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どうしようもなく生きていくということ
例えば鶏ガラでラーメンのスープを取る。内臓や付着した血を洗い流していく。そんな下処理を怠れば、飲めたものではなくなってしまう。だから丁寧にやらざるを得ない。言いようのない事や、やり場のない処理しきれない感情がわいてくると、僕は料理をそれも複雑な手順のものや菓子を焼いたりする。この作品の女もそうなのだろうか。それをしたからと言って作中にあるように、 >オーブンの熱では >歓喜や悲哀はすこしも減らない どうにもならないのだけれども、そうせずにはいられない事がある。答えはでないけれどもとりあえず、パイは焼ける、スープも出来上がる。それが美味かろうが不味かろうが、食べてしまえばとりあえず腹は膨れてしまう。 二連目で描かれた手順通り処理されていく猫の死体、失われた生命がビニル袋に入って陽光に輝いている様子には言葉にならないものがある。言葉にならない代わりにパイを焼く女の姿を僕は自分に重ねずにはいられない。繰り返すけれどもどうにもならないのだ。そんなことばかりなのだ。けれども黙ってパイを焼き、鶏ガラを洗ってスープをとって生きて行くしかない。もしかするとパイを、沈黙を分かち合える誰かがいたら、ほんの少し救われるのかもしれない。
どうしようもなく生きていくということ ポイントセクション
作品データ
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作成日時 2020-10-26
コメント日時 2020-10-31
私は生きるのが辛いと感じるとき、それでもやらなければならない掃除や洗濯などをひと通りこなすと、なぜか辛さが減じていることがあります。 掃除や洗濯をしているときはほぼその工程のことしか考えないし無心になれるというか、悩みから少し離れられるからだと思います。 料理とは全然違いますが、本質的な部分では通ずるところがちょっとあるのかなと思いました。 >もしかするとパイを、沈黙を分かち合える誰かがいたら、ほんの少し救われるのかもしれない。 やりきれないときの料理も掃除も、自分の世界というか、仰々しく言うと、自己検証の厳しい世界の只中だと感じていたので、この文には考えさせられました。分かち合える誰かがいたら、という可能性。『生きるためにパイを焼く』で作中人物として冒頭のみ「女」が出てくるんですが、むしろ語り手の存在感が前に出過ぎていないか、語り手が作中人物なり得ていないかということを感じたのですが、分かち合える誰かとして、一人ではないということを、無意識に描き出したのではないかと、これまたとんでもない妄想をしてしまいました。失礼します
1こんにちは。対象作品へのコメントでは書くのを避けたのですが、読む過程で思い浮かんだことと通じる部分がありましたので、以下に書かせていただきますね(^^) 「オーブンの熱」では「歓喜や悲哀はすこしも減らない」に違いない。だが、人の体温ではどうだろう。他者の体温ではもしかしたら変化があるかもしれない。他者の体温/肉体/いのちと触れ合う時、自分の体温/肉体/いのちにも変化があるのではないか。そうしてその時には「歓喜や悲哀」は増えたり減ったりするように思う。 以上です。
2>語り手が作中人物なり得ていないかということを感じたのですが、分かち合える誰かとして、一人では>ないということを、無意識に描き出したのではないか rさん拙文にコメントありがとうございます。引用させて頂いた箇所を読んでハッとして再度、作品を読んでみました。語り手と『女』を別けた構造にそういう解釈もできますね。
0分かち合うと言うことを具体的に考えるなら確かに体温や肉体の触れあい、なんかが考えられますね。たぶん、僕は食い物だから他人とわけられるよね、ぐらいに考えていたのですがその通りだと思いました。
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