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同じ日に
牛が産まれた 牛が死んだ 同じ日の事 濡れた体で横たわり 体をばたつかせるも 立てず 少し声を上げた 白い息を吐いた 小さい足が一歩踏み出す 糞に顔を埋めた 汚れた体を母が舐める 立てずもがき 次第に弱く 弱く 群がりだすカラス 不思議そうに見つめ 乳房を肛門を 突き刺し食す 頭を振った 血が流れるも 反応が無い 牛たちが来る 牛たちが来る 見つめるために 立ち去っていく 人が来て初乳を与える 人が来てまず立たそうとする 尻を蹴り上げ 声を荒げる 800キロの体は 動かない ウインチで引っ張り かろうじて座る 弱々しい声が漏れた 元気な姿を見せる もう何も出来ない 生 それと 老病死 そして 目の光が消えた 牧場で繰り返される 浮世の日々 子牛用の小屋から クレーンで 吊り上げられ 世界を見る 見えないように 運ばれた それを見ていた
同じ日に ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 978.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-09-14
コメント日時 2017-09-17
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
花緒さん、こんにちは。 2年前に書いた物ですが、同時に起こった出来事を表す意味で、たまに書く二つに分けた作品の中でも上手くいったものです。 牛舎の中は誕生も死もすぐ隣で起きてしまう空間だったりします。 時にはこういう事もあるわけで。 生と死が管理下にあるのは家畜だけで無く、確かに人間もそうかもしれませんね。 牛は何の覆いも無くその姿を見せてくれてるのでしょうか。
0白い息、汚れた体を舐める母牛、そして、群がり出すカラス(の黒。)墨絵のような濃淡の中に、くっきりと描かれる生と死。 〈突き刺し食す〉のは、カラスでしょうか。厳しい動詞の連鎖が放つインパクト。人もまた、肉を突き刺し、食す生き物でもあるのでした。 〈見つめるために/立ち去っていく〉論理矛盾を含むがゆえに立ち止まらされ、言葉の流れの美しさのゆえに読まされる一行。死を、見届けるためには、生はその場を立ち去る、距離をとる他はないのか。 死せる者が、見つめる生の世界。〈吊り上げられ/世界を見る〉死者。その死が、〈見えないように/運ばれた〉生者から隠蔽され、隠されたまま運び去られる、死。その死を、たじろがずに〈それを見ていた〉語り手。秀作と思いました。
0まりもさん、こんにちは。 ”墨絵のような濃淡”とのことですが、あまり意図してませんでしたが確かにそうですね。 ホルスタインも墨絵のような白黒ですし。 結果的に生と死を表現出来たかも知れません。 ”死を、見届けるためには、生はその場を立ち去る、距離をとる他はないのか”この点ですが、死ぬのはやはり他者なんですよね。 牛の場合、どうしようも無く特にそうでして、死にそうな牛に対して、無関心です。 (家畜として管理しやすいよう、色々と能力が欠けてしまったせいかもしれません) ちなみに、見ていたのは小屋にいる子牛のつもりでしたが、語り手だととしても合ってますね。
0すばらしい!正直いうと この作品に対して 私には既読感があります。レスを拝見すると 過去に書かれたものとあるので、ああ デジャブぅではなかったのだな。と、思うとともに 再読できて感激です。 一行一行 目に浮かぶようです。実際には牛を見ていないというのに 牛を感じます。 人間に生まれてきたから この詩が読めたんだなと 思います。 なぜ すきなんだろうか?比喩が 無いからが その理由のひとつかもしれません。 不必要な比喩が まったくない。たぶん そのせいで、直に見た感じが 凄くしています。 世界を見ることすら 比喩ではないと感じました。 だいたい人は、動物を もっと見るべきなのです。 そう思いました。 ただ、ひとつだけ はて?と思った箇所があります。最後の行なのですが、センターに文字列があってほしかった。一番の主張どころだと 思うのです。センターが良いと 個人的には思います。
0左右同時に書き進められたスプリットの構造を持つ本作品だと分かるのですが、全体を詠みこむまでになかなかつかみにくいといった感じはありました。ですが、そうした詠みがたさが詠み手にそれこそ何度も反芻させる、あるいは反芻せよといった指示のようでもあり、結果私は本作品に心を動かされた、そんな感想を持ちました。最後の一文は私もそれという指示代名詞が果たしてなにを指し示すものか?としばらく詠み返しながら、子牛の目が体ががすべてをという、そこに気付きなんとも表現しがたい世界というものが持つ不可思議を受容したような、そんな感覚が残りました。二極でありながら一である、そんなところでしょうか。牛という動物は特に人間に家畜化され始めて最も惨めな生き物になったと、そのようなことを最近目にした書物にありましたが、真意はともかくどうなんかな?、つまらぬ偏見だなどと私は思いましたが。
0*追記します 》群がりだすカラス 現実に現実のカラスが群がるという、そのようなことかとおもうのですが、挿入のタイミングのためか、初読にはなにかを喩えた一文かとも詠みました。前後を挟み挿入されたこの一文の唐突感といいますか、がまた印象深く感じられました。
0るるりらさん、こんにちは。 一体どこでこの詩を見たのか、少し気になりますが。うおのめに投稿したかな? 以前勤めていた牧場(色々あって勤め先を変えてます)でまま見る事のあった光景なのです。 比喩も何も無いのはその経験からです。そのままが一番強烈に伝わるので。 ”世界を見る”も比喩じゃ無く、そのまま事実のつもりです。 センターに最後の一文があった方がいい、との事ですがこれは”子牛が見ていた”というつもりでこの配置なのです。 でもどういう視点なのかは読む人によって変わるかも知れません。 ただ自分としては、そのつもりでした。なので、この配置です。 湯煙さん、こんにちは。 慣れないと読みにくい構造かもしれませんね。一般的じゃないので。 反芻させるつもりはなかったんですけども。 ”子牛の目と体がすべてを”との解釈、そこまで全身で見ていたというのもありえますね。 ”二極でありながら一である”というのもなるほどなと。 カラスについては、現実に群がるんです。弱った牛に、えげつないくらいに。 元気な子牛にはそうでもないんですが。 あと、サピエンス全史ですね。牛が最も惨めな生き物とあったのは。 ただただ全力で過去も未来も無く、今この時を生きているだけなので、牛にとってはそう言う評価はどうでもいい気が。
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