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〈安閑夜話〉 雨の橋
〈安閑夜話〉 雨の橋 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2466.5
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2020-06-26
コメント日時 2020-07-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩と写真が対応して居る様で、8行目が印象的でした。猫は猫、虫は虫・・。シーザーの物はシーザーへと言うフレーズを思い出しました。雨の橋、虹の橋など写真と相俟って、安易な抒情性にもたれかからない姿勢を詩から感じました。
0自分の場合、牛を屠畜や安楽死させる手伝いをやっていたので、虹の橋云々を考えないようにしていました。 子牛を取り上げたその日のうちに別の牛を死なせていますし、大体一年に何頭も死なせるのでキリがないし。 人と動物の差は大きいです。大きくないと日常が成り立ちません。 (あくまで元牧場従業員の意見ですが) 確かに駆除された害虫はどうなったのでしょうね。 鈴木夜道さんが初めて駆除されたその後をこの詩で言及したと思います。 雨の橋、あまり悪いものではないようです。
0こんにちわ。作品とても面白く読ませていただきました。 これは個人的な好みの問題になってしまうかもしれませんが、重い主題(僕としてはとても重い主題のように感じたのですが)をあつかえば扱うほど、ギャグの要素が大切だと思っています。(伊丹十三の『お葬式』のようにと言ったらよいのでしょうか)読み手がギャクだと思わなくとも、そのような要素がある、ということが大事なのではと思います。それゆえに、読んで「ああ、そうだよなあ」と感じ入る部分がありながらも、「これを書いてて楽しいのかなー」と思ってしまう頓狂なわたくしもいて、なかなかなかなか難しいなあと思わされてしまいました。 ただ、『人がそればかりを思いふけるこの夜に』などは含蓄があって、はっとさせられた部分も多々あります。上記に書いたことどのように思われているのか、少し気になった詩でした。とてもいい詩でありながら、僕個人とは価値観が違う方向性を持っているではないかと思った次第です。
0エイクピアさま 胸の悪くなるような写真と 陰々滅々の文章におつきあいいただけまして ありがとうございます。 猫は猫 虫は虫 男は男 女は女 黒人は黒人 他者は他者 自己は自己 皇帝の物は皇帝に── 混沌の世界にいまわたしたちが 《服従と義務》についての 何度目かの教訓をえようとしていることは 確かではないかと思えるのです。
0羽田さま こんばんは こちら東京 雨の真夜中 害獣たち害虫たちがつらなって 今夜も“雨の橋”を 渡ってゆきます。 アイヌの人々はイオマンテの儀式にて ヒグマの魂を神の世界に返す という「名分」において屠殺し 皮と肉をいただきものにして 生をつないでいました。 かたや現代の養鶏牧畜の現場においても 大切に育てた鶏や牛馬や豚や羊に 神々の世界にお帰りいただくための 「儀礼」の心は そのやり方はちがえども つくされていたことでしょう。 虹は雨気があってこそ生じて輝きます。 雨の橋のむこうは きっと晴れた空です。
0白目巳之三郎さま どうもこんばんは 面白くご覧いただけまして 亡父も喜んでいるかとぞんじます。 おっしゃいますように 死という最重量級な主題におきまして その存在の不在・亡失の悲しみを 最大限に引き出すためには 対位法的ともいえる 軽妙かつ軽佻浮薄なギャグ要素や 適度なペーソスをまじえてこそ…… ではあるのですが ここにおきましての「死」は わざわざ“虹の橋”などと 死別他界を美麗で安寧な境地だと称揚もせず 「死」へのみちゆきは 降りかかる雨で濡れかかる体に 軽い憂鬱といらだちの傘をさしながら 川面も見ずに渡りきってしまうような 嬉しくも悲しくもない あっけない“雨の橋”として 生と死の境界は無く 生と死は「同じ」ではなかろうか…… という愚にもつかない妄想の断章でありました。 