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園田の屋根
―屋根がちゃうわ、やっぱし木村や。(2011年初冬 園田競馬場にて) 会社員を辞めて、やることがなくなった、いや、やることがわからなくなった時期、私は、元町のウインズB館に入り浸っていた。三ノ宮の市役所近くの一角で、とりあえず職業訓練を受けていたが、それも動機が失業保険を前倒しで手に入れたかったからで、訓練の昼休みに走ってB館に行き、3Rか4Rか、平日昼間は園田の馬券を買う癖がついた。 園田競馬場にはじめて足を運んだのは、2010年一月二日である。なぜ、ぴったりと日付を記憶しているかというと、務めていた会社の初出式の帰りに勤務先がわりかし園田競馬場の近くであったためふらりと立ち寄ったからだ。そのときも例によって随分とスッたという記憶が先に立つ。 しかし、真冬のかなり寒い日で、よく晴れていたこともまた思い出す。ゴール付近のベンチで座って、当たるでもないレースをよくわからないながら予想していると、隣の二人連れのおっさんの会話が耳に残った。 ー屋根がちゃうわ、屋根が。 ーやっぱし木村や。 その木村騎手が、昨日、ジョッキーを引退し調教師試験に挑戦する報道が流れた。長年、腰椎ヘルニアと闘いながらの騎手生活であったという。時折、故障で戦列を離れることがあるとは思っていたが、そこまで苦しい腰痛との闘いを抱えていることは知らなかった。 木村が絡んだ馬券で、どれほど大損しどれほど大勝したかもう覚えていない。ただ、私にはひとつ園田で馬券を買う際のルールがあった。3連単BOXで勝負を賭けるときは、必ず木村の騎乗する馬を、その馬の戦績や状態にかかわらずマークして買うというものだ。人気薄の追い込み馬が、木村を屋根に乗せて3着内に入線する姿を何度、この目にしてきたことか。 木村健の騎手引退は、一時代の終わりを告げているようにも思う。木村、田中、下原。近年では、大山といった若手がずいぶん活躍している。ベテラン川原の騎乗も目が離せない。 きょう、九月十四日は、福崎サルビア特別である。五年前、木村騎手騎乗のオオエライジンが、10馬身近く離して圧倒的な強さを見せつけたレースだ。オオエライジンはもういない。木村騎手は騎手生活を終えた。 木村調教師には、オオエライジンのように、交流G1に挑戦する馬を育てて欲しいと切に願う。木村ジョッキーが、帝王賞に調教師として挑戦する日が待ち遠しい。ここ兵庫から大井へと駆け付けて精一杯の声援を送る心づもりだ。 最後に、2012年1月に制作した、拙作「砂」を引いて、「兵庫の貴公子」への賛歌としたい。 砂 道すがら 隣人が 近くのアパートの 天井が抜け落ちた と云う ここらは 屋根に砂が溜まるので 時折抜けるのだ と云う 割合熱心に忠告するので 部屋の天井の 膨らみが気になり 明日は 仕事がないので 園田へ馬を 見に行こう と思う これ程、 風が強ければ 馬場に砂埃 が立つだろう 最終コーナー を曲がる際に 砂煙が舞って 一瞬、馬と馬の 見分け がつかなくなる かつて、 友人は あなたとあなたとの 見分け がつかなかった おそらく、 観念のなかで 砂塵が舞って いるのだろう 園田のダートは荒い わたしは すべての他人が 違う顔を持つことを すこし、恐れる
園田の屋根 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 960.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-09-14
コメント日時 2017-09-18
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
競馬好きです。BOX買いしたことなかったけど、一騎手にこだわる買い方を読んで、私も一騎手を必ず入れて買うやり方をやりたくなった。競馬って、賭けた騎手との人生の共有であると思う。一瞬の共有ではあるけれども。
0競馬をやったことがないので、なんとなく「実感」として捉え難いものがあるにはあるのですが・・・ 〈人気薄の追い込み馬が、木村を屋根に乗せて3着内に入線する姿〉というフレーズなどから、自分自身の人生を馬に重ね、騎手に重ね・・・その馬と騎手に「賭ける」一瞬、人生の決断を自分の裡で下したりしているのかもしれない、そんなことを思いました。 木村騎手が木村調教師、として、新たな人生のスタートを切る。〈会社員を辞めて、やることがなくなった〉〈やることがわからなくなった〉〈私〉が、〈とりあえず職業訓練を受けていた〉時・・・〈長年、腰椎ヘルニアと闘いながらの騎手生活であった〉木村騎手が、今度は調教師の試験に挑戦する、という話を聞く。常に挑戦を続ける木村の姿に、励まされたり、闘志を奮い立たせられたりする、そんな熱い想いを感じました。 前半部分(エッセイ部分)を導入として、「砂」という作品の背景、基盤を整える、厚みを与える・・・と読めばよいのか・・・ 「砂」は、前半部分が、安部公房の「砂の女」のような、不穏な・・・抜け出せない場所に追い詰められていくような感覚もあり・・・それが、エッセイ部分と重ねながら読むと、もう、後には引けない、というような、覚悟へと繋がっていく面もあるように思われて来るのが新鮮でした。 〈一瞬、馬と馬の/見分け/がつかなくなる〉その通りですね、と納得してしまう部分のすぐ後に、 〈友人は/あなたとあなたとの/見分け/がつかなかった〉この、そら恐ろしいような行が続く。アンソールが描く仮面の群れの中の自画像のような・・・他者はすべて同じ顔、をしているような・・・不気味さ。かといって、作者はむしろ、そのことを心地よい、とさえ思っているように感じる終行がまた、新鮮でした。 〈わたしは/すべての他人が/違う顔を持つことを/すこし、恐れる〉この部分ですね。 砂埃の中を抜けて、群れの中から一頭だけ、頭角を現す。一頭がゴールへと駆け抜ける。その時、ひとりの旗手と一頭の馬が耀き、脚光を浴びる。その時はじめて、その騎手の顔が映し出される・・・馬の名前と共に。馬の顔は、区別がつくものかどうか、わかり難いのですが・・・〈兵庫の貴公子〉だけが、他者と違う顔を持つ、そんな特別な存在なのだ、という、賛歌ということになりそうですね(誤読しているかもしれませんが。) みんな違って、みんないい、ではなく・・・なにか一点において、秀でた者だけが脚光を浴びることへの肯定を感じました。一対他、ひとりと、あとは見分けのつかない群、という対照。その群の中から、ひとり、を熱く見つめる、応援する、仮託する、重ねる、という行為。
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