二日たつのだけれど、自分のせこさにあきれると同時に、人生をいつくしむ才能が、ぼくには、ほんとうにあるのだなと思った。むかし、いまと違う塾で働いていたとき、葵書房で配られていた和田べんさんの絵で描かれた文豪の付箋を集めていた。「そんなもの集めてうれしいんですか?」と、女性の先生に言われて、びっくりした。ぼくは、無料で配られたかわいらしい絵の鴎外や龍之介や漱石なんかの絵が描かれた付箋を、とても気に入ってて、集めてうれしかったのだ。自分には、ささいなことで幸福になる才能だけはあるのだと、そのときに悟ったのだった。 二〇一五年十月二十一日 「なんか降ってきたで。」 ぼくが生きているときに、ぼくの作品を知っていると言うひとは、たぶん2、3人くらいのものだろう。そして、ぼくが死んだときには、もはやぼくの作品を知っているひとはだれもいなくなってしまっているだろう。そう考えるのは楽しい。忘れる幸福を知っているだけに、忘れられる喜びもひとしおなのだ。 記憶。ぼくが忘れても、記憶がぼくを忘れない。千のぼくは、ひとつのぼくすらも憶えていることができないのだけれど、千の記憶は、すべてのぼくを憶えている。すべてを記憶することが記憶の仕事なのだ。ぼくというのは記憶のための道具でしかない。ペンのためのインクではない。インクのためのペンだ。 自分を書き替えるほど簡単には、詩を書き替えることができない。ぼくはペンのためのインクであるときにも、インクのためのペンであるときにも、詩を書き替えることができなかった。一度書いた詩は、ぼくのすべての人生の軌跡を描いていたのであった。たとえ一篇の詩でも。一行の詩句であるときにも。 ぼくのなかに閉じ込められた多数の詩句。ただ一つの詩句に閉じ込められた多数のぼく。そうだ。ただ一行の詩句のなかに、いかに数多くのぼくが存在していることか。その詩句は、ぼくが書いたものであってもよいが、他人が書いたものであってもよい。いや、むしろ他人が書いたもののほうがよいであろう。 なんか降ってきたで。 二〇一五年十月二十二日 「自分を翻訳する。」 自分を翻訳するのは、むずかしい。ぼくはいつも自分の考えや思ったことを言葉にするとき、ぼくを翻訳して書いているのだけれど、その翻訳が、ことのほかむずかしい。でたらめに打ち込んだキーが画面上にアップされていく。ぼくというのは、かつて何かの翻訳だったのだろう。何かというのも翻訳だけど。 二〇一五年十月二十三日 「平凡な日常の瞬間がおもしろい。」 きょうも日知庵で皿洗いのアルバイトをしてきた。メールで、よかったら顔を見にきてねと知らせた友だちの竹上さんが来てくれて、楽しくおしゃべりした。竹上さんとは、同人誌の dionysos 時代からのお付き合いで、もう15年以上になる。大切なんだな。長い付き合いはありがたいなと思った。 永遠なんて忘れてしまった ぼくはもう 瞬間しかつかまえられなくなってしまった 平凡なありふれた日常の瞬間を ぼくはつかまえる 平凡なありふれたぼく自身をつかまえる 子どもだったころは キラキラしたものにばかり目を奪われてた いまのぼくは 平凡なありふれた日常の瞬間こそがおもしろい あご? 笑ってはいけないと思って 笑わなかったけど あとで えいちゃんに話して ふたりで思いっ切り笑った あご? 子どものときは ガラガラのおもちゃに目を奪われる赤ん坊のように キラキラしたものに目を奪われてた いまは平凡な日常の瞬間がおもしろい きのうと、おとついの日知庵での経験を書いておく。おもしろいし、貴重な体験だったのだもの。まず、おとつい、10時から10時半のあいだくらいにこられた二人組のお客さんの話。お二人とも40才は越されていたと思う。もしかしたら50歳近かったかもしれない。同年輩の方たちだと思われたのだが、じっさいのところはわからない。おひとりの方はふつう体型で、いかつく、もうお一人の方は色の薄いサングラスをかけてらっしゃってて、かなりいかつく、少し小太りだった。