詩の日めくり 二〇一四年十三月三十日─三十一日 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一四年十三月三十日─三十一日    

二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」  「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」 (フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳) おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった つぎのdioは 森鴎外 ひさびさに日本の作家をもとに書きます 斉藤茂吉以来かな 問を待つ答え 問いかけられもしないのに 答えがぽつんと たたずんでいる はじめに解答ありき 解答は、問あれ、と言った すると、問があった ヴェルレーヌという詩人について かつて書いたことがありますが ヴェルレーヌの飲み干した アブサン酒の、ただのひとしずくも ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど ようやく味わえるような気になった もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど 笑 ようやく原稿ができた もう1度見直しして脱稿しよう そうして ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう 風景が振り返る あっちゃんブリゲ 手で払うと ピシャリ と へなって 父親が 壁によろける 手を伸ばすと ぴしゃり と ヒャッコイ ヒャッコイ 3000世界の ニワトリの鳴き声が わたしの蜂の巣のなかで コダマする。 時速何100キロだっけ ホオオオオオ って キチキチ キチキチ ぼくの鳩の巣のなかで ぼくのハートの巣のなかで ニワトリの足だけが ヒャッコイ ヒャッコイ ニードル セレゲー エーナフ ああ ヒャッコイ ヒャッコイ ぼくの 声も 指も 耳も 父親たちの死骸たちも イチジク、ミミズク、3度のおかわり 会いたいね 目 合わしたいね きっと カット ね 見返りに よいと 巻け やっぱり、声で、聞くノラ ノーラ きみが出て行った訳は 訳がわからん ぼくは いつまでたっても 自立できない カーステレオ 年季の入ったホーキです。 毎朝 毎朝 いつまでたっても ぼくは 高校生で 授業中に居眠りしてた ダイダラボッチ ひーとりぼっち そげなこと言われても 訳、わがんねえ 杉の木立の 夕暮れに ぼくたちの 記憶を埋めて すれ違っていくのさ 風と 風のように そしたら 記憶は渦巻いて くるくる回ってるのさ ひょろろん ひょろろん って 生きてく糧に アドバルーン 眺めよろし マジ決め マジ切れ も1度 シティの風は 雲より ケバイ そしたら しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ ハッケ ヨイヨイ よいと 負け すばらしく詩神に満ちた 廃墟 の 上で ぼくは 霧となって 佇んでいる ただ 澄んでいる 色 の ない ビニールを 本の表紙に カヴァーにして 錦 葵 ボタンダウンが よく臭う ぼくの欠けた 左の手の指の先の影かな 年に平均 5、6本かな 印刷所で 落ちる指は ヒロくんはのたまわった お父さんが 労災関係の弁護士で そんなこと言ってた アハッ なつかしい声が過ぎてく ぼくの かわりばんこの 小枝 腕の 皮膚におしつけて 呪文をとなえる ツバキの木だったかなあ こするといいにおいがした したかな たぶん こするといいにおいがした まるで見てきたような嘘を 溜める ん 貯める んんん 矯める 矯めるじゃ! はた迷惑な電話に邪魔されて 無駄な 手足のように はえてきて どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい どうして、舞姫は ぼくがひとりで 金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう? ひゃっこい ひゃっこい ピチッ ピチッ もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん まつげの上を 波に 寄せては 返し 返しては 寄せて ゴッコさせる まつげの上に 潮の泡が ぷかりぷかり ぼくは まつげの上の 波の照り返しに 微笑み返し ポテトチップスばかりたべて 体重が戻ってるじゃん! せっかく神経衰弱で 10キロ以上やせたのにいいいいい まつげの上に 波に遊んでもらって ぼんやり ぼくは本を読んでる いくらページをめくっても 物語は進まない。 寄せては返し 返しては 寄せる ぼくのまつげの上で 波たちが 泡だらけになって 戯れる きっと忘れてるんじゃないかな ページはきちんと めくっていかないと 物語が進まないってこと ページをめくってはもとに戻す ぼくのまつげの上の波たち いまほど ぼくが、憂鬱であったためしはない 足の裏に力が入らない 波は まつげの上で さわさわ さわさわ 光の数珠が、ああ、おいちかったねえ まいまいつぶれ! 人間の老いと 光の老いを 食べ始める 純粋な栄光と 不純な縁故を 食べる 人間の栄光の及ばない 不純な光が 書き出していくと 東京だった 幾枚ものスケッチが 食べ始めた。 ごめんね、ともひろ ごめんね、ともちゃん 幾枚ものスケッチに描かれた 光は 不純な栄光だった 言葉にしてみれば それは光に阻害された たんなる影道の 土の かたまりにすぎないのだけれど ごめんね ともちゃん 声は届かないね みんな死んじゃったもん もしも、ぼくが 言い出さなかったら て 思うと バカだね ともたん もしも 自分が食べてるのが 光だと 知っていたら あんとき 根が食べ出したら 病気なのね ペコッ 自分が食べている羊が 食べている草が 食べている土が 食べている光が おいちいと感じる 1つ1つの事物・形象が 他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう 無数の切り子面を見せるのだ 金魚が回転すると 冷たくなるというのは、ほんとうですか? 仮面をつける 絵の具の仮面 筆の仮面 印鑑入れの仮面 掃除機の仮面 ベランダの手すりの仮面 ハサミの仮面 扇風機の仮面 金魚鉢の仮面 輪投げの仮面 潮騒の仮面 夕暮れの仮面 朝の仮面 仕事の仮面 お風呂の仮面 寝ているときの仮面 子供のときの仮面 死んだあとの仮面 夕暮れがなにをもたらすか? 日光をよわめて ちょうど良い具合に 見えるとき 見えるようになるとき ぼくは考えた 事物を見ているのではない 光を見ているのだ、と いや 光が見てるのだ と 夕暮れがなにをもたらすか? お風呂場では 喩をまねる 喩をまげる 曲がった喩につかった賢治は 硫黄との混血児だった 自分で引っかいた皮膚の上で って、するほうがいいかな だね キュルルルルル パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」 彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった ぼくの話が面白くて笑ったのではなく ぼくを笑ったのではないかと ぼくには思われて 表情のない顔に引っ込む この言葉はまだ、ぼくのものではない ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる 触れることのできるものに そうすれば変形できる 切断し、結び合わせることができる せっ、 戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。 あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、 なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで~。) あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」 (ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳) 「ぼくだけじゃない、みんなだ」 (グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳) 人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる そうかなあ そうなんかなあ わからへん でも、そんな気もするなあ きょうの昼間の記憶が そんなことを言いながら 驚くほどなめらかな手つきで ぼくのことを分解したり組み立てたりしている ほんのちょっとしたこと、ささいなことが すべてのはじまりであったことに突然気づく 「ふだん、存在は隠れている」 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 「そこに、すぐそのそばに」 (ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳) 世界が音楽のように美しくなれば、 音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。 風景の伝染病。 恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。 ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。 