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記憶をつくる
日付は変わり 2020年 9月11日 金曜日 時刻は午前零時を回りました ラジオ深夜便です NHKの村上里和アナウンサーが、ニュースのあとに始められた、"旅してみたい" のゲストである旅のエッセイスト、岸本葉子さんとのミッドナイトトークに耳を傾けていると、詩人の長田弘さんの詩にたしか、記憶とは過ぎ去らなかったもののことなんだというのを詠んだことがあって、ほんとうにそうだなあと…そんなことを岸本さんが話し村上アナウンサーとお互いにうんうんと頷きしばらく盛り上がった。聴きながら頷く私の記憶の扉がどこかで開いたようだ。 そういえばこのラジオはかれこれ30年近く前─1990年代初頭─たしか日も落ちたばかりの夜に立ち寄った近所のマツヤデンキの二階でなにげなく手にし買ったものだ。 松下電器 - National Panasonic製の、"made in japan" と黒のカバーに刻まれた小型電子レシーバー。今でも現役であり、単三電池二本で使用できる完動品である。電化製品はさまざまにあり、いろいろと買っては使いの繰り返しだけど、モノとして長く残ることはリアルであれネットでの購入品であれまれだ。リサイクルショップなどに入れば一目瞭然。 だからかこのPanasonicのラジオは私には宝物やレアものといった感じがしない。大事に丁重に扱っていたわけでもなくメンテナンスといったこともなにもせず、埃が目立てば本体の表面全体を時折軽く拭くだけだ。腐れ縁というやつだろうか。心地よい関係だ。電池を抜けば小鳥の亡骸を思わせるプラスチックの軽さがあるだけだが、裏側のカバーを外し電池を挿入すると手のひらの上にずっしり内蔵を感じさせるのがいい。電池切れになれば死んだようにデジタル表示の窓から情報の一切が消えしばし御臨終となる。 マツヤデンキはとっくになくなり、跡地にはパチンコのマルハンが建ったが現在はコロナで休業中か時短営業中である。 あの青い空の波の音が聞こえるあたりに 何かとんでもないおとし物を 僕はしてきてしまつたらしい 透明な過去の駅で 遺失物係の前に立つたら 僕は余計に悲しくなつてしまつた 「かなしみ」 谷川俊太郎 白い頁に縦書きの表記によって綴られていた、米粒大ほどの黒いインクの文字群は、往還を繰り返す私の眼の網膜によってとらえられていながら、けして触れることはできず、私の中をいつまでもふわふわと浮遊するかのように散らばり、文字群と私を隔てる何かがありながら、いつしか、私のあらゆる部分は、だんだんと文字群をすり抜けて頁の紙に沈みこんでいき、手の中の海をわずかに吹く微風を受けて進む、一艘の小さな船となっていました。レジで海を差し出して、お小遣いとして持っていた中から代金を手渡すと、書店専用の紙袋へ入れられた海を店員から受け取り、店を後にしました。その時の季節がはっきりとしないのですが、出口から踏み出すと音のない世界に降り立ち、街並みにうっすらと茜を染めていた、真っ直ぐな光を放射しながら、遠くかすむビル群へと埋もれてゆく夕陽へ向かうように、私は家へ帰りました。 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去った もののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。 じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌と なってきたものは、記憶だ。 「記憶のつくりかた」 長田弘 思い返せば小学生のころにまでさかのぼるようです。国語の教科書に載っていた、授業で取り上げられた作品の一つで、そらまめというタイトルだったかと思いますが、作者の名も内容ももう思い出せませんが、青空に高々と浮かぶ大きな一粒のそらまめ、土手の叢の中に立ってそれを見上げている、そんな絵画的でのびやかなイメージ、それが今でも強く印象に残っています。そらまめはフランス語でフェーヴと言い、そして幸せの象徴だそうです。鮮やかな緑と艶やかさが眼にも美味しく、私も好きな植物のひとつですが、大袈裟な感じがしなくもありません。なぜなのかはわかりませんが。けれども少しはわかる気がします。詩についてなどわからない、幸せについて何かを答えることなどできないのですが。 海をまえにするとき、言葉は不要だと思う。 わたしはただ海を見にいったのだ。海ではなかった。 好きだったのは、海を見にゆくという、じぶんのためだけの行為だ。 「海を見に」 長田弘 両の手のひらを重ね合わせたぐらいの厚さがあり、見た目の分量よりも重く感じられました。くすんだ生成色のカバーに、白黒のやや粗い調子で刷られていた、年配の男の顔写真に見覚えはなく、背表紙の部分に彩色された、熟しはじめた柿の実を思わせる色がほのかな暖かみを伝えていました。明朝体だったかによる墨色の文字で書かれた、現代詩手帖-谷川俊太郎という、その語感のなめらかで明朗な響きを持つ人物の名は、身のあちこちをまだ幼い利発な子どもが無性にくすぐるといったようでした。増刊号だったか別冊だったか、頁を繰れば谷川俊太郎という人の詩が、他の幾人かや本人による、それぞれの作品や谷川俊太郎という個人についてのコメント、解説や批評らしきものを挟みながら紹介されていて、一頁目だったか、数頁ほど繰った先の頁だったかに載せられていた、ほんの数行の一つの詩を、気づけば私は繰り返しなぞるように追い、 ひとはひとに言えない秘密を、どこかに抱いて暮らしている。 それはたいした秘密ではないかもしれない。秘密というよりは、 傷つけられた夢というほうが、正しいかもしれない。