ぼくはカウンターのなかの流しのところで洗い物をしていたのだけど、お二人は、ぼくのまえのカウンター席に坐られてお話をなさっていたのだけど「親分が」とか「懲役」とか「むしょに入ったことがなかったらわからへんやろうけどな。」とか、そういったお言葉を口にされてて、ぼくは、ひゃ~、業界の方なのかしらと思いながら、グラスを洗っていたら、洗剤を落とすために、くるくるとまわしてグラスの外側を水で注ぎ、そのあと、グラスのなかに水を入れて振ったのだけど、その水がピュッと、そのいかつい方の額に飛んだのだけれど、その方、おしぼりを使って、顔を拭いてらっしゃったところなので、顔を拭いて、上を向かれて、「おい、なんか落ちてきたで。」とおっしゃって、ぼくは、ひえ~、こわいぃ~と思いながら、すいませんとあやまったのだけど、それで、その場はなにもなくすんで、そのまま、お二方は、業界内のひとたちの話をなさっていたのだけど、たぶん、天井から水が落ちたのだと思われたのだと思うが、あとで、えいちゃんにその話をすると、「それ、そのひとのやさしさちゃうか。気づいてはっても、そういって安心させるっていう。」と言うので、ああ、そういえば、「なんか、落ちてきたで。」とおっしゃった口調にやさしさが表われていたかも。そして、つぎに、きのうの話。9時くらいに女性がお一人でこられて、ぼくが洗い物をしてるまえに坐られたのだけど、あとで連れ合いの方がいらっしゃると言われて、でも、テーブル席ではなくて、カウンター席を選ばれて、へえっと思っていたのだけど、5分か10分ほどしてお連れの男の方がいらっしゃったのだけど、どちらも30才くらいに見えたのだけど、男前と美人さんのカップルだった。すると、常連客で、ぼくともよく話をするさる会社の偉いさんが来られて、カウンターの反対側の席に坐られたのだけど、マスターが、そのカップルの方に、「この方〇〇会社の偉いさんで、プロのカメラマンでもあって、京都中のカメラマンをアゴで使ってはるんですよ。」って言ったら、すぐさま、そのカップルの女性の方がマスターのほうを振り向いて、「あご?」と口にされたのだけど、ぼくは笑いをこらえるのに努力しなければならなかった。なんにもなかったような顔をして洗い物をつづけた。その女性の方、アゴがちょっと(いや、ずいぶんかな)出てらっしゃったのだ。人間って、自分が気にしている言葉には敏感に反応するんやなあと思った。あとで、えいちゃんに、その話をして、二人で笑ったけど、そのときには、絶対に笑ったらあかんと思った。おもしろかったけど。だって、吉本新喜劇の一場面を見てるみたいだったんだもの。女のひとがすかさず横を向いて、「アゴ?」だよ。アゴが出てる女の人がだよ。人間って、おもしろいな。 きょうジュンク堂で買った本。R・A・ラファティの『第四の館』と同じく、ラファティの『蛇の卵』。それからチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』。6500円くらいだった。読むの、いつになるかわからないけれど。 さて、あしたは仕事がハードな日。こんなに仕事をするひとではなかったのだけれど、気がつくと、いっしょうけんめいに仕事をしている。きょう、まえに付き合ってた子が夜に遊びにきてくれた。いっしょにギャオのホラーを見てた。つまらない短篇の連続だった。それでも、☆ふたつついてた。不思議。 二〇一五年十月二十四日 「人生を楽しむ才能」 予備校に勤めていたころ、とても頭のいい女の子が自殺したのだけれど、「食べる時間がもったいない。錠剤だけで生きれるのなら、その方がいい。」と言っていた。郵便局の帰りに、イーオンに寄って、フランスパン買って、セブイレに寄って、チーズとレタスとお茶を買ってきた。食べることは楽しいのに。 生きることが苦痛だと食べることも楽しめないのだね。生きることが苦痛なのは、あたりまえのことなのだけれど、その苦痛である人生のなかに、楽しいことやうれしいことを見つけて大事にするのが英知だと思うし、才能だと思う。ぼくは人生を楽しむ才能だけは授かった。 二〇一五年十月二十五日 「奇蹟」 きょうは長時間のキッスで一日が終わったので、幸せやなと思う。