ある古書のことです ヤフー・オークションで落札しました 11111円で落札しました 半年以上探しても見つからなかった本でしたので ようやく手に入って喜んでいたのですが きのうまで読まずに本棚に置いておりました きのうは土曜日でしたので 1気に読もうと思って手にとりました 面白いので、集中して読めたのですが 途中、本文の3分の2ぐらいのところで タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから 縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました それが挟まれた2ページはもちろん その前後のページも損傷しておりました すると、とたんに読む気がうせてしまいました まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが 昨年の暮れに買いましたものでしたので いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず 最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました 購入したらすぐに点検すべきだったと しかし、それにしても 古書を見ておりますと タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました これで3回目ですが、故意なのでしょうか ぱらぱらとまぶしてあることがあって そのときには、なんちゅうことやろうと思いました 自分が手放すのがいやだったら 売らなければいいのにって思いました ちなみに、その古書のタイトルは 『解放されたフランケンシュタイン』でした ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど 読後感は、あまりよくなかったです 汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません 途中まで面白かったのですが こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね うん? もしかして ぼくだけかしらん? 「すべてが現実になる。」 (フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳) 「あらゆるものが現実だ。」 (フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳) ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。 蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。 扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。 ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。 2006年6月24日の日記には、こうある 「朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために 乗っている電車が停車していると 車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた 「電車が通過します。知らん顔してください。」 「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」 って、だれかの言葉にあったと思うけど ほんと、勇気いったのよ~ 笑 「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」 (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳) 「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳) 「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」 (ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳) 「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」 (サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳) 「精神もひとつの現実ですよ」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳) 『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに これはいい詩になるぞと思ったのだけれど 書いていくうちに、お腹を壊してしまって 『存在の下痢。』を書くはめになってしまった 『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに 体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど まだまだ続篇は書けそうだし 散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない 『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど 読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい 『年平均 6本。』は、青春の詩だ 一気に書き下ろしたものだ 「青春」という言葉は死語だけれど 「青春」自体は健在だ 現に、dionysos の同人たちは いつ会っても、みんな「青春」している 表情が、じつに生き生きとしているのだ 『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は opusculeという感じのものだけれど これまた書いていて、たいへん楽しいものだった 読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている 去年の1月1日の夜に コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った 帰って、1口食べたら 食べたとたんに、げーげー吐いた 口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした すぐに、コンビニに戻った 「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と 店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた くやしかった たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど 1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして パソコンを再セットアップしなければならなくなった ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった 作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった ものすごくしんどかった パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた ことしの始まりは、最悪であった すさまじくむごい正月であった 詩のなかで 「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」 と書いたけど ほんとうに集まってしまった こんどは、こう書いておこう 世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と ぼくたちは おそらく、ひとりでいるとき 考える対象が、何もなければ だれでもない ぼくたちでさえないのであろう 「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」 (ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳) そこにいるのは、ただ 「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」 (ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳) であり、その自分という意識すらしないでいるときには そこにいるのは何なのだろう 自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば きりがないであろう たとえば、それは、自分の父親の記憶 ぼくの父親が ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や そのときのぼくの気分とか そのときの母親の顔に浮かべられた表情や 母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか 反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか いっしょに旅行したときの屋外の場面など その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり 本のなかに書かれていた言葉や 本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり 恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり 学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか わからないことがほとんどだ というか、そんなことを 日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど ときどき考え込んでしまって 自分の思考にぐるぐる巻きになって まれに昏睡したり 倒れてしまったりすることがある 先週の土曜日のことだ 本屋で なぜ、ぼくは、詩を書いたり 詩について考えたりしているのだろうと そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって その場で救急車を呼ばれて そのまま救急病院に運ばれてしまったのである シュン 点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね 考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない チーン 『徒然草』のなかに 「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。 盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。 