とある浜辺でいつか見た情景が、どこの浜辺に行っても思い起こされる。
あれは初夏の頃。西に落ちる太陽が白く、白く僕らを照らすなか、チャプ、チャプンと夕凪が立てる音ばかりが僕らを包み込んでいた――。
背後の松林では散歩中の老人が小枝を踏む音。
小さな一人娘が砂上をぎこちなく駆けて、母親はその姿を動画におさめながら微笑む。父親は娘が転ばぬように見守る。家族は太陽に照らされていた。
四十路を迎えたような二人はたぶん恋人同士で、彼に腕に手を回す彼女はピタリと体をくっつけて歩く。二人は太陽に照らされていた。
松林と浜辺の間に敷かれた石畳。そこで老夫婦は携帯用のコンロに火を炊き、ささやかな食事をする。言葉は少なく、情熱も感じられず、しかし太陽は二人を照らす。
現れたのはきっと五十を過ぎた夫婦。終始笑顔で寄り添い浜辺を歩く。そして二人横並びに座り、脇をつついたり、肩を叩き合ってじゃれ合う。輝く笑顔は太陽に照らされる。
――不幸なんてものが存在しないような勘違いをした。
あの浜辺には満ち足りた愛があった。松林を抜けた先は僕らの生きる世界があって、そこと切り離されていて、だから夕凪の音ばかりが耳にまとわりついて。
松林を歩く老人はどっちつかずで。
一人ぼっちの僕でさえ、他人の幸せを眺める幸せを感じて。もうこのままでもいいかなって思った。
いま僕が立つこの浜辺には、ビーチバレーを練習する人たちがいて、ツーリング帰りの二人がいて、その他まばらに人影があって。背後からは県道を走る車の音が鳴り止まなくて。そして真っ赤な夕日が今まさに沈みそうで。
一人ぼっちの僕は、一人ぼっちに甘んじている自分を恥じている。ただ恥じている。
あの浜辺で見た情景のひとつになりたくても、僕にはその勇気がなくて。そうしていま、一人この浜辺に立ちすくんで、沈む夕日を眺めている。
作品データ
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作成日時 2020-11-06
コメント日時 2020-11-18
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2024/11/21 23時19分01秒現在
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心に沁みますね。かつて幸せだった一人娘と両親。太陽は笑顔を照らしていたのに、いつかそれは無かったかのように自分たちの世界はかき消されたかのように変わってしまっていた。 だから、フェルマータなんでしょうか。沁みますね。
1遅ればせながら返信させて頂きます。 なぜ遅れたのかというと、(これは創作活動の面白みのひとつであるという意味で)自分が意図した内容と全く違う解釈をなされたので、逆にこちらがどういう意味だろうと考え込んでしまったからです。 それが今し方理解できました。 なるほど言われてみるとそうも見えるなとちょっと胸が弾んで楽しかったです(笑) コメント本当にありがとうございました。
0幾つもの砂浜に、それぞれまことの太陽が昇り、 (ランボオ『飾画』小林秀雄訳) そのときどきの太陽を沈めたのだった。 (ディラン・トマス『葬式のあと』松田幸雄訳) この詩の冒頭の詩句から、フランスとイギリスの二人の詩人の詩句を思い出しました。 つづく詩句は、書きなれてらっしゃるなあという感じがしました。うまいと思いました。詩の基本は、情景描写なのだと痛感いたしました。
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