道を歩いていたら、声をかけられて、えっと言って振り返ったら、むかし付き合ってた子だったのだ。なにげなく、「部屋、遊びにくる?」と言った後で、「怪獣のフィギュア、集めてるけど、びっくりしんといてな。」と付け足した。怪獣のフィギュアを集める前に付き合ってた子だったのだ。で、なんやかんので、おしゃべりしてて、ふたたび付き合うことになるかも、というところで、きょうは終わったー。どうなるか、わからんけどね~。人生って、おもしろいなぁ。いっぱい奇蹟がばらまかれている。 二〇一五年十月二十六日 「人間らしい呼吸」 神経科医院がめっちゃラッキーではやく終わったので、きみやさんに行ってたら、まえに付き合ってた子から電話があって、いそいで帰って、それから二人で買い物して、部屋で邦画のホラーをいっしょに見て、いま見送ったところ。毎日のように、まえに付き合った男の子(複数)といっしょに過ごせて、すばらしい(であろう)未読の本が数百冊あって、すばらしい音楽を聴いて、おもしろいDVDを見て、仕事もいっしょうけんめいして、なんちゅう幸せな日々を過ごせているんやろうかと思う。20代のときは、生きているのがきつかった。30代も、40代もきつかった。50代になって、ようやく、人間らしい呼吸を人生のなかですることができるようになったかなって思う。60代になったら、もっと人間らしい呼吸を人生ですることができればいいなって思う。70代まで生きていたら、いまよりもっともっと人間らしい呼吸ができるかな? 二〇一五年十月二十七日 「ダフニスとクロエ」 すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた男の子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。 二〇一五年十月二十八日 「シェイクスピアミントというお菓子」 デンマークに10日間旅行していた竹上さんから、おみやげをいただいた。入れ物に、シェイクスピアの銅版画の顔の絵が入ったミントのお菓子だ。いまいただいてる。おいしい。シェイクスピアは、ぼくの超アイドルなので、めちゃくちゃうれしかった。デンマークでは、お城に行ったり、観光してたらしい。ハムレット、デンマークの王子だったね。 二〇一五年十月二十九日 「過去の思い出に番号を振る。」 きょうの昼は、過去について番号を振ることに意味はあるかどうか考えていた。過去の思い出でも同じかどうかはわからない。たぶん、ぼくのなかでは、そう変わらないのだが、過去について番号を振ることを実行してみると、それらの過去が思い出させる過去があとから出現するような気がして、過去に番号を振っても、過去の番号が変わってしまうものが出てきてしまい、まえに振った番号に意味がなくなると思ったのだけれど、過去にそもそも意味があるのかどうかも考えたのだが、番号のほうが意味があって、過去には意味がない可能性もある。つまり、番号が意味を創出させるということである。とすれば、過去における自我もまた、番号が創出させた自我であるということである。数字が過去において意味を形成し、自我を形成するということである。さて、その数字だが、ふつう番号は自然数である。マイナスの数でもいけないし、ゼロもだめだ。小数のものもだめだし、自然数にならない分数もだめであるし、無理数もだめだ。しかし、もしも、番号に、マイナスのものや、ゼロや、小数のものや、自然数にならない分数や、無理数のものがあって、それらの番号が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を形成していると仮定すると、とても思考が拡がるような気がする。順番に振られたそれらの数が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を生じさせたと考えると、ぞくぞくする。そこに虚数の順番のものも考えに入れてみる。まあ、虚数には、数の大小がないので、順番がわからないのだけれど。数が、ぼくの自我の個数を数え上げ、ぼくの過去の個数を数え上げるのだ。