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People playing with dogs
――あまりにも長く人であり続ける、というフレーズが浮かんでから、ずっと、あまりにも、の意味を考えている。人の間を離れて、人でないものの間に入っている時期があった。動物達は、短く死んでいく。場合によっては、殺されていく計画的に。私たちは、人は、あまりにも長く人であり続ける、ことの重さを考え続けている間にも、また、人以外のものは計画的に殺されていくの私は知っている。人であり続ける、一瞬でも良いから、人でないあり方に、ありたい、と、思うときに、動物達の寝息が聞こえる。あまりにも長く、長く、人が人であり続ける、覚めている間に見る夢は、本当は見ることができないもので、それは現実でしかない。だから、ずっと夢を見ている。――「沈黙を集めた鉱物の名前と人の息の長さ」なまえをたべたなまえ著より引用 (犬にも生きる権利を) 犬と遊ぶことをたのしいとは思わない。 犬は犬でしかないからだ。 人と犬の違いについて考察すれば、 人のあまりの英知に気付き、 犬の粗野な振る舞いを嫌悪する。 純真とは何だ。 犬が純真だというのか。 人の純真ではない。 犬だ。 人ではない。 犬だ。 吠えるな犬。 どいつもこいつも同じ、犬だ。 四つ足でうろつき、臭いをかぎまわる。 四六時中、食べ物を欲しがる犬。 不思議なくらいに飢えている犬よ。 ちくしょう、お前。 かまってもらって尾を振る。 人に飼われる犬。 首輪とリードをつけられ、 得意げに自慢げに首をのばす。 せわしなくうろつく。 おりこうさんなのか、動きをとめた。 さあ、喰いつけ、飼い主の敵に喰らいつく。 うつろな目をして喰いついた犬。 これが本性なのだな犬よ。 得意げな顔。 得意げな顔。 生れついての犬よ。 アメリカでは長い間、白人と有色人種が同じプールに入ることはなかった。
People playing with dogs ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1701.2
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2020-10-07
コメント日時 2020-10-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
私も実家で犬を飼ってますが、犬にとって幸せは何なのかずっと考えています。「可愛い」という台詞はこちら側から見て相手が攻撃しないという安心感があるからこそ、言えるんですよね。 仮に唸っている犬の居るオリの中に居たとして、その犬を可愛いと本当に言えるかは私にはわかりません。 「絶対、可愛い!」と言い切る人も居るのでしょうけどもそういう人は動物の本性をわかってないんですよね。 非常に考えさせられます。
1くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)さん、お読みいただきありがとうございます。 犬を批判する文章にちからを入れ過ぎてしまったようです。僕は、犬が人間とは性質の異なる存在だと書きたかったし、犬の人間の性質によく似た部分を、読者に自己投影してもらえるような文を書きたかったのです。 大抵のひとは犬を見て、犬という記号としかとらえません。リアルな本質には触れようとはしません。その関係性においても深く考えることをしないでしょう。 犬と人間には存在の特徴に差があります。それは人間同士においてもあります。性質の違う人はたくさんいます。 僕は人種差別に反対です。日本人が中国人や朝鮮人、アジア系のひとを軽く見る風潮にも反対です。でも、差はあります。民族・文化・宗教にもとずいた歴史的な差で、日本人と中国人の考え方は違います。 社会通念上、人間と動物の間には線引きがなされています。 僕は牛や豚や鳥が大量に生産され、殺されていくことを可哀そうだと思いますが、食欲があり、ベジタリアンになれません。新薬の実験台としてネズミや猿などが虐待されています。人間の繁栄のためにです。とても残念なことですが。
0修辞基礎を踏まえてよりの。 現代社会の包括する問題意識を抉り出す、筆致に、到底敵わない、と。憧れにも似た感情を懐きました。 流暢な語り口は、既に完成の域に達している、とも(朗読に耐え得る水準に在ると思われます)。 「犬」とは言及するならば私ではないのか、と読者自身が自を疑う様に、絶対的優位者である筈の読者の安全圏を侵犯する、構造を付帯し。 謂わば現代前衛表現の領域に於いての前提条件である、予定調和的関係への懐疑-解体に基く、 シニフィエの液化-混淆、或は蒸発が読了と共に訪れる、かの如く。 巧みな忌々しさを、堪能させて頂きました。
1最終連に『アメリカでは長い間、白人と有色人種が同じプールに入ることはなかった。』と置く構成が、この詩の伝えたい部分を強く押し出してくれていて分かりやすく思いました。言語によって引いた、「犬」という記号をひたすら愛でる人間の姿。また、その記号的生活に甘んじて、人間に愛想を振りまく犬の姿は醜い。たしかに、お互いにわかりあっているようで、これほど大きくすれ違っている関係性はなかなかないなと思いました。しかし、深尾さんの言葉が、引用部分に大きく引きずられていて、引用勝ちの印象がしました。 また、真に「犬」とつきあうためにはどういった態度で人間は「犬」に向き合うべきだと思いますか。ぜひこの詩の書き手である深尾さんから伺ってみたいです。 ぶしつけながら、コメント失礼します。
1お読みくださり、ありがとうございます。拙作をお褒めいただき、とても嬉しく思います。 蔑視というのは、確実に存在するものです。そこを隠さず提示して問題提起してみました。 引用部分とのバランスですが、引用部分の内容が重要だと僕は考えています。 物のように消費される命があること。 その核として蔑視があるということ。 そして最後に、人間の範囲のなかでも蔑視がおこなわれていることを表現したかったのです。 「人間が人間以外のものとされ、選ばれた人間により消費される」 世の中がそうならないように願っています。
0お読みくださり、ありがとうございます。 引用勝ちの印象とのこと。もっともです。 真に「犬」とつきあうためにはどういった態度で人間は「犬」に向き合うべきだと思いますかとのことですが、僕は、犬好きの人が実際におこなっている対応のままで充分だと考えています。 現代社会において人が生きるということは、人と人以外のものに区別をつけることから生産がスタートしています。これが簡単に割り切れるのには、キリスト教の影響もあると思います。ピュアな仏教徒には及ばない考え方です。 僕は動物愛護の立場です。 そして人間には人権があると信じたいと考えています。
0お読みくださり、ありがとうございます。 二項対立にしたかったのです。 それだけです。
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