心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 (現代語訳=三木紀人) とか 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、 狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。 虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、 心という実体がないからであろうか。 心に主人というものがあれば、胸のうちに、 これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 (現代語訳=三木紀人) というのがあるんだけど 最初のものは、第117段からのもので それにある 「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」 という言葉は ゲーテの 「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」 (『花崗岩について』小栗 浩訳) といった言葉を思い出させたし あとのものは 第235段からのもので それにある 「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、 心という実体がないからであろうか。 心に主人というものがあれば、 胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」 といった言葉は 「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図 それぞれにある空集合部分が じつは、ただ1つの空集合であって そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」 という、ぼくの2層ベン図の考え方を 髣髴とさせるものであった この空集合のことを、ぼくは しばしば、「自我」にたとえてきたのだが ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして 「自我」というものを捉えていた あるいは、意味を形成する際に 潜在的に働く力として 「自我」というものがあると ヴァレリーは考えていたし カイエでは 本来、自我というものなどはなくて 概念と概念が結びついたときに そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど これを思うに、ぼくのいつもの見解は ヴァレリーに負うところが、多々あるようである しかし、そういったことを考えていたのは 何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように 古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち 近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが 彼らの見解とも源流を同じくするものであり それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち 詩人や作家たちの考えとも その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が 空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと その2層ベン図が多層的に積み重なっているという 多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが それが真実であることの証左であると こころから思っているからである また、第235段にある 「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、 狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」 とか 「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」 とかいった言葉は ぼくの 「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。 真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」 といった言葉を思い起こさせるものでもあった このあいだ、『徒然草』を読み直していて あれっ、兼好ちゃんって ぼくによく似た考え方してるじゃん って思ったのだ チュチュチュ、イーン。パッ ううぷ ちゃあってた Aじゃない Eだ リルケは ちゃはっ 視点を変える 視点を変えるために、目の位置を変えた 両肩のところに目をつけた 像を結ぶのに、すこし時間がかかったが 目は、自然と焦点を結ぶらしく (あたりまえか。うん? あたりまえかな?) それほど時間がかからなかった 移動しているときの風景の変化は 顔に目があったときには気がつかなかったのだが ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである 身体を回転させたときの景色の動くさまなど 子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども 顔に目があったときとは比べられない面白さだ 左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり 風景が著しく異なるのである 顔にあったときの目と目の距離と 肩にあるときの目と目の距離の差なんて 頭ふたつ分くらいで そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい 寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり 1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる 目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて 漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ? 啄木じゃなくて、ええと あ、正岡子規だ! 正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら 目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない 人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする すごいことだと思う こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど どんな感じになるかな あ、それより、3つも4つも いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう 100もの異なる目で眺める あ、この文章って、プルーストだったね。 The Wasteless Land. で、引用してたけど じっさい、100の異なる目を持ってたら いろいろなものが違って見えるだろうね 100もの異なる目 あ 100の異なる目でも 頭が1つだから 100の異なる目でも 100の同じ目なのね 考える脳が同じ1つのものだったら じゃあ 100の目があってもダメじゃん 100の異なる目って 異なる解釈のできる能力のことなのね あたりまえのことだけれど 違った場所に目があるだけで 違って見える 違って解釈できるかな? わからないね でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら? って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする いたね 水木しげるのマンガに出てたなあ でも、100も目があったら、花粉症のぼくは いまより50倍も嫌な目にあうの? 50倍ってのが単純計算なんだけどね あ プチッ プチ プチ、プチ あの包装用の、透明のプチプチ 指でよくつぶすあのプチプチ プチプチのところに目をつけるのね で、指でつぶすの プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホッ いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を プチプチ プチプチって ブ ブブ ブクブホ って で ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは ディックだったかな リルケだったかな ふたりとも カ行の音で終わってる あつすけ も カ行の音で終わってるね 笑 おそまつ 笑 ところで 早くも、次回作の予告 次回の dio では 失われた詩を再現する試みをするつもりである その過程も入れて、作品にするつもりである かつて、『Street Life。』というタイトルで どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で データが残っていないのだ 原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする 覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ ベイビー! そいつは、LOVE&BEERの いかしたポエムだったのさ (いかれたポエムだったかもね、笑。) フンッ



詩の日めくり 二〇一四年十三月三十日─三十一日 ポイントセクション

作品データ

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作成日時 2021-01-03
コメント日時 2021-01-03
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2024/11/21現在)投稿後10日間
叙情性00
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2024/11/21 23時28分44秒現在
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