けれども、 秘密を秘密としてもつことで、ひとは日々の暮らしを明るく こらえる力を、そこから抽きだしてくるのだ。 「路地の奥」 長田弘 そういえば。 昔に文学極道に自分の作品を投稿すると、浅井康浩さんが批評のコメントをくれたのだった。 たしか単純に散文を書く際の細かな描写についてだったように思う。ものの質感なりをもっと極めて重ねていく、そうした指摘の一々が強く印象に残されたのだったか。 ">通りに出ればすっかり夕暮れ時で/車や人が行き交う雑踏のなかにいるはずなのに" ">音のない静かな世界に降り立っていて/遠くからうっすらと街並みを包み込んで燃える" という「新しい感覚で見つめた世界」を出現させるための書籍」の描写が平凡。 ">生成のカバーを掛けた端正な本" ">手にとるとひどく分厚くて重量感があり" ">表紙には白黒の粗い調子で焼かれた初めて見る人の顔写真" ">背表紙かどこかの一部が橙に彩色されていて" ">黒い文字で現代詩手帖-谷川俊太郎と刷られていました" これではただの説明にすぎない。誰でも書ける。 感覚に訴えるのは「重量感」だけで、あとはただの文字の羅列。 ここで必要なのは、「いま・ここ」という一回性の「アウラ」がもつ神秘性をいかに表現するかということであり、その書物が、私にとって、 ">音のない静かな世界に降り立っていて" というような、新しい体験に導いてくれたのか、という「本の魅力」を、書ききることだろう。ただの説明で終わっていいわけがない。 たとえば、本を隅々までながめて書くこともできるし、 『世界誌』は本来の装丁ではないようだが、それでも数百年にわたる利用で古色を帯びていた。斑点のある薄茶の革は、指先でふれるとひんやりとして、凹凸はありながらも輝いて見える。わずかに傷のある背は、今もなお金箔の装飾と文字によってきらめいている。背の一番上に私か差しこんだ革は、もとの革の色とほぼ完璧に調和している。本文ブロックの赤く染められた小口か表紙の間から燃えるように輝く。 ページをめくりなから、装飾した頭文字か入っていたらどんな感じだったろうと想像し、やわらかな紙の手ざわりをほれぼれと味わう。紙の表面に刻まれたかすかな模様のようなものは、本文紙をフェルトで挟んでプレスしたときにフェルトの毛羽か押しつけられた跡である。有害な添加物をいっさい使わない時代に手漉きされた紙は、印刷された目のままのクリームかかった白色を保っている。櫛で繊細な模様をつけた見返しのマーブル紙は、磨かれてつややかな光沢を帯びているが、模様がさりげなくふぞろいだ。 (「古書修復のたのしみ」アニー トレメル ウィルコックス) あるいは、感覚に頼ることもできる ページを見て、手で触って、紙のこすれるかさかさという音や、本の背がたてる不吉な軋みの音を聴き、木でできた棚のにおいや革の装丁か立ち上る麝香のような香り、黄ばんだ小型本のつんとくる匂いを嗅ぐ (「図書館」 アルベルト・マングェル) 最初の部分で、ただの説明になると、全体に締りがなくなってしまう。 ('13/06/14 11:07:34) 鳥 : ♪浅井康浩様 他の方々のレス内容を含め、やはり同じようなニュアンスの指摘がなされていると思いました。 薄れている過去の事柄についてなので、前半に詳細な記述はしないほうがよいかなという感じでしたが。 端正なといった言葉など、気にはなっていましたが、安易すぎました。 見直したいと思います。 詳細な御批評と書物に関する文章ともども、参考にさせていただきます。 ありがとうございました。 ('13/06/14 16:08:31) 作品は、詩に関するわたしの原初の記憶について、だった。 脳科学者の話では、記憶とは記憶しているだけではだめで、 記憶している知識を使えば使うほど、記憶は冴えるのだそうだ。 たしかにその通りで、このごろ賢治(宮沢賢治のこと)についての 知の記憶は、頭の中で眠っているうちにぼんやりして来ていた。 いい機会を与えてもらって、それが、多少活性化した感じがあった。 「記憶」 岡田隆 それは、一冊の海だった。
記憶をつくる ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1352.1
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2020-09-11
コメント日時 2020-09-11
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
訂正 本文中の *岡田隆 → 岡井隆 です。失礼しました。
0本作にある書籍の翻訳者名をこちらに明記いたします。 •(「図書館」アルベルト・マングェル 訳 野中邦子) •(「古書修復のたのしみ」アニー トレメル ウィルコックス 訳 市川恵理)
0ラジオ深夜便 https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=0324_04
0*本文の一連にあります、 >そんなことを岸本さんが話し村上アナウンサーとお互いにうんうんと頷きしばらく盛り上がった。 の箇所ですが。正しくは、 >そんなことを村上アナウンサーが話し岸本さんとお互いにうんうんと頷きしばらく盛り上がった。 です。反対にしていました。大変失礼致しましたm(_ _;)m
0• お断り #を付けておりませんが、本作品「記憶をつくる」は、諸事情によりビーレビ杯不参加作品ということで宜しくお願いいたします。 なお、運営者様へはこの旨をメールにてお伝えしております。 申し訳ありません。 湯煙
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