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推薦文(『一定再見』五木 國重氏)
久しぶりに推薦文を書こうと思う。五木 國重さんの詩作品『一定再見』についてである。私はこの作品に魅了されており、良い作品だと思うし、私自身がもうちょっとこの作品を深く読みたいと思うから。 タイトルの「一定再見」は私の推察通り中国語であるとのことだった。私は中国語の知識が少しだけあるから辞書を引くことができる。それで調べてみた。ピンインは「yiding zaijian」、発音は「イーディン ザイジエン」に近く、意味は「きっとまた会いましょう」になる。優しさを感じる言葉である。この言葉は作中六行目の「さよなら」とは区別され、また会うことができることを暗示しているように私には思われる。 一行目の >言葉の解像度を極限まで下げて とは、言葉がその機能である「分かる」ということを失う寸前まで行くと、ということになろうか。主語は「私」か「私たち」であろう。意味を取るのにけっこう頭を使う一行である。この一行が、以降この作品の最終行までの条件になる。 第二連、第三連、第四連に以下のような括弧でくくられた言葉が合計九つある。番号を付けて挙げると、 ①「あれは異邦人」 ②「あれは異国人」 ③「それならまたいつか」 ④「あれが毎日」 ⑤「あれが日常」 ⑥「それが羨ましい」 ⑦「あれが街」 ⑧「これが街」 ⑨「それこそ架空」 これらの言葉は「私か私たち」の心に聞こえてくるものであり、またこれらの言葉を発するのも「私か私たち」であろう。この作品には、第一行目で条件付けをおこなった者の他に言葉を聞いたり発したりできる者はいないと考えられるから。 次に、この作品の舞台はどんな場所であろうか。「街」であることはすぐ分かる。それから、タイトルから推察すると、中国に関係がある「街」であるように思われる。作中にはいくつか、これがどんな街なのかイメージさせてくれる語があるが、最も強く見えるのは「ネオン」という語であろう。だが私はこの作品の舞台がどんな街なのかを具体的に考えて示すのは見送りたい。文面から、作者はそんなことを読者に望んでいないように感じられるし、かえって曖昧なイメージを受け取られたいと望んでいるようだから。イメージというものは曖昧であってこそ効果を発揮するものでもある。しかしおよそものを書く者の頭の中には、前提として具体的な事物が思われていなければならないと私は考えている。 この作品の最も良いと私に思われるところは、一行目の条件付けがなければ、結局何のことはない、ただの或る街の描写に終わるだろうものを、一行目の芸術的条件付けによって、見えなかった、或いは聞こえなかったことを感受可能にしているかのように思わせているところである。「言葉の解像度を極限まで下げ」ることによって、言葉の解像度が高かった場合には感受不可能だったものを現出するという筋立てがおもしろい。ここに存在する段差がおもしろい。 最終行で >一切は空に消える 今までの人為的感受が「消える」のだから、痛快で、さびしくもあり、またむなしさが何倍も増している。
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作品データ
P V 数 : 1430.9
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2020-08-29
コメント日時 2020-09-13
まずは推薦文を書いてくださったことにお礼を、そしてそれが遅くなってしまったことに謝罪を。 なにぶんこのようなことは初めてですので、非常に感銘を受けております。やはり肯定的な評価があるというのは嬉しいものですね。そしてそれが自分も一等気に入っているものに向けられたものならば尚更です。 しかしその内容については、こちらからはあえて何も言わないでおこうと思います。 やはり明示してしまえばそれが本当になってしまうわけですから。 最後になりましたが、当詩を読んでいただきありがとうございました。
1『一定再見』は語らずにはいられない良い詩でした。 でも何でも、書かれたものは書かれた文字そのままに静かに受容されるのが良いとも思います。 「読む」ということは難しいことだと、また、思いました。
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