「これを書いてて楽しいのかなー」 という述懐をいただけましたが 当初、愛玩される特権をもった 愛らしい小動物のみが 家族だ権利だ尊厳だと称揚され 順当にくたばったその死にざまを 「天使になってお空の虹の橋を渡ったの……泣」 などという欺瞞に辟易として書きはじめたものの あの粘着シートにへばりついたドブネズミや 薬剤にひっくりかえるハサミムシや 悪魔よりも忌み嫌われるカメムシたち害虫が そぼふる雨のなかを 桁の低い沈下橋のように 濁流がすぐそばに流れる道を 淡々と渡ってゆく姿を見つけるにいたり 結局は虹の橋も雨の橋も目的地は同じであり 生という場所も死という場所も 実は同じ敷地であり ひいては目的地すら「無い」のではないか── という狂想に遊ぶことができ 楽しい時間だったことは確かなのであります。 ただ 害虫は数あれど 害虫界の首領 ゴキブリだけは許しがたいのです。 何しろわたしはゴキブリに 「食べられた」ことがあるのですから。 足をむき出しのショートパンツで スマホのゲームに熱中していたある夏の夜 毛ずねに一瞬チクリと 刺すような痛みが走ったものの瞬時に 「蚊か何かの小虫かな?」と思うだけで 画面の中の殺し合いに夢中だったその0.5秒後 ブスリ…メリリッ…! 差し込まれる激しい痛みに驚き脚を見ると 丸々黒々大きなゴキブリがわがすねを噛んでいる いや食うているではありませんか。 声を出すより何より脚を振っても離れてくれず 中指でバシと弾き飛ばして 食事は中断できましたが こんなことってあるのでしょうか。
1非常に強い力を持った言葉ですね。 ひょっとすると写真がなくても言葉で伝わるかもしれません。 写真集に短い言葉が添えられた本を目にすることがよくありますがそのような内容よりもよほど強く心に突き刺さります。 堤玲子さんの「わが闘争」を思い出しました。 あの本と同じくらい強い言葉の力を感じたのだと思います。
0かずや さま お言葉いただけましてから 日は過ぎてしまいましてすみません。 弱くかすかで 目の細かくなよやかで 肌触りにやさしく 散りのあった 鏡面ガラスのつややかさが 言葉になければ 居場所がない時代ですよね。 一枚の「写真」がもつ力が 1/1000枚から 1/100000000枚と 膨大な点数の分母に割りきられてしまい ゼロに近づいてるいま。 「癒される写真」以外の価値は認めず 「癒される言葉」以外の価値は求めず。 非力な一点画像にも 浅慮な一万語くらいあわせれば なにかの鈍痛ともなう表現になればと 俗に言う「匂いづけ」として 亡父の死化粧直後の写真を添えました。 安楽死を認めるは 生の優劣、死の取捨選択の鬼畜道。 優生思想だナチスだヒトラーだと あいもかわらぬ「お題目」だけで 現実に直面する当事者らの苦悩から 決めつけの逃げをうつばかり。 人間様のお眼鏡にかなった畜生様 犬猫小動物らは猫可愛がり こにくらしくも 獰猛危険不潔毒害不快およぼす畜生たちは 苦虫を噛み潰すように叩き殺し 根絶までさせようとす。 決めつけるなといいながら 決めつけることに血眼の我ら。 堤玲子「わが闘争」をあげていただけましたが 恥ずかしながら未読でしたので 絶版で中古文庫を入手しひもときますれば 地域差別 女性差別 職業差別 不具者差別 梅毒業病の遺伝の血統差別 駐留軍のニガー差別 などなどなど これでは復刊されたのがせいぜい70年代末までで それ以降、どんなに文学的価値をかかげても 必ずどこかで炎上必至の全文差別語のこの作品が 世に出ることはまずありえない作品ですね。 このほど無頼を張れるような 血と脂と泥と哀しみにまみれた人生にはほど遠く フツーの団塊ジュニアの フツーの日本人に生き暮らしてきた 我が人生にこのほどの力はありませんので なにより過ぎたるお言葉でありました。 作品より、梅毒の遺伝で頭が弱く 色気違いの姉 秋野が好んで歌い踊る猥歌をあげて お返事といたします。ありがとうございました。 うちの母ちゃん 洗濯好きよ 夜の夜中に竿さがす 竿さがす 嬶(かかあ)の腰巻と便所の戸ォは あけてくさいけど せにゃならぬ せにゃならぬぅ
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