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究極の美、詩人とは変態である
みうらです。 田中宏輔氏が2017年2月に文学極道で発表された「全行引用による自伝詩」へ書いたコメントをまず転載する。 【以下転載】 http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/515.html#20170203_689_9423r 「日めくり」と「全行引用詩」は氏のライフワークであり、対になっているという。多くの賛否コメントがあるなか、私は、田中宏輔氏の毎月の2つの投稿作品に「文学への絶望感と希望感」をみる。そして毎月、楽しみにしている読者であることを表明しておこうと思う。田中宏輔氏が云われた。創作は「知的な遊び」だと。その表明が本意なのだろうか。田中宏輔氏へ質問したことがある。文学極道のサイトへ初めてコメントした時だ。その問いに対する田中宏輔氏の回答を、その後、ずっと大切にしている。文学への迫り。私は所詮、遊びの域だと自覚したから。その、回答を紹介しておこうと思う。これは、田中宏輔さんが詩のビギナーに対して思わず発した本音だと思う。 『思考は言葉で組み立てます。現実は言葉で組み立てられておりません。この違いは、埋めることができないでしょう。でも、なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。ぼくもしじゅう残念な気持ちを持ちながら言葉で詩句を組み立てています。しかし、言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います。そしてそれが、おそらくは、ぼくに全行引用詩を書かせている一因になっているのではないかと思います。ウルフの『灯台へ』は名作です。お知り合いの方に尋ねてみてください。ご存じの方なら、おすすめになられると思いますよ。ぼくの引用部分は、まさに部分で、作品自体は、傑作でした。絶望は文学にではなく、しじゅう現実の生活で味わっています。詩や小説を読んだり書いたりすることは、現実の絶望からの避難かもしれません。文学には、ぼくは希望しか抱いておりません。さいしょに書いた残念な気持ちを持ちながらも、です。』 ―文学には希望しかない、残念な気持ちを持ちながらも― 今作での引用された言葉 “>〈それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ〉〈もとはといえば、それが彼らの苦悩のみなもとだ〉” テキストだけでは読解はできない。作者を想像するしかないのではないかと思う。 “>人の心の邪まな情熱だけが、永く残る印象をきざむことができるのです。これに反して、善い情熱はいいかげんな印象しかのこしません。” 田中宏輔氏の情熱は邪まなのかもしれない。でも、それは人間らしいと思う。 【以上コメント転載】 田中宏輔さんがビーレビへ初投稿された。そこで、改めて愛読者として批評を書いてみたく思った。 そこで、新たな観点を得たので、述べてみようと思う。 ビーレビ一への投稿初作品からまずは引用。 (以下、詩の日めくり詩の日めくり 二〇一四年六月一日─六月三十一日 https://www.breview.org/keijiban/?id=6464 からの引用 ) 二〇一四年六月十日 「フォルム」 詩における本質とは、フォルムのことである。形。文体。余白。音。これらがフォルムを形成する。意味内容といったものは、詩においては、本質でもなんでもない。しかし、意味内容には味わいがある。ただし、この味わいは、一人の鑑賞者においても、時とともに変化することがあり、それゆえに、詩において、意味内容は本質でもなんでもないと判断したのだが、それは鑑賞者の経験や知識に大いに依存するものであり、鑑賞者が異なれば、決定的に異なったものにならざるを得ないものでもあるからである。本来、詩には、意味内容などなくてもよいのだ。俳句や短歌からフォルムを奪えば、いったい、なにが残るだろうか。おそらく、なにも残りはしないだろう。詩もまたフォルムを取り去れば、なにも残りはしないであろう。 (引用終わり) 詩の本質はフォルムであるという。これは田中宏輔さんに訊きたかったうちの一つ。つまるところ詩文へ創作者が残せる唯一のものはスタイルだろう。創作者が「どうやって組立てたのか」という仕様しか残すことは出来ないのだ。読者がキャッチしたその瞬間に作品は成立するとするならば、創作者が残すものは仕様のみ。では、田中宏輔さんの仕様・スタイルとは何ぞやということ。これを今回のビーレビ投稿作品から新たに発見した気持ちでいる。それが「変態」というもの。 (以下、引用元は上記引用作品と同じ) 二〇一四年六月八日 「セックス」 ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである。 二〇一四年六月九日 「フェラチオ」 二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら。 (引用終わり) セックス、セックス、フェラチオのオンパレード。 しまいには、、いや、ここでは出さないけれども、批評対象作品では、田中宏輔さんは小林秀雄とセックスしている的なことまで書かれている。 この批評文の結論をいうが、田中宏輔さんが詩で残されること、残したいそのスタイル(詩人の姿勢ともいうべきかもしれない)は変態であるということ、詩とは快楽だということ。今時の詩書きに多く見受ける、ミネラルウオーターのような無難で、どこかのキレイキレイした言葉を引っ張ってきて、はい綺麗に組み立てましたので詩人です的なハリボテとは違うのだ。ついでに言えば、ハリボテに乗せられてしまう視野狭窄な君、あるいは知識の使い道が自己愛にまみれすぎて難解解読好きの君はどう思う?君は変態ではないのか?詩を書くなんて変態なんだよ。いや、ちゃうな。究極の美的経験とは変態なんだよね。 最後に付記しておきたいことがある。こういうことはフォーラムに書いてくださいと言われるだろうが、所詮、みうらの戯言の域でしかないし、ご本人に迷惑な話かもしれないので、こっそり書いておく。 ビーレビの選考は全て無条件で田中宏輔さんにお任せするといい。田中宏輔さんはお引き受けされないかもしれないが。
究極の美、詩人とは変態である ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1593.9
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投票数 : 0
作成日時 2020-11-20
コメント日時 2020-11-20
創作している立場から言えば、こういったお言葉をいただけたことは誇りに思えました。ありがとうございました。書いたしりから、自分の書いた言葉を忘れてしまうようになりました。齢ですね。来年の1月10日に60歳になります。まだ書けるかどうかわかりませんが、読書だけは好きでやめられないでしょう。本と共に過ごせた人生で、悔いはないです。
1不躾な提言をしてしまいすみません。ダメ元で書いてしまいましたがもしも、ビーレビの運営の方々から選考をすべてやってくださらないか、正式オファーが行ってしまいましたら、迷惑な話ですみません。ただ、私は個人的に、200近くある毎月の作品のなかから田中宏輔さんがどのような作品を選ばれるのか、あるいは大賞になど該当する作品は無いと判断されるのか、その選考するセンスを見てみたい気持ちが大きくあります。なぜならば、賞という既に前時代的であり、その前時代的な価値観に浸食されてきた今時のネット詩に、一石を投じることが出来るのは詩誌でもご活躍される実績とネット詩の特性を知り尽くされていらっしゃる田中宏輔さんでしか成しえないことのような、そのようにして想像してしまう気持ちがありまして。 私にはクソ面白くもない詩という形態への愛着はありませんが、そのクソ面白くもない形態の詩を面白くしてしまえる感性を持たれた詩人には興味が尽きません。文学極道にはそういった感性を持つ、言わば狂気を呼び寄せる磁場があったと思います。田中宏輔さんの選考にその磁場がまた現れてはくれまいかと夢想します。勝手ながらも。拙き批評への返信ありがとうございました。
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