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びりびりと聴こえるきしみ
ふつう我々は、人間の身体が空間の中にあってその身体が感知するもの(A)と、自律的に動く言語の体系(B)という、まったく異なる二つの原理をまたがって文章を書いている。 Aを書く場合、言葉として表出されるものは、もはや純粋なBではない。そこには言葉の外の領域が含まれ、「きしみ」となって表れる。 Bだけで書いた装飾された言葉の並びや定型句や比喩、それらの多くは現実との対応を持たず、ほどよくイメージを喚起する言葉をリズムよくつなげているだけで、そこからは身体と言語とのきしみはまったく聞こえてこない。 身体と言語のきしみが文章に反響しているかぎり、それは自我なんていうちっぽけなものでなく、人間の起源に向かいうる。具体的な題材として“人間の起源”を書かなくても、身体と言語のきしみが反響しているかぎりそこには身体にどのように言語が刻みつけられるのかという人間の起源が書かれることになる。反対にそのきしみが反響していなければ、文章で仮りに人間の起源を書こうとしたとしても、そこで立ち上がってくる問題は、身体と言語が安定した後での自我の悩みや憂愁みたいなものにしかならないだろう。人物が空間にどのように配置されているのかということが忘れずに書かれている文章には、身体と言語のきしみがどんなに小さくても必ず反響されている。 この作品において、リズムを刻もうという傾向にあるところは、Bによるところが大きい。それはそれで否定はしないが、大事なのは、伝記を祖父母の前で破るシーンであり、そこにはAも含めてこの作品の魅力の全てが込められている。 この破られる伝記は、作中の三人にとってさして重要ではないのだろう。これから捨てても構わないと語り手と祖父母のあいだでの共通了解になっているのだ。 しかしそれでも本の価値とは別に、誰かが書いたもののページを破る、その行為には少なくない後ろめたさが生じる。その気持ちは「ぼく」という語り手のドギマギさとぎこちなさを説明する文から伝わってくる。 反対に祖父母は笑みを浮かべている。語り手から心理状況まではのぞけないが、おそらく本(しかも伝記)のページを破るというその行為のおかしさ、滑稽さに笑いが止まらないのだろう。その感情は本人たちでもなかなか形容しがたいのではないか。 しだいに語り手が泣いたり喚いたりする感情も、すぐには理解しづらい。語り手は本を破る行為を祖父母に止めてもらえると思ったのではないか。もしくは他の反応が欲しかった。思いやりのような、愛情を期待していたのではないか。前の拙文に戻るが、語り手のドギマギやぎこちなさは、この期待の裏返しから来ているとも考えられる。 それでも祖父母が笑みを絶やさないのはなぜか。それは語り手の気持ちや心情の理解よりも、伝記を破る行為の滑稽さが未だに優っているからではないか。 ここまで書いて、当たり前のことに気がついた。語り手は緘黙である。程度はわからないが、ふだん言葉で思いを伝えるのが容易ではない。祖父母も語り手の心情の理解に苦労しているのだろう。伝記を破りたいという気持ちはそれに輪をかけて複雑な思いだ。できれば言葉を使って、説明したい。ところがそれはできず、いきなり本を破ることしかできなかった。泣いたり喚いたりの感情もその歯痒さから生じているのかもしれない。 これは赤ん坊や幼い子が泣いたりわけのわからないことをすることと似ている。そこに言語体系はない、身体が感知するものが、訴えかける泣き声などとなって表出される。言葉の染みついた大人たちは、はじめ理解できず、その「きしみ」を聴くこととなる。 私は伝記びりびりから聴こえた「音」ではないきしみがたしかに聴こえたのである。 末尾に、語り手が剽軽に笑う。祖父母の笑みに応えたともいえるが、本心からか建前なのかわからない。その答えはもはや言葉の外である。
びりびりと聴こえるきしみ ポイントセクション
作品データ
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作成日時 2020-10-14
コメント日時 2020-10-19
追記するのはフェアなやりかたじゃないと思うのですがどうしても書き留めておきたく。 祖父母の笑みは、語り手の心情を必死で理解しようとしているができない、困惑の笑みではないかということ。つまり困惑しているから笑ってごまかすことしかできないのだろうかと。 本文に載せられず、こういったかたちでの追記、ほんとうに申し訳ありません。
0批評文ありがとうございます! 言語化されないというか言語化出来ない感情を描きたかったので、言葉の外にあるものに注目してもらえて嬉しいです! ありがとうございました!
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