〈安閑夜話〉闌のきみ - B-REVIEW
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〈安閑夜話〉闌のきみ    

〈安閑夜話〉闌のきみ ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 3
P V 数 : 1697.2
お気に入り数: 1
投票数   : 0
ポイント数 : 3

作成日時 2021-01-03
コメント日時 2021-01-04
#現代詩 #画像
項目全期間(2025/04/06現在)投稿後10日間
叙情性11
前衛性00
可読性00
エンタメ11
技巧00
音韻00
構成11
総合ポイント33
 平均値  中央値 
叙情性11
前衛性00
可読性00
 エンタメ11
技巧00
音韻00
構成11
総合33
閲覧指数:1697.2
2025/04/06 20時43分39秒現在
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    作品に書かれた推薦文

〈安閑夜話〉闌のきみ コメントセクション

コメント数(3)
三浦果実
作品へ
(2021-01-04)

夜道さん、おはようございます。 前回の作品「研究の体温」をみた時に、この写真のセンスは最高やなあと思ったんです。で、コメントしようか迷ってしまいました。というのも併せて書かれてある詩句がどうも不要に思え、写真が発している物語性を殺しているような逆効果になっている印象が先にきてしまったので。もしかしましたら写真と詩句によってそれぞれ単体では生まれない情景を表す意図があるとすれば成功はしていますが、私的には写真だけをもって、受け取る側へ想像は投げてしまわれた方が写真の表現として成功しているように思いました。死んでる写真であれば詩句を併せた作品は活きるのですが、生きている写真と詩句の併せは、そこにあるであろうイメージの解像度を上げ過ぎてしまい宣伝広告に堕してしまうように思いました。

0
羽田恭
作品へ
(2021-01-04)

個人的には写真と詩は合っていると思いますね。 日々懸命に生きている感じがすると言いますか。 3枚目、4枚目の写真の連は、情景と相まってじわり来ました。

0
鈴木夜道
鈴木夜道
作品へ
(2021-01-04)

 のいえられこーず(みうらさん)さん  羽田 さん  こんばんは。  正月の目をいたわる  ちょっとした箸休めにでも  していただければ幸いです。   (みうらさん)が  別所にてコメントされておりました  “表現活動に妥協を許さぬ” 某氏いわく 「本気で他人に自分の詩を   読んで欲しいと考えたら   僕だったらその辺りの   通りへ出て行って   見知らぬ人を前にして   詩集を配り朗読を始める」  とありました。  詩表現はその定義もあやふやに見え  政治クラスタが理解不能な政治家答弁を 「ポエムかよwww」と痛罵し揶揄する  言葉に堕し、おとしめられるほど  どこかの誰かの耳目を集めるだけの  その膂力・魅力に  欠けているのやもしれません。  上述の「表現者」が  屋外で理解不能な繰言を高歌放吟し  だれかれかまわず詩のzineでも  配り歩こうものなら  どうなるかは明らかでしょう。    日本の詩然記念物  谷の字の御大がおっしゃいました。 「もうわたしたちは  十数行の文字配列だけでは  ものたりない体にできあがってる  詩自体にはなんら情報は無くてもいい  何かを伝える必要もない  美しければいい、といっても  耳目をひいて読んでもらわなければ  存在すら無くなってしまう  道から3メートル離れた  雑草のようなもの  だから読み手を意識し続けよ」  この道端に埋もれる雑草に  紅でも黄でも色を差し  草丈を伸ばし葉をひろげ  誘いこむ芳香をただよわせ  詩文の詩心の伝達/繁殖の助けに  ひいては  “詩が金になる世界線を実現する”  端緒に触れることが  できるのではないか。 (その意思は希薄ではありますが…)  その “十数行の文字配列” に  添加するべきは何なのか。  動画疲れしている当世人には  3秒でフックされない動画では  洟も引っ掛けてもらえないでしょう。  ならば  宣伝広告的な静止したヴィジュアルに  小憎らしく軽佻浮薄な  駄コピーライトめいた  字句を配するなんて  旧弊の悪しき商業主義の  すたれつつある手法だと唾棄せず  いま再び見直してみてはどうか。  そんなものとっくに  コスり終わっている手法で  何ができると言われたとて  自らを灯りとして暗闇を歩む  自灯明のかまえで遅々と進むしか  ないようなていたらくにあります。  画像を添えることの功罪は  多々あることでしょう。  写真単体においては  意味明快・簡潔でバエる画像や  シアトリカリティ(劇場性)に富んだ  迫真に鮮烈な情報量多めな  画像であればいざ知らず  なぜ撮ったか何を言いたいのか  手がかりにとぼしい画像は  意図を「読んで」もらえず  キャプションや  作家自身のステイトメントや  評論の解読がなくては  詩文よりも、それ以上に  目がすべり耳に届かない  憂き目にあっています。   「研究の体温」につきまして  コメントされましたように 『併せて書かれてある詩句が   どうも不要に思え、写真が発している  物語性を殺しているような   逆効果になっている印象』  というご指摘は確かに  正鵠を射たものであります。  あの研ぎ師の画像はたしかに  劇場的示唆的に情報の多い 「うるさい」写真であり  文章を添えるなど  いささかクドクドしいなと  わかりながらのうっちゃりで  伝達はどう逆転・展開するか…  そこがわずかながらの意図と呼べる  ものであります。  続けてのコメントにあります 『死んでる写真であれば   詩句を併せた作品は  活きるのですが──』  におきましては  憂鬱・鬱屈・倦怠を示唆し  多くの共感や  私的に慰撫を与えてくれる  優秀な表現たちは  さきんじて世の中を  充分に満たしております。 『生きている写真と詩句の併せは  そこにあるであろうイメージの   解像度を上げ過ぎてしまい──』    とのコメントも的確ではあるのですが  天下の往来から3メートルも  10メートルも離れた茂みで  ヒソヒソと褒めたり難じたりするよりも  生きた画像と  生きた詩句とが  解像が崩れるまで主張する  意図のつばぜりあい、斬りつけあいで  天下の往来にその血しぶき散らし  悲鳴と戦慄の一声でもあげさせよう、と。  羽田さんのお言葉のように  ところにより写真と詩句の連関が  噛み合って情景がそこにともれば  なによりであります。 (もっとも詩文がすでに   死んでいることがままあるので   それは……堪忍やで)

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