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平等
本当に人々を平等を称えるならば、最も本質的なのは、男女平等や貧富の平等、人種の平等ではなく、醜美平等ではないのか。 実際の社会に於いて、人の扱われ方の差に最も起因しているのは容姿ではないか。営みのあらゆる要素を還元すれば還元する程、物事は醜美で決まっている。「いや性格こそ真に重要だ」と異議を唱える方もいるだろう。しかし、還元すれば性格すら醜美で決まっている。当然である。同じ事をやっても、醜美の違う者では、環境の受け取り方が違うのだから。なら、どう生きればいい。「全ての国民は法の下に平等」を掲げる憲法14条にすら、容姿に関する言及は無い。 私は何もそれを平等にするつもりはない、そもそも人が平等である事自体不可能だと思うからだ。しかし、"平等"の大義名分が余りにも的外れに乱用されるのを見ると、もう少しこの本質的視点に気づく人が増えても良いのではないかと思ってしまう。こんな新たな視点を発信する機会と影響力さえあればと願う。
平等 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1209.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 6
作成日時 2020-04-24
コメント日時 2020-04-27
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 3 | 3 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 6 | 6 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 3 | 3 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
醜美ですか。でも大抵物事は私プラス公で成立すると思うので、一見容姿が根底にあるように見えても私プラス公が縦の構図ならば、既に私(わたくし)の事情で容姿だけでは済まない事情が生じているのだと思うのです。その根底の容姿だけでは済まない事情エックスが公(おおやけ)と繋がるのだと思うのです。勿論、そのエックスはその人にしか分からない公(おおやけ)の事情なので騙しているようなニュアンスを社会に与えて仕舞って当人も心理的にやり辛いでしょうが。横のつながりで容姿だけでは済まない事情がその人に生じているのですね。小さい頃は容姿だけだと一本化されてしまうので、その言い方が既に公の事情なのですね。だからよっぽどの信念、もしくは根幹的な人間関係でもない限り、根底が一本化されてしまい、自立した個我としての運用が出来ないのだと思うのです。谷川俊太郎さんもお父君が谷川徹三さんでしたしね。しかも詩人として一本化すると言うのはほかの可能性をすべて閉ざしてしまう事なので、よほどの勇気が無いとできない事だと思いますし。
0すごく失礼なことを承知で言うんですが、これは詩ではないなと思いました。主張はごもっともですし、文章としても読みやすく筋が通っているのですが、徹底的に思想を表明するための簡潔な文章になっていて、新聞のコラムや入試国語の評論文を読んでいるように感覚でした。詩を書く人が言語表現をした以上詩であると言う考え方もあり、もちろんそれは正しいのでしょうが、じゃあ詩人じゃない人がこれを書いたらどう映るのかを考えるとやはりコラムであり論文だなと感じてしまいます。
0提言として読むと、これは新しい意見ではないと思うので、最後の一文の「こんな新たな視点」は気になりました。ひょっとして「ジェンダー」のように真面目に学問的に取り扱われてないことを指摘したのかもしれませんが、美醜の問題は(たぶん)古来から様々な芸術でテーマになっていると思う。文学でも。もっというと、これは僕みたいな容姿ド底辺は常に感じていることだし、たぶんイケてる方々におかれましては、僕みたいなのを見るたびに内心ホッ胸をなでおろしているはずで、大体の人は気付かないのでなく目を瞑っているだけのように思う。そうでないなら問題の本質は、あまり物事を深く考えないタイプの人そのものにあり、彼らにとっては美醜だけにとどまらず、倫理も政治も宗教も科学技術発展にすら興味ないんじゃないだろうか。 でも! 非常にコンパクトな文量の中に主張と根拠が効率的にまとまっていて読みやすく、説得力のある文章と構成だと思いました。「こんな新たな視点」に違和感を覚えることがなかったら、前半部分の反論(かみついてスミマセン)なんて全く思いつきもせず、手放しで受け入れたような気がします。
0今、AIを使って所謂ビューティーバイアスを解消する実験がおこなわれているらしいですよ
0とはいえ。 自分と他人を比べて「等しい」とも「劣っている」とも「優れている」とも考えてはならない。それらは新たな苦しみを生むからである。 釈迦 スッタニパーナより という事かと。 どのような視点、基準をもって容姿や能力を見るかによって平等にも不平等にもなってしまいますし。 そのような容姿、能力、性格、特性の差はできてしまうものです。どうしようもないかと。 そして容姿も能力も失われてしまうものです。それはどうなるのでしょうか。 財産や容姿は不変の宝ではない。求めるものは得られぬ事が多い。しかし、道だけは心のままである。これを実践すれば、心を害するものは何もない。 釈迦 マハーパッリニパーナより 道と言える方向、それを各自邁進することが対応策になるのではと。 厳密には言えない、それぞれが見い出すものですが。
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