といったことを考えていたのだが、塾からの帰り道には、過去を数えるということは、数えられるといことであり、数えられるということは、対象とする過去があるということであると思った。過去があるというとき、その数えられる過去というものは、連続性を持っていないはずである。なぜなら、連続して変化しているものは、連続性の、まさにその最中には、数えられるものではないからである。連続的に変化する雲は、いったい、いくつと数えればよいのか。なかには、一つと言う者もいるだろうし、無数だと言うものもいるだろう。数自体が連続しているので、過去の意味も、生じた自我も、個数を数えることができない。数えることができるのは、意味を持たない過去と、晶出することなく霧散失踪してしまった自我だけである。あたりまえのことなのだが、日・時間・分・秒を入れて、雲を画像に収めても、それは、その日・時間・分・秒の雲ではない。また、日・時間・分・秒よりも細かく時間を分割してやっても、無限に分割できるので、現実の雲も画像に収めた雲もじっさいには存在していない。過去に番号を振ると、過去が過去をつぎつぎと思い出してしまい、その番号に意味がなくなるということ。過去に番号を振ると、つぎつぎとぼくが思い出されていくということ。無限分割された過去には、分限分割された数の分だけの過去が生じ、ぼくが生じるということ。時間を無限分割したときの雲が実在の雲でないように、無限分割された数のぼくもまた実在のものではない。つまり、ぼくも、過去も、無限分割され得ないものでなければ存在しない者であるということ。つまり、量子化された存在であるということ。そこには連続性はない。過去においても、ぼくの自我というものにおいても、それ自体には連続性はなく、ただ断続的に顕現するものであるということ。まずそのことを確認しておいてから、『13の過去(仮題)』を書きはじめたいと思う。増大していく数が、ぼくの過去とぼくの数を増大させる。 二〇一五年十月三十日 「種と花と茎と根と実と葉っぱ」 数字の種。 数字の花。 数字の茎。 数字の根。 数字の実。 数字の葉っぱ 疑問符の種。 疑問符の花。 疑問符の茎。 疑問符の根。 疑問符の実。 疑問符の葉っぱ 読点の種。 読点の花。 読点の茎。 読点の根。 読点の実。 読点の葉っぱ 句点の種。 句点の花。 句点の茎。 句点の根。 句点の実。 句点の葉っぱ カギカッコの種。 カギカッコの花。 カギカッコの茎。 カギカッコの根。 カギカッコの実。 カギカッコの葉っぱ 等号の種。 等号の花。 等号の茎。 等号の根。 等号の実。 等号の葉っぱ 偶然の種。 偶然の花。 偶然の茎。 偶然の根。 偶然の実。 偶然の葉っぱ 都合の種。 都合の花。 都合の茎。 都合の根。 都合の実。 都合の葉っぱ 二〇一五年十月三十一日 「数字と疑問符と読点と句点とカギカッコと統合と偶然と都合」 数字が蒸散する。 疑問符が蒸散する。 読点が蒸散する。 句点が蒸散する。 カギカッコが蒸散する。 等号が蒸散する。 偶然が蒸散する。 都合が蒸散する。 数字が呼吸する。 疑問符が呼吸する。 読点が呼吸する。 句点が呼吸する。 カギカッコが呼吸する。 等号が呼吸する。 偶然が呼吸する。 都合が呼吸する。 数字が屈折する。 疑問符が屈折する。 読点が屈折する。 句点が屈折する。 カギカッコが屈折する。 等号が屈折する。 偶然が屈折する。 都合が屈折する。 数字が生えてくる。 疑問符が生えてくる。 読点が生えてくる。 句点が生えてくる。 カギカッコが生えてくる。 等号が生えてくる。 偶然が生えてくる。 都合が生えてくる。 数字が泳いでいる。 疑問符が泳いでいる。 読点が泳いでいる。 句点が泳いでいる。 カギカッコが泳いでいる。 等号が泳いでいる。 偶然が泳いでいる。 都合が泳いでいる。 数字を反芻する。 疑問符を反芻する。 読点を反芻する。 句点を反芻する。 カギカッコを反芻する。 等号を反芻する。 偶然を反芻する。 都合を反芻する。 数字を活け花のように活ける。 疑問符を活け花のように活ける。 