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海老と七夕
ベランダからチュンチュン、とすずめの声が聞こえる。室外機の陰にいるのだろうけど、部屋の中からだとよく見えない。糞でもされたら困ると思いカーテンを勢いよく開けると、すずめは軽やかに飛び立っていった。きっと巣に帰るのだろう。旅行をするとやっぱり自分の家がいちばんだと気がつくように。今いる場所を去るときにぼくらは必ず背を向ける。それは人間もすずめも一緒だった。きょうは七月七日。ちょうど来年の今日、ぼくらは別れることになっている。どうでもいいことだけれど空はとても曇っていて今にも雨が降り出しそうだった。ご飯よ、と彼女が呼ぶ。ぼくはていねいに手を洗う。 お昼の塩焼きそばは、海老、ピーマン、エリンギ、エノキが入っていて、南蛮人が踊っている絵皿に盛られていた。ニンニクがほどよく効いている。向かい合って食べると新型ウイルスに感染するリスクが高まるようなので、ぼくらは最近横に並んで座っている。テレビでは東京で新たに100人以上の新型ウイルスの感染が確認されたと伝えている。まばたきした瞬間なぜか三時のヒロインがつけ麺を食べていた。彼女がチャンネルを変えたのかもしれない。今日もぼくらはどこにも外出しなかった。この部屋に外の空気を運んでくるのは、室外機だけであった。 ぼくは海老があまり好きじゃない。それでもなんとか食べられるのではないかと口に入れてみたけれど海老の体内にあった何か固いもの、それが奥歯にジャリっと当たった瞬間、冷や汗がブワッと噴き出してきた。額から首元まで血の気が一気に引いていく。口のなかで酸っぱい唾液が充満し、指先はどんどん冷えていった。大丈夫だよ、と彼女が言う。大丈夫ではないのだ。だってぼくらは別れてしまうのだから。元気になりますように。病気になりませんように。無事でありますように。誰かに殺されませんように。平和でありますように。みんな幸せでありますように。彼女と別れる運命から逃れられますように。もうこれ以上、誰も死にませんように。奥歯で噛まれて死にませんように。僕も彼女も楽に死にますように。まっしろな便器を見つめながら彦星と織姫にお願いをしていた。 目をつぶりながら、焼きそばに入っていた海老が胃をさかのぼって口から飛び出してくることを想像していた。口腔から外の世界に戻れば、海老はちゃんと元の海老のかたちに復元されていく。ぼくは海老に「たましい」という名前をつけた。サラダ用に売られていた冷凍の「たましい」は、近所の狛江にあるスーパーに並んでいた。スーパーから出発したトラックはぐんぐん羽田線をバックしたまま走り、神奈川県厚木市の工場に吸い込まれていく。さらにホーチミン発羽田着のバンブーエアウェイズ903便に乗り、ホーチミンよりもっと南にある、薄汚れたゴミだらけの沖合へ運ばれていった。「たましい」は養殖育ちだった。ふるさとの茶色の沖合に投げ込まれ、多くの兄弟に囲まれた「たましい」は、自分がどうやって生き返ったのか分からない様子で困っていた。同じく彼女もまた困った顔で、たましいを吐き出して背を向けているぼくを見つめていた。 少し休んだらだいぶ気分が良くなった。それでももう限界だった。ていねいに手を洗ったあと、ぼくはベランダの室外機の上に乗った。バランスが悪くすこしぐらぐらしているから、それは踊っているようにも見えた。ぼくはこの部屋から飛び出し、ぼくがぼくになる前のことを想像した。ここに住む前は大船に住んでいて、その前は千里中央だった。それ以前はどこにいたのだろうか? 社会人、学生、幼児、そうしていずれ母の子宮に綺麗に収まるのだろう。そしてぼくがぼくではない、名前のない何かの一部になることはとても美しいことだと思った。それは春に降り注ぐ太陽の光と似ていた。そして、もう手を洗わなくていいのだ。まばたきをすると、曇っていたはずの空に星が見え始めた。彼女がチャンネルを変えたのかもしれない。ふと見ると足元にすずめがいて、チュンチュンと鳴きながら糞をしていた。
海老と七夕 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1515.4
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 19
作成日時 2020-07-07
コメント日時 2020-07-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 0 |
前衛性 | 1 | 0 |
可読性 | 4 | 0 |
エンタメ | 2 | 0 |
技巧 | 4 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 4 | 0 |
総合ポイント | 19 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0.5 | 0.5 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 2 | 2 |
総合 | 9.5 | 9.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
海老のなかの硬い物を噛んだ瞬間から不安が爆発する様子がなんとも響いてきて、なぜかぞくりとしました。何故、ぞくりとしたのだろうか。海老に「たましい」となづける四連目の語りはとても引き込まれました。海老も生物であって魂があってもいいのかもしれないが魂は人間だけにあるのかもしれないし、それは傲慢かもしれないし……いい詩だなぁ、と思う反面でチュンチュンという雀の鳴き声の擬音が少し引っかかりました。確かによく言われる擬音なんですが口語のなかでチュンチュンとあんまり言わないからですかね。何度か読み上げるなじむのですが。もう少し読み込んでもう一回コメントしたいと思います。
0帆場さん、こんにちは。 コメントどうもありがとうございました。 すずめの鳴き声が気になったということですね。 何度も読み上げてくださったということで、 帆場さんはとても親切な読み手ですね。 改めて読み返してみて、ていねいに読むような作品ではないのが申し訳ないです。
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