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書くのは誰の為、己は何処へ私は僕で僕は誰?
あまり他人の詩を読まない私ですが、珍しく推薦文を書きたくなったので書くことにします。 > ヒトの直情にすら訴えかけられることもできない芸術なんて ただのエゴイズムだと頭では理解できているんだ >ただ、大衆さを求めることがそんなに正義なのかい? 自分の書きたい文章。しかし、それは大抵人に愛されることはない。余程の天才か凡才でない限り。凡庸にすればするほど愛される。でもそれは創作者にとって正義なのだろうか? > 何者にもなれない君へ 決して倣われない喜ばれない僕は 同情されるべき人間なのだろうか ヒトを愛することぐらいはできるのに >何者にもなれない僕へ 右へ倣えはとうの昔にうんざりで 自分が右になりたい有り様 何にもならない君と僕。 君と僕は同じなのかわからないけれどきっと背を互いに向いて顔を見ることはないだろう。君と僕はそして忘れ合い、戦うのかもしれない。 >エゴイズムかな? けれど理解は求めない 何行も、何節も、何文字も何秒も、 綴って理解ったことがある 僕は僕しか好きではない 自分の作品を書くのは自己満足なのか?書けば書くほど頭の中に浮かぶぼんやりとした不安。芥川は「ぼんやりとした不安」と最期に言い残して死んでいった。自分の作品は自分しか好きではない。のかもしれない。 >だから凡そ立派で大衆的な詩(詞)なんて書けやしない それが正解か否かなんて興味ないよ 仮に共感を得たとしても寒気がする 自分という個性を捨てるくらいならそんな作品は要らないしと拒絶する自分。例えばそれが感動したとなんと言われようとも。それは偽物の誰かで自分じゃない。自分ってなんだ? > 君は僕じゃない 僕も君じゃない 半端者の特権だね 僕は君でもあり、君は僕でもある。 でもそれは君は僕でもないし、僕は君でもない証明。そうでないという証明は可能か?どこかの悪魔が嗤ってやがる。 > 今日も答えなくアルコールに溺れて 付け焼き刃な眠りにつこう 何者にもなれない君へ 何者にもなれない僕より そして最後はアルコールで眠りにつく。 君はきっと僕を理解できないし、僕も君を理解できない。そして作品が完成することは__ 今回の詩は創作者にとって必ずぶち当たる壁だと思います。もちろん私も今悩んでますし、今後も悩み続けるでしょう。結局、何のために作品を書くのか。自分を見て欲しいから?でも、見てもらうためには民衆の欲しがるものを与えねばならない。それはきっと己自身ではない。そうやって、自分が分離していく。それをただ眺めることしかできず、いつか分離した我々は互いに理解することなく消えてゆくのか。それとも、うまく融合して新たな作品を書かことができるのか。非常に考えさせられる作品でした。
書くのは誰の為、己は何処へ私は僕で僕は誰? ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1080.7
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2021-03-19
コメント日時 2021-03-19
背筋がぞくぞくとするような 興味のつきない 創作の根源にかかわる諸問題ですよね。 生きてゆくうえで 創作めいたふるまいをしてしまうのは 誰の 何のためなのか。 おそらく たぶんですよ それらの創作の営為は ひとのため 他者に提示するために あるのではないでしょうか。 おのれが自分のために創るのが正道だと言い ひとの目を気にし 他者におもねり 愛想ふりまくような創作は ゲスの下 下賤の下と断ずるまえに その「自分」は おのれの中に 本当にあるのか いるのか 自己と思うものは たがわず自分なのか わたしの中には 自分はいません ありませんでした。 「自分」は よそのひとのなかに 他者の鏡にうつるすがたでしか 知ることはできませんでした。 見も知らぬ他者へ届けと わたしは つたなくも 手をつくして そのメッセージを送ることでしか 「自分」を定められないのではないか そう思うのです。
0コメントありがとうございます。そもそも作品にとっての自分とは何かという問題もありますね。どんなに人に愛されるようにしても自分らしさは出てしまう(模造品でもない限り)と思うので。創作での己ってなんなんだろうってある時からずっと考えています。自分は居るとか居ないの問題ではなく、神のような概念なのかもしれないし。難しいですね。
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