読点を活け花のように活ける。 句点を活け花のように活ける。 カギカッコを活け花のように活ける。 等号を活け花のように活ける。 偶然を活け花のように活ける。 都合を活け花のように活ける。 数字を飲み込んだような顔をする。 疑問符を飲み込んだような顔をする。 読点を飲み込んだような顔をする。 句点 を飲み込んだような顔をする。 カギカッコを飲み込んだような顔をする。 等号を飲み込んだような顔をする。 偶然を飲み込んだような顔をする。 都合を飲み込んだような顔をする。 数字になって考えてみる。 疑問符になって考えてみる。 読点になって考えてみる。 句点になって考えてみる。 カギカッコになって考えてみる。 等号になって考えてみる。 偶然になって考えてみる。 都合になって考えてみる。 数字になって感じてみる。 疑問符になって感じてみる。 読点になって感じてみる。 句点になって感じてみる。 カギカッコになって感じてみる。 等号になって感じてみる。 偶然になって感じてみる。 都合になって感じてみる。 数字を粘土のようにくっつけていく。 疑問符を粘土のようにくっつけていく。 読点を粘土のようにくっつけていく。 句点を粘土のようにくっつけていく。 カギカッコを粘土のようにくっつけていく。 等号を粘土のようにくっつけていく。 偶然を粘土のようにくっつけていく。 数字を引っ張って伸ばす。 疑問符を引っ張って伸ばす。 読点を引っ張って伸ばす。 句点を引っ張って伸ばす。 カギカッコを引っ張って伸ばす。 等号を引っ張って伸ばす。 偶然を引っ張って伸ばす。 都合を引っ張って伸ばす。 数字が隆起する。 疑問符が隆起する。 読点が隆起する。 句点が隆起する。 カギカッコが隆起する。 等号が隆起する。 偶然が隆起する。 都合が隆起する。 数字がブラウン運動をする。 疑問符がブラウン運動をする。 読点がブラウン運動をする。 句点がブラウン運動をする。 カギカッコがブラウン運動をする。 等号がブラウン運動をする。 偶然がブラウン運動をする。 都合がブラウン運動をする。 数字の結晶。 疑問符の結晶。 読点の結晶。 句点の結晶。 カギカッコの結晶。 等号の結晶。 偶然の結晶。 都合の結晶。 甘酸っぱい数字。 甘酸っぱい疑問符。 甘酸っぱい読点。 甘酸っぱい句点。 甘酸っぱいカギカッコ。 甘酸っぱい等号。 甘酸っぱい偶然。 甘酸っぱい都合。 記憶する数字。 記憶する疑問符。 記憶する読点。 記憶する句点。 記憶するカギカッコ。 記憶する等号。 記憶する偶然。 記憶する都合。 数字のレントゲン写真。 疑問符のレントゲン写真。 読点のレントゲン写真。 句点のレントゲン写真。 カギカッコのレントゲン写真。 等号のレントゲン写真。 偶然のレントゲン写真。 都合のレントゲン写真。 ぬるぬるする数字。 ぬるぬるする疑問符。 ぬるぬるする読点。 ぬるぬるする句点。 ぬるぬるするカギカッコ。 ぬるぬるする等号。 ぬるぬるする偶然。 ぬるぬるする都合。 噴出する数字。 噴出する疑問符。 噴出する読点。 噴出する句点。 噴出するカギカッコ。 噴出する等号。 噴出する偶然。 噴出する都合。 移動する数字。 移動する疑問符。 移動する読点。 移動する句点。 移動するカギカッコ。 移動する等号。 移動する偶然。 移動する都合。 跳ねる数字。 跳ねる疑問符。 跳ねる読点。 跳ねる句点。 跳ねるカギカッコ。 跳ねる等号。 跳ねる偶然。 跳ねる都合。 生成消滅する数字。 生成消滅する疑問符。 生成消滅する読点。 生成消滅する句点。 生成消滅するカギカッコ。 生成消滅する等号。 生成消滅する偶然。 生成消滅する都合。
詩の日めくり 二〇一五年十月二日─三十一日 ポイントセクション
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作成日時 2021-05-02
コメント日時 2021-05-02
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- 作品に